第38話 救出④
溝鼠人間と化したキンクはハルビアに襲いかかった。
ハルビアはガエビリスの手首を放して飛び退いた。
ラットマンは前歯をガチガチと噛み鳴らしてハルビアに追いすがる。
その凶暴さは下水道に住み着くドブネズミそのものだった。ドブネズミには下水道の清掃作業中によく遭遇したが、奴らはいつも大胆不敵で人間を恐れず、おまけにすばしこくて獰猛だった。奴らは恐ろしい地底の野獣だった。今のキンクは奴らがそのまま巨大化したかのような存在だった。
だが、当然ハルビアもただ追われているだけではなかった。
素早い攻撃を紙一重でかわしながら、真鍮のロッドから次々と魔術を撃ち出して反撃していた。そのうちの一発がラットマンの眉間に命中し炸裂した。ざっくりと肉が裂けて血が飛び散ったが、ラットマンは止まらなかった。その歯がハルビアの肩口をかすめた。白いコートが食いちぎられて赤く染まった。
「おのれっ!」
ハルビアは血に染まる肩を押さえて苦痛にうめいた。
「二例目の変身型の魔物……。できれば生きたままサンプルを持ち帰りたかったがやむを得ん。殺すか」
その両目がスッと細められ、凶暴な光を宿した。
俺はハルビアとラットマンが戦っている隙にローチマンに変身し、下水の中に倒れたガエビリスを抱え上げて通路の上に運び上げた。
触角でガエビリスに触れて意思を伝達した。
「…キンクの奴、すごいな。あんな力を秘めていたのか。これなら勝てるんじゃないのか…」
しかし、ガエビリスは俺を見上げて首を振った。
「早くしないと彼が危ないわ。鼠の代謝は人間よりもはるかに早い。そのおかげでラットマンは人間離れしたスピードで動き回れる。だけどその分エネルギーの消耗も激しい。それが仇となって彼がこの姿で戦えるのは短時間だけ。もってせいぜい二、三分くらいなの。だからワタナベさん、協力してくれる?」
「…わかった…」
ラットマンとハルビアは合流室の中を飛び回って戦い続けていた。
ハルビアがラットマンの突撃を寸前で回避した。ラットマンは壁に突っ込み、削岩機のような前歯でコンクリートに大きな穴を穿った。
この機会にハルビアはラットマンから貴重な距離を稼ぐ事ができた。
ハルビアは真鍮のロッドを水平に構えると、その両端を握り軽くひねった。かちりと音がして留め金が外れ、ロッドの中から金色に輝く刃が姿を現した。
仕込み杖だった。
甲高い励起音を立てて刃に魔力が充填されはじめた。
壁に開けた穴の中からラットマンが飛び出し、下水のしぶきをまき散らしながらハルビアめがけまっしぐらに突き進んでいった。ハルビアは刃を構えじっと立ったままだ。しかし噛みつく寸前でラットマンの本能が危険信号を鳴らした。ラットマンはハルビアから慌てて飛び退いた。
次の瞬間、それまでラットマンがいた空間を金色の光が弧を描いた。
ラットマンは下水の中に着地した。
直接刃に触れなかったにも関わらず、その全身は血塗れになっていた。
「惜しかったな。当たっていれば即死だったのだが」ハルビアが言った。
ラットマンは黒目しかない目でハルビアを睨み、なおも飛びかかろうとしたが、ついに力尽きて下水の中に倒れ込んだ。
ラットマンの針金のようだった体毛が硬さを失い、高圧ホースのようだった太い尻尾も張りを失った。変身で亢進した代謝がラットマンの体内のエネルギーを消耗し尽したのだ。
ハルビアはとどめを刺すため、横たわるキンクに歩み寄った。
ハルビアの頭上に閃光が走り破裂音が響いた。ガエビリスの爆破魔術だった。
だがハルビアにはまったく通用しなかった。
爆発の瞬間、ハルビアの周囲に一瞬だけ光の壁のようなものが出現して盾となったせいだ。
ガエビリスの方を振り向き、ハルビアが言った。
「すでに言ったと思うが、君の攻撃は私には通用しな……」
その時、俺はハルビアの後頭部に飛び蹴りを放った。
不意を突かれたハルビアは吹っ飛んで下水の中に倒れ込んだ。俺は金色の刃を握ったハルビアの左手を渾身の力で何度も踏みつけ、そして蹴飛ばした。刃は手を離れて下水の中に転がった。そして左手を押さえて苦痛にうめくハルビアの背中めがけ、渾身の力で拳を振り下ろした。骨が砕ける感触があった。ハルビアは下水の中に頭から突っ込んだ。
これで拷問の借りは返したぞ、ハルビア総隊長。
俺は意識を失ったキンクを肩に担ぐと、ガエビリスと一緒に合流室から出る水路を目指して一目散に走り出した。
「危ない所だったわね」
「…キンクは助かりそうか…」
「今、治癒魔術で傷を塞いでるところ。上手くいくといいけど」
「…あの攻撃は何だったんだ。刃が当たってないのに傷だらけに…」
「わからない。さらに追手が来るかもしれないし、とにかく急ぎましょう」
「……逃がさん」
背後から恐ろしい声が聞こえた。
ハルビアは再び立ち上がっていた。純白だったコートは下水と血に汚れてまだらとなり、丁寧に撫でつけられていたオールバックの髪は乱れ、顔に垂れかかっている。その白い顔を流れ落ちる血の筋が彼の表情をさらに鬼気迫るものにしていた。
背中を殴りつけた時、たしかに背骨が砕ける感触があったはずだが。この男は不死身なのか。
いったいどこに隠し持っていたのか、ハルビアは両手に二本の真鍮のロッドを持っていた。どちらもすでに刃が引き抜かれている。
「きえええええええええ」
甲高い奇声を発しながら、ハルビアは高々と跳躍し俺たちに襲いかかった。
その時だった。
突然、俺たちが逃げ込もうとしていた水路の中から巨大な鉄球が飛びだした。
ハルビアは空中で身をひねったがかわしきれなかった。鉄球はハルビアの右腕の骨格を粉砕し、その身体を部屋の向こうへと弾き飛ばした。
水路の中の闇の中から、巨大な影がのっそりと姿を現した。
真っ黒い岩石の塊のような巨体、そして頭から伸びる二本の巨大な角。
ミノタウロスだった。
「ガエビリス、ワタナベ、無事か」
ミノタウロスは地の底から響くような低い声で言った。
「お前たちは逃げろ。後は俺に任せろ」
「…あ、ありがとう、えっ~と………」俺はミノタウロスの名前を思い出せなかった。
「俺の名はド・ゴルグだ。ワタナベ、お前が囮となってくれたおかげで俺は夜警どもから逃げることができた。今度は俺がお前を守る番だ。さあ、早く行くんだ、奴がまた来るぞ」
見ると、鉄球に合流室の端まで吹っ飛ばされいたハルビアが再び立ち上がっていた。
「…あいつはゾンビなのか…」
「たぶん、負傷時に自動で発動する治癒魔術だと思うけど。たしかに不死身さはゾンビ同然ね」
ガエビリスが言った。見ている間にも鉄球に骨を砕かれてぶら下がっていた右腕が修復し、関節が元通りに動くようになった。
「ひゃひゃひゃひゃひゃ!さすがに今のは効いたなぁ。それにミノタウロスまでお出ましかぁ。やっぱりお前の仲間だったかワタナベェ」ハルビアが言った。
ミノタウロスのド・ゴルグが吠えた。
「おい夜警、お前の相手はこの俺だ。行くぞ!」
「やれやれ、こりゃ厄介な相手だ。たまらんたまらん、一時撤退だ」
ハルビアはコートを翻すと、元来た下水道に姿を消した。
「…助かった…‥のか…」
俺はようやくほっと一息をついた。
その途端、どっと疲労がのしかかってきた。今の戦闘だけでなく、夜警本部に監禁されていた時のぶんまでもが。俺は立ちくらみを起こした。
だが倒れそうになった俺を力強い手が支えてくれた。さらに肩に担いでいたキンクの重みが消えた。
ド・ゴルグだった。
「よくぞ耐えて生き延びたな、ワタナベ。さぞかし辛かったであろう、あとは地下の街でゆっくり休むがよい」
「…ありがとう……ございます…」
「歩けるか。何ならキンクと一緒にお前も担いでいってやろうか」
「…いえ、大丈夫です。自分で歩けます…」
見かけによらず、ミノタウロスのド・ゴルグ氏は気配りのできる人のようだった。




