第37話 救出③
異臭騒動が勃発したとき、俺は直感的に悟った。
これこそがガエビリスが予告した救出作戦に違いない。
スライムに託して伝えられたあのメッセージには救出の日時も内容も記されていなかったが、きっと彼女の事だから思いもよらぬ奇想天外な作戦に違いないだろうと予想はしていた。
俺は排水口から湧き上がる悪臭に耐えながら事態のなりゆきを見守った。やがて本部全体が騒がしくなり、牢の見張りをしていた当直の隊員も持ち場を放棄して退避していった。
目に痛みを覚えるほど悪臭が強くなってきて、このままでは硫化水素で中毒死してしまうのではないかと心配になり始めた頃だった。床下から立て続けに重々しい衝撃音と振動が伝わってきた。そして独房の外の廊下の床が陥没し、大きな穴が開いた。
一段と強い異臭とともに、穴の中から姿を現したのはガスマスクを装着した黒髪の女だった。
「お待たせ。助けに来たわよ、ワタナベさん」
彼女はマスク越しのくぐもった声で言った。
「ガエビリス!」
「今からその牢屋を壊すわ。危ないから後ろの壁際に下がってて」
彼女は一連の呪文を唱えてから、爆破魔術で鉄格子を吹き飛ばした。俺は十日ぶりに牢獄から解放された。
「さあ、これを着けて」彼女は俺にガスマスクを渡した。
俺は床に開いた穴に飛び込んだ。岩盤を掘りぬいた短いトンネルを滑り下りていくと、その先は下水道に繋がっていた。だが、
「これは……」
そこに溜まっていたのは下水ではなくドロドロとした汚泥だった。水の流れはなく、水面には茶色い汚泥の塊が分厚い層をなして浮いていた。俺は下水道清掃作業中に何度も見かけた光景を思い出した。そう、大量発生したスライムで詰まった下水道はこんな感じだった……。
「スライムで詰まらせたのか?これが悪臭の原因?」
「その通り。ここから下流側50メートルあたりにスライムの塊を急成長させてふさいだの。夜警本部から出た数日分の排水が全部溜まって腐ってるわ。さ、急ぐわよ」
彼女は臆することなく汚泥の中に踏み込んだ。その足が膝までずぶずぶと腐敗した泥の中に沈み込んだ。俺もすぐに後に続いた。一歩一歩足を引き抜きながら、下水道の勾配を上に向けて登っていった。
少し歩いたところで、もう一人の人物が待ち構えていた。
「よう、ワタナベさん、元気にしてたか?体は大丈夫か?俺ずっと心配で心配で……」
その癇に障る声はキンク・ビットリオだった。
「ああ、俺は大丈夫だよ」
「なあ、ひどい目には遭わなかったか?拷問とかされなかっただろうな?」
「キンク、話は後にして。とにかく急いで」
俺たちはガエビリスの誘導に従って何度も下水道の合流点で曲がり、狭い配管に潜りこみ、マンホールに備え付けのはしごを伝ってさらに地下深くに降りていった。
長期の監禁で衰弱していた俺は足をもつれさせながらも、何とか彼らに着いていった。
「もうここまでくれば大丈夫よ」
そう言って彼女はようやく立ち止まった。
そこは四角い部屋だった。三面の壁に開いた複数の下水管から流れ込んだ下水が部屋の中で合流し、残る一面の壁に開いた大きなトンネルから流れ出ていく。合流室と呼ばれる空間だった。壁の高い位置にある下水管のひとつから下水が滝となって降り注ぎ、はるか頭上のグレーチングの隙間から、地上の光が弱々しく射しこんでいた。俺たちに驚いたドブネズミの家族がチュウチュウと甲高く鳴きながら狭い配管の中に逃げ込んでいった。
「二人とも、本当にありがとう」
俺はやっと彼女たちに礼を言うことができた。
「いえ、助けるのが遅くなってごめんなさい。スライムを大量発生させるのに予定より時間がかかって……」
彼女たちが立てた俺の救出計画は次のようなものだった。
まず、下水管から小さなスライムを送り込み、夜警本部内の状況を調査した。そして俺が監禁されている独房の場所を突き止めた。そこは地下室で、幸いなことに下水道から数メートルだけトンネルを掘れば到達できる場所だった。
地下室に向けてトンネルを掘る作業には、地下の街に住む仲間たちが何人も進んで協力してくれたという。トンネル掘りが地下室まで二メートルほどを残して完成すると、彼女は計画を次の段階に進めた。
夜警本部の地下を走る下水管内にスライムを大量発生させたのだ。
彼女が魔術で増殖を促進したスライムはどんどん膨れ上がっていき、数日後には巨大な塊となって下水の流れをせき止めた。せき止められた下水に含まれる汚物や死んだスライムは急速に腐敗し、強烈な悪臭を発生させた。その臭いを配管を通して夜警本部全体に送り込んだのだ。
悪臭とガスに驚いた夜警隊員たちが逃げた後で、ガエビリスは地下室の床を爆破魔術で吹き飛ばして穴を開け、本部内に侵入した。
「わざわざ俺なんかのために、みんな本当にありがとう。ありがとう……」
「いいのよ。だって私たちは仲間でしょう。助け合うのは当然よ」
深々と頭を下げる俺の手を取り、ガエビリスは言った。
「そうだぜ、水臭いこと言うなよワタナベさん。あんただって身を挺して俺とミノタウロスのおっさんを逃がしてくれたじゃないか。勇気ある行為にはこっちも報いないとな」キンクが言った。
そうだ。やはり彼女たちは信頼できる仲間だったのだ。
ハルビア総隊長などにそそのかされて、一瞬だが彼女を疑ったことを俺は深く後悔した。
「ありがとう……」
思わず目頭が熱くなった。俺は慌てて涙が溢れそうになるのをこらえた。
「さあ、帰りましょう。私たちの街へ」
俺たちが合流室をあとにしようとしたその時だった。
「……待ちなさい」
ここ数日間、耳にしみ付いたその声は聞き間違いようがなかった。
はるか頭上からのかすかな光に照らされたこの部屋の中に、その白い影はゆっくりと姿を現した。
「ワタナベくん、一体どこへ行くつもりかな」
ハルビア総隊長は白い歯を見せて笑った。
「…………」
「それにご友人も一緒のようだね。ひとつ私に紹介していただけないだろうか」
その時、俺の横に立っていたガエビリスが急に動いた。
次の瞬間、閃光とともに爆音が轟いた。爆破魔術だ。
だがハルビアの姿はすでにそこにはなかった。
気がつくとハルビアはガエビリスのすぐ前に立っていた。右手に握った真鍮のロッドの先端を彼女の鳩尾に突きつけて。
ロッドの先端が白熱光を放ち、ガエビリスは後方に吹き飛ばされた、かに見えたがその姿は空中でかすんで消えた。
「幻影か!」
ハルビアがくるりと後を振り向くと、流れる下水の中に彼女が立っていた。
「こっちよ。来て」そう言ってニヤリと笑みを浮かべた。
彼女の周囲の水面が沸き立ち、ざばざばと水面を割って何かが次々と飛びだしてきた。それは素早い動きでハルビアに襲いかかった。
ハルビアはロッドを一閃。魔術で生み出された空気の刃が無数の首を切断した。
ヒュドラだった。
続けてハルビアは水中に向けて雷火魔術を発射。水底に潜むヒュドラ本体の心臓を正確に破壊して一撃で絶命させた。さらに自己再生による復活を防ぐため分解魔術を追加発動させた。
ヒュドラはぶすぶすと煙をあげてくすぶりながら水中に消えた。
高い天井から数十匹の骨蜘蛛が尻から糸を吐きながら音を立てずに降りてきた。蜘蛛はハルビアの全身に取りつこうとしたが、空気の刃で一瞬のうちに切り刻まれた。時間稼ぎにさえならなかった。
ハルビアは逃げる間も与えずガエビリスの手首をつかんだ。
「きみは中々の魔道士のようだが……私には通用しない。少し眠っていてもらおうか」
そう言うと、手のひらで彼女の顔面を覆おうとした。
その時、キンクが叫んだ。
「ガエビリス!許可を!封印を解く許可を!はやく!」
「許可?いったい何のことだキンク。何を言ってる」俺は言った。
「ワタナベさん、あんたには黙ってたけど、俺にも力があるんだよ。ただ、発動にはガエビリスの許可が必要で……」
「力?何の力だ」
「早く、ガエビリス!」キンクが再び叫んだ。
一瞬ためらった後、彼女はささやいた。
「……キンク・ビットリオ、我が名において汝の真の姿、『貪る者』への変化を許す……」
「よし来たあ!」
突然電撃に貫かれたかのようにキンクの背筋が弓なりに反った。
「きいいいいいいいいいいい」
キンクの口からは甲高い奇声が漏れだした。
そして次の瞬間、それはいっせいに起きた。
キンクの全身から褐色の粗い毛がばっと生え、顔面が凄まじい変形を開始した。まるで顔面がめくれ上がるようにして口が拡大し、上下四本の巨大な門歯がぎしぎしと音を立てながら伸びていった。手の指からは鋭い鉤爪が生え、そして尻からは太く長い尻尾が伸びた。
変化はたったの三秒で完了した。
「溝鼠人間……か」
キンクは弾かれたようにハルビアめがけ飛びかかった。




