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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅰ部
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第36話 救出②

 シャモスが全裸のままシャワー室から廊下に飛びだした時、夜警本部全体で混乱が起きつつあった。

 その原因は悪臭だった。下水のような、あるいは卵の腐ったような強烈な悪臭が、本部の建物全体に充満し始めていた。


 右往左往しながら夜警隊員たちは口々に言った。

「何だこの臭いは」「ガスだ」「下水臭いぞ」


 そして、そのうち誰かが口にした。

「メタンガスだ」「爆発するぞ」

「メタンだけじゃない。硫化水素も出てる。窒息するぞ」

「外に逃げろ!」「早く逃げろ!急げ!」

「脱出だ!緊急事態だ!」

 黒衣の隊員たちは先を争って外の夜の中へと逃げ出した。


 避難した隊員たちは三々五々寄り集まり、本部の建物を取り巻いて心配そうに様子を見守っている。出入り口からは次々に隊員や職員、黒いローブを着た科学者が転がるように走り出てくる。その中にはシャモス隊員の姿もあった。たまたま通りがかったラウスが自分の着ていた黒いコートをとっさに渡してくれたおかげで、彼女は大勢の目に裸を晒さずに済んだ。廊下にいた何人かには一糸まとわぬ姿を見られてしまったが。


「いったい何が起きたんでしょうか」

「調査研究部が何かやらかしたんじゃないのか。きっとそうだろう」

「失礼な、我々は何もしていないぞ」

「いや、たぶん下水管が逆流したのかもしれんな」

「たしかに下水臭かった」

「おい見ろよ、あの娘、コートの下に何も着てないぞ」

「シャモスちゃんだ」

「くくく、俺は見たぜ。あの娘のおっぱい。最初は素っ裸で廊下にいたんだ。あの乳は見物だった……」

「マジかよ」「くそー俺も見たかった」


「こら!静かにせんか馬鹿者!各部署ごとに点呼を取れ。逃げ遅れた者がいないか確認しろ!」

 ボズム大隊長が怒声を張り上げて、ざわめく隊員たちをまとめはじめた。命令を受けて隊員たちはただちにとりとめのない私語を中断し、所属ごとに整然と隊列を組んで人数確認を行っていった。そして各部署から彼のもとに、全員無事に退避している旨の報告が続々と寄せられた。


「うむ、行方不明者はなしか」

 ボズム大隊長はあごに手をやり、整列した隊員たちを見渡しながら次に取るべき行動を思案していた。何しろ夜警本部に悪臭が充満するなど想定外の事態だ。悪臭の成分は現時点では不明。臭いからして硫化水素やメタンガスの混合物の可能性が高い。ならば発生源は下水か。だとしたらまずは……。

 

「……大隊長、申し上げます」

 一人の隊長の声がボズム大隊長の思考の糸を断ち切った。

「どうした」

「ハルビア総隊長殿の姿が見えません」

「なんだと!まったくあの人は!」

 その時だった。本部の建物内に閃光が走りくぐもった爆発音が轟いた。




 無人と化した夜警本部の廊下を、ハルビア総隊長は白衣の裾を翻しながらひとり歩いていた。

 その顔の下半分は、ガスマスクで覆われている。


 悪臭が漂いはじめた時、彼は執務室で書類を作成してた。突然のガス騒動にもハルビアは動じることはなく、机の引き出しからガスマスクを取り出して顔面に装着した。


 やれやれ、何て落ち着きのない連中だ。こんな程度の事で慌てふためくとは対魔物部隊である夜警(ナイトウォッチ)の名が廃る。魔物や怪物はつねにこちらの予想を超えた攻撃を仕掛けてくるというのに。

 いかなる想定外の事態にも備え、現象を冷静に観察し、適切な対処法を選択し、そして迅速に処理する。冷静沈着こそが夜警隊員に求められる資質。最近の隊員は腕っぷしが強いだけの乱暴者や、多少魔術が得意なだけの生意気な青二才ばかりだ。嘆かわしい。



 ハルビアは地下室へと階段を下りていく。その先にあるのは調査研究部の生物実験室だ。変身型のローチマン、ワタナベが収監されているのもそこだった。

 彼はワタナベが属する組織が彼を奪還するか、あるいは口封じのため殺しに来る可能性は高いと踏んでいた。おそらく、この悪臭はその組織の攻撃だ。

 まったく皮肉なものだ、とハルビアは苦笑した。

 殺虫剤に含まれるピレスロイドという成分はゴキブリを隠れ場所から追い出す効果がある。今回はわれわれ夜警の方が殺虫剤を嗅いだゴキブリのようにまんまと隠れ場所から追い立てられたのだ。それもゴキブリ人間の仲間に。


 ハルビアが階段の最下段を踏んだ時、地下室に白い閃光が走り爆発が起きた。衝撃波とともにコンクリートの欠片がばらばらと飛んできた。自動的に発生した護身結界がハルビアの身を護った。爆発で照明が消えると地下室は真っ暗闇となった。

 しかしハルビアの人工的に強化された網膜にはその場所の様子がはっきりと視えた。

 それは完全に予想通りの光景だった。

 ワタナベを収容した独房の檻が根元からちぎれて吹き飛んでいた。そして房の前の廊下は大きく崩れ、奈落の底へと落ち込んでいた。房の中にワタナベの姿はなかった。その残骸さえも。


 可燃性のガスに引火して爆発が起きた、ように見える。

 だが、それは見せかけ、偽装に過ぎないことは明白だった。

 檻は元々強力な魔物を調査研究のため閉じ込めるよう設計されていて、魔術強化された鋼材は単なるガス爆発程度では破壊不可能だ。あらかじめ檻の外側から強化魔術を解除したのでなければ傷一つつけられない。魔術の専門知識をもった何者かの仕業だ。

 それに床の崩落の仕方。爆発で穴が開いたにしてはまるでトンネルのようで不自然だ。

 これらを隠すために逃亡後にガスに火を放ち、証拠隠滅を図ったか。


「……追うか」

 小さくつぶやくと、ハルビア総隊長は単身で敵が潜むやもしれぬ穴の中に身を投じた。その整った顔にはかすかに笑みが浮かんでいた。

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