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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅰ部
33/117

第33話 夜警本部にて

 ミノタウロスの逃亡を助けるためにおとりとなり、夜警に捕らわれて二日が経った。


 俺は牢獄にいた。

 俺を閉じ込める鉄格子は魔術で強化が施されていると見え、蹴ろうとも殴ろうともびくともしない。鉄格子の隙間から外へ触角を伸ばそうと試みたが、見えない魔力の壁に阻まれて外へ出す事ができなかった。


 房内にあるのは排水口と、食べ物を収めた容器のみだ。

 昨夜、空腹に耐えかねそのドロドロした流動食を口にした。ひどく生臭くて酸味もあり、地下の街に降りる以前の俺だったなら口に入れた瞬間に吐き戻していただろう。だがローチマンと化して変化した俺の味覚はその味を悪くないものとして受け止めた。

 床の隅にぽっかりと開いた排水口がトイレがわりだった。プライバシーも何もあったものじゃない。しかし生理的欲求には抗えず、屈辱的なことに俺は今朝、その穴の上で排便せざるをえなかった。


 まったくひどい扱いだ。

 だが、俺は今、醜悪なローチマンの姿なのだ。誰も人間として接してくれるはずがなかった。

 ひょっとして人間の姿に戻れば、夜警も態度を改めてくれるかもしれない。

 地下迷宮探索から戻ったあの時、俺は深く眠り、目が覚めたらローチマンの外皮が剥がれて人間の姿に戻っていた。今回も眠れば人間に戻るかもしれない。俺は眠ろうとした。だが、断続的で浅い眠りを繰り返すだけで熟睡することはできなかった。そして目覚めるたびに自分がまだローチマンのままであるのに気づいて失望した。



 その時、独房の前の通路を足音が近づいてきた。


 また、科学者の連中か。俺はうんざりした気分になった。

 俺はこの牢獄に入れられて以降、何度となく検査されてきた。魔術で体を麻痺させられた後、俺は体中の写真を撮られ、サイズを計測され、体液を採取され、さらには鋭利な器具で組織サンプルまで切り取られた。さらには甲高い電子音を立てる精密機器らしきものでスキャンまでされた。

 黒いマスクとローブを着けた科学者たちは俺に言葉をかけることもなく、一個のサンプルを前にしてただ黙々と作業を続けた。


 ほどなく、房の前の通路に一人の男が姿を現した。

 意外なことにそれはいつもの科学者たちではなかった。


 初めて見る人物だ。

 誰も彼もが黒衣をまとう夜警本部の中で、その白衣はあまりにも異質だった。

 長身でほっそりとした体躯の初老の男で、白い衣装とその優雅な雰囲気はまさに鶴のような印象を与えた。コートだけでなく、シャツそしてズボンや靴、手袋まで、身に着けているものすべてが純白だった。肌も白い。だがオールバックに撫でつけられた頭髪は艶やかな黒髪で、さらにその唇は紅でもさしているかのようにやけに赤かった。


 檻の外に立った白い男はガラスのレンズのような黒い瞳で俺を凝視した。

 その鋭い眼光はこれまで科学者たちに向けられてきたどんな分析機器よりも正確に俺の秘密を見抜くだろう。俺は居心地が悪くなり、部屋の隅に身を縮めた。



「……こちらにきたまえ」白い男が高い声で言った。

 夜警に捕獲されてから、初めてかけられた言葉だった。

「きみが言葉を理解していることはわかっている。きみは人間だろう」

 思わず触角が震えた。

「これまで観察した行動パターンを総合すると、明らかにきみは人間だ。人前での排便を恥じるゴキブリがどこにいるかね。くくく……」男は声を殺して低く笑った。


 俺は起き上がると、檻を挟んで白衣の人物の前へと歩いていった。


「これは失礼した。自己紹介がまだだったね。私はハルビア。ここの総隊長を務めている。よろしく。君の名前は」

「…………」

 触角を触れさせることができない現状では、相手に意思を伝えるすべがない。

 少し考えてから、俺は流動食の残りを指に着け、床に文字を書いた。

「ワ・タ・ナ・ベ……。それが君の名か」俺はうなずいた。


「なぜこのような姿になったのか、教えてくれないかね」

 俺は再び床に書いた。「まずはここから出してください」

「残念ながら、それには応えられないな。君は貴重なサンプルなのだ。さあ、紙とペンをそちらへ渡そう。口がきけないようだが、ペンがあれば筆談もはかどるだろう」

 ハルビアは鉄扉の小さな開口部を操作し、紙とペンを房内へ押し込んだ。



 ハルビア総隊長との面談、否、取り調べはしばし続いた。

 彼は俺がローチマンになった経緯を執拗に探り出そうとした。だが俺は「わからない」「よく覚えていない」で通した。駆除対象種族もたくさん住んでいる地下の街につながる情報を、夜警に漏らすわけにはいかない。

「ふむ、素直に調査に協力してくれる気はないようだね。仕方がない……」


 そう言うとハルビア総隊長は檻の鉄扉を解錠し、背を縮めて房内に入ってきた。

 脱出のチャンスだ。

 俺はハルビアに飛びかかった。

 だが次の瞬間、天地が逆さまになり、俺は頭から床に叩きつけられた。体が動かない。魔術で麻痺させられたのか。


「私がそんなに甘いと思ったかね。まったく」

 床に倒れた俺を、ハルビアは冷酷な黒い瞳で見下ろした。


「ふむ……やはり普通のゴキブリ人間とは違う。普通種がクロゴキブリだとすれば、鎧のような外骨格に覆われた君はさしずめオオゴキブリといったところか。興味深いね」


 ハルビアの白手袋に包まれた手には、いつの間にか注射器が握られていた。

 そして流れるような動作で俺の脇腹に注射針を突き立てると、シリンジを押し込んで琥珀色の液体を注入した。

 灼熱の痛みが血流に乗って全身に広がってきた。まるで溶けた鉄を流し込まれたような凄まじい痛みに全身が激しく痙攣する。


「心配することはない。この薬剤に実害はないよ。ただ神経組織を激しく刺激するだけだ。この薬剤は体内で分解されないので解毒剤を打つまで痛みはずっと続く。ただし私の質問に素直に答えれば、解毒剤を打ってあげよう。さあ、答える気になったかね」


 俺は思わずうなずいてしまった。

「うん、よろしい。ではまず第一の質問だ。君をこんな姿に変えたのは誰かね」

 脳裏にガエビリスの姿が浮かんだ。それだけは言うわけにはいかない。俺は首を左右に振った。


「では、どのようにして変えられたのかね。改造手術か、あるいは変異魔術か。それとも細胞移植かね」

 俺は震える手で紙に書いた「……何かを飲まされた。臭い液体を」

「詳しく」

「臭い液体を飲んだ。しばらくは何も起きなかった。俺は一度死んだ。復活したら変身していた」

「よろしい」

 ハルビアはポケットから小さなアンプルを取り出すと中身を注射器に吸引し俺に打った。打たれた瞬間、嘘のように激痛は消えた。

 だが、それは長くは続かなかった。ほんの十秒程度で激痛は甦った。

 苦痛にのたうち回る俺を見て、ハルビアは目を細めた。

 この男、明らかに拷問を愉しんでいる。

「まだ終わってはいないよ。さあ、続けるとしようか」



 拷問を終え、ハルビアは去っていった。

 結局、俺が大した情報を持っていないと判断したのだろう。

 魔術による麻痺は解除されていたが、長時間の尋問に憔悴しきった俺は身動きすることができなかった。


 房内と廊下の照明は落とされていた。たぶん夜になったのだろう。どこにも窓がないので外の様子はまるでわからない。廊下の突き当りにはまだ明かりが点き、当直の隊員が見張りに務めていた。


 俺は地下の街については洩らさなかった。それにガエビリスの存在も。それだけは救いだった。

 だが、もし明日以降もこんな拷問が続くのなら、果たして俺は秘密を守り通せるのだろうか。

 体力を使い切った俺は、失神するように眠りに落ちていった。


 意識が闇に包まれる寸前、排水口の穴からちっぽけなスライムが這い出すのが見えたような気がした。

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