第28話 地上へ
地上!
なんて久しぶりなんだろう。
その日は灰色の曇り空だったが、それでも光のまぶしさに目が慣れるまでかなり時間を要した。
視覚が順応すると、目に飛び込んできたのは周囲の風景の色鮮やかさだった。空き地に生い茂る雑草の緑や、錆びた機械の赤茶色の美しさに俺はいちいち感動した。
風が吹いてきて、運河の水面に細かなさざ波を立てた。
なんて爽やかな風だろう。これも地下の街ではなかったものだ。俺は深呼吸した。空気にはかすかに重油とヘドロの臭いが混ざっていたが、こんなに美味い空気を吸ったのは人生で初めてだった。
「ビャックション!ったくチキショウー」
隣りでキンク・ビットリオが盛大なくしゃみをした。そして、立て続けにさらに三発。
「これだから地上は嫌なんだ。鼻水とくしゃみが止まらねぇ」
そう言うと、服の袖でごしごしと鼻汁をぬぐった。
俺たち二人がいるのは運河沿いの倉庫街だった。時刻は夕方の五時頃。まもなく日が暮れようとしていた。ミノタウロスの手がかりを求めて、俺たちは夕暮れ時の倉庫街を歩いた。ほとんどの倉庫や工場は放置され、不気味なほど人の気配がない。通りは静まりかえり、倉庫の屋根から剥がれかけたトタン板が風に吹かれてきいきいとわびしい音を立てるばかりだ。
「あっちに誰かいる」キンクが言った。
ずっと向こうの通りを、二人の人物が歩いていた。遠くてよく見えないが、身にまとう黒いコートだけは判別できた。
「夜警だ」
やはり彼らもミノタウロスを探しているのだろう。
しばらく歩くと、舗装が砕けている場所に行き当たった。
まるで道路に向かって等間隔に砲弾が撃ち込まれた跡のようだが、これがミノタウロスの足跡なのだろう。足跡は道なりに点々と続いている。その後に沿って歩いていくと、砕けた舗装の周囲に乾いた血痕らしきものが大量に飛び散っていた。道路に沿って建つ倉庫の外壁には大きな穴がいくつも開いている。おそらく、ここで夜警とミノタウロスが交戦したのだ。ここで繰り広げられた戦闘の激しさを想像し、俺は言葉を失った。
足跡は運河に向かってまっすぐ続き、そこで途切れていた。
ここから先、ミノタウロスはどこに消えたのか。
ついに日が沈み、町は薄闇に閉ざされた。
「よし、捜索開始だ」
俺は人気のない工場の裏手の路地に潜りこむと、そこで服を脱ぎローチマンへと変身した。
二度目の変身は一度目よりも簡単だった。変身の瞬間に押し寄せてきためまいと不快感はすぐに去っていった。
キンクが懐からミノタウロスの毛束を取り出した。
「この匂いです。わかりますかワタナベさん。どっちから匂います?」
キンクごときに警察犬扱いされているようで若干むかついたが、俺は触角を長く伸ばし空気中を漂う匂いを嗅ぎ取った。
夜警との戦闘跡からは同じ匂いが濃厚に漂っていたが、俺はそれに背を向けミノタウロスが飛び込んだ運河の水面に近づいた。水面付近まで触角の先端を垂らす。
運河からは同じ匂いは嗅ぎ取れなかった。やはり水中では匂いは洗い流されてしまったのだろう。
俺たちは運河に沿って歩いていった。触角をアンテナのように振りかざし、わずかな匂いも嗅ぎもらさぬよう意識を集中した。
上流に向かって歩いていた時、雨が降り始めた。
振りはじめは小降りだった雨はまたたく間に雨脚を激しくし、ついには叩きつけるような豪雨になった。
「うひゃあ、捜索中断だ」
俺たちは廃工場の屋根の下に逃げ込んだ。
雨は匂いを洗い流す。捜索には不利な状況だった。俺は棘だらけの手で繊細な触角をしごいて雨水を拭い取った。工場の屋根を打つ雨音ががらんとした室内に響きわたった。すでに機械も撤去され何も残っていない工場内は寒々としていた。
「うう、さぶい。濡れちまった。あんたは寒くないのか、ワナタベさん」
俺は口がきけないので、触角の振動でキンクに意思を伝えた。
「…だいじょうぶだ。だけどまいったな。雨で匂いが消えてしまう…」
「でもよ、焦ったってしょうがねぇよ。やむまでここで雨宿りするしかねぇよ。……ハックション!これだから地上は嫌なんだ。うぅ」そう言ってキンクは鼻をすすった。
たしかにキンクの言うとおりだ。
仕方がないので、俺たちは雑談をしながら雨がやむのを待った。一方が音声で、もう一方が振動という奇妙な会話ではあったが。周囲で見る者がいたらキンクが独り言をいっているように見えただろう。
雨はやまなかった。それどころかときおり雷鳴も混じり、いっそう激しさを増した。
はじめはとりとめのない世間話だったはずだが、いつしか話題は俺の意に反しデリケートな方向に転がっていった。
「ところでワタナベさん、あんたも被矯正者だったんだよな」
「…まあな…」
「あんたは何やったんだ。なぁ、教えてくれよ」
「…あまり言いたくないな。やめようぜこんな話…」
「なぁ教えてくれよ。おれ前から気になってたんだ。あんたが地上で何の罪を犯したか」
「…………」
「恥ずかしがらなくていいんだぜワタナベさん。みんなああ見えて上では結構えげつないことしてきたんだぜ。教えてやろうか。たとえば菌園のルーコフだけどな、あのおっさんは」
「…もういい黙れ…」
「行政局のなんたらいう部署のえらいさんだったらしいけどさ、当時部下だった亭主持ちの女職員に惚れちまってな」
「…聞きたくない…」
「しつこく付きまとった挙句、ある日とうとうトチ狂って亭主とガキを殺しちまったんだぜ。ぎゃははは」
その時だった
「誰かいるのか!」
鋭い声とともにまばゆい光の筋が廃工場内に射しこんだ。俺たちはとっさに壁際に身を伏せた。
白い光線は室内を探るようにしばし左右に動いていたが、やがて窓の向こうに去っていった。
壁を通して、外で話す男女の声が聞こえた。
「やはり誰もいないようだな」男の声が言った。
「たしかに人の話し声が聞こえた気がしたのですが。雨音を聞き違えたのかもしれません。すいません」女の声が言った。少女のように甲高い声だった。
やがて声は雨の中を遠ざかっていった。
外の人物が十分に離れたと確認できるまで、俺は壁際でじっと息を殺していた。
「…黙れと言ったら黙れ。次に勝手に騒いだら殺す。わかったな…」
俺の腕の下で床に押しつけられたキンクが必死にうなずいた。その身体からは濃厚な恐怖の臭いが立ちのぼっていた。
「わかった。ワタナベさん。すまなかった。だから手をどけてくれ息が苦しい」
キンクは苦しげに小声で言った。俺はキンクを自由にした。
「…夜警はまだこの辺をうろついている。この姿を見られるわけにはいかないからな…」
ようやく雨は霧雨ていどの小降りとなり、俺たちは工場の外に出た。
さきほどの豪雨の雨水が流れ込み、運河の水かさが増していた。水面にゴミや油が浮いている。
その時、俺の触角がある匂いを捕えた。するどい獣の臭気。
「…匂いだ。どこか近くにミノタウロスがいる…」




