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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅰ部
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第26話 地下生活者たち

 地下迷宮を発見した後、俺たちは再び洞窟を通り、下水道を経由して坑道跡の地下の街に戻った。


 ガエビリスの計画では地下迷宮に至るルートを拡張、整備してから、ダンジョンを追われた魔物たちを迷宮へと移住させるとのことだった。


「ありがとう、ワタナベさん。後のことは私に任せて。あなたはゆっくり休んでちょうだい」

 そう言うと、彼女は俺に背を向けて何処かへ立ち去った。

 実にあっさりとしたものだった。彼女にとっての目的を達成してしまえば俺なんてどうでもいいのだろうか。



 キンクも帰り、後にはローチマンと俺だけが残された。

 ローチマンもその場から去るそぶりを見せたので、俺は慌てて言った。

「ちょっと待ってくれ!……帰り道が分からない」


 地下の街に来てから、おそらく数か月が経っていたが、この迷路のような場所で俺がちゃんと把握できているのはほんの一部分に過ぎなかった。何度も訪れたガエビリスの部屋でさえ、自分一人ではたどり着けないだろう。いつも彼女に連れられての訪問だった上に、毎回違う道を通っていたせいだ。それはともかく、特徴に乏しくどこも同じように見える地下通路で一人で迷わず目的地に到着できるほどまだ俺はこの場所に慣れていなかった。


 ローチマンことリゲリータは言った。

「今のあなたなら、たぶん道はわかると思いますよ。ですがいいでしょう。一緒について来てください」


 リゲリータと歩いていると、すぐに彼の言った意味がわかった。

 人間の姿の時と違い、ローチマンと化し新たな感覚に目覚めた今、これまで知覚することができなかった様々な情報を周囲の環境から読み取ることができるようになっていた。

 たとえば道に残された匂い。つい最近人間が通った跡に沿ってはっきりとその匂いが残っていた。道にしみついた幾筋もの匂いの痕跡は個人ごとに異なり、そして、その中には自分自身の匂いも含まれていた。自分の匂いを辿っていけば家まで帰るのは容易だろう。


「これは便利だな」

「そうでしょう。視覚だけに頼っていてはここで暮らしていくのは困難ですよ」



 戦いの興奮と迷宮発見の高揚感が落ち着いてくると、さすがに自分の身に起きた異変のことが気になってきた。


「ちょっと聞きたいんだが」

「何です?」

「単刀直入に言うが、俺は元に戻れるのか?」

「…………」リゲリータの触角が微かに揺らいだ。

「……まさか、ひょっとして無理なのか?」

「何とも言えません。一生そのままかもしれないし、一時間後に変身が解けるかもしれないし……」


「そう言えば、そもそもお前はどうなんだ?戻れるのか?」


 リゲリータはガエビリスの弟だ。ということは、本来はローチマンではなくダークエルフのはずだ。だが俺はリゲリータが変身を解いてダークエルフの姿になっているのを一度も見たことがなかった。嫌な予感がしてきた。


「ああ、僕の場合は事情が違うんです。だからワタナベさんの今後を考えるうえではあまり参考にはならないかと」

「どういうことだ?」


 それに対する返答は意外なものだった。

「僕の場合、戻る体がないんです。ダークエルフの肉体が」

「何だって?」


「ぼくは小さい時、重い病気にかかり命を失いかけました。全身の細胞が少しずつ死んでいく奇病でした。治癒魔術も効かない病に対し助かる道はただ一つ、ローチマン細胞の全身への移植。ぼくの細胞が死んだ隙間を埋めるようにローチマン細胞は増殖していき、ついにはぼくの体は完全にローチマン細胞と置き換わりました」


「そうだったのか。それは……大変だったな」

 俺はリゲリータの意外な過去に言葉を失った。


「いえ、そうでもないですよ。物心ついた時にはすでにローチマンでしたからね。ダークエルフだったのなんて幼児の頃で、その時どんな感じだったのかまったく記憶に残ってませんからね。

 ワタナベさんの場合、あくまで一時的な変身で、全身の細胞がローチマン細胞と完全に置換されたわけじゃないと思うのです。だからきっと元に戻れますよ。大丈夫ですよ、安心してください」

「そうか、ありがとうな」


 そうこうしているうちに、俺の住み家に着いた。

「じゃあ、ぼくも帰ります。お疲れでしょうし、ワタナベさんもよく休んでください」

「うん、そうさせてもらうよ。じゃあな」

 リゲリータは暗闇の向こうに去っていった。



 我が家に這いもどった俺はぶっ続けでかなり長い時間眠った。


 目が覚めた途端、俺は違和感を覚えた。眠る前に比べ周囲がぼんやりとしている。ほどなく匂いと空気の流れが鮮明に感じ取れないせいだと気づいた。それに全身がむずがゆい。俺は何気なく自分の腕を掻いた。

 腕を覆う硬い甲殻がパリパリと砕けて剥がれ落ちた。


 俺は驚いて腕を見た。黒い甲殻の下からやわらかい人間の皮膚が覗いていた。

 改めて周囲を見ると寝床じゅうに黒い破片が散乱している。

 手のひらで顔を撫でる。……まぶた、その下の柔らかい眼球、鼻、くちびる、そして歯。

 顔はすでに人間のものに戻っていた。

 全身を手探りで確認すると、完全に人間の形態だった。ローチマン化した時に背中に生えた翅や、脇腹に生えた短い中肢は跡形もなかった。体の数か所に残っていた甲殻も触れるとすぐに剥がれた。

 どうやら、俺は眠っている間に脱皮して、人間に戻ったようだった。


 俺はホッと安堵の吐息をついた。

 だが、ローチマンだった時のあの圧倒的な力もなくなってしまったのだろうか。それを思うと手放しで喜ぶことはできなかった。



 だが俺の危惧は杞憂に終わった。

 ローチマン化していた時ほどではないが、匂いや空気の動きに対する鋭敏さはある程度残っていたし、それは身体能力に関してもそうだった。壁や天井を走ることはできないが、素早さや腕力は以前よりも強化されていた。

 それに、ローチマンへの変身に関しても再び自分の意志で自由にできそうな感触があった。だが差し当たり変身する必要性に迫られる出来事もなかったので、俺は人間の姿のまま地下での日々を過ごした。



 鋭敏な嗅覚のおかげで道に迷う恐れもなくなったので、俺は以前より自由に地下の街で行動することができるようになった。もうガエビリスやリゲリータに同行してもらう必要はなかった。


 それまでただの薄汚いホームレスの集団としか思えなかった地下生活者たちに対する見方も変わった。彼らは実に個性豊かな人々だった。俺は彼らのうち何名かと顔見知りになった。


 まず、ゴミ漁り人のクビシュ。彼は数日おきに地上に出向き、地上の街に捨てられたゴミや残飯を回収し、それを他の地下生活者たちに売っていた。彼のように定期的に地上と行き来しつづけている地下生活者は少数派で、地上の物資を地下にもたらしてくれる貴重な存在だ。


 ルーコフは地下の菌園で働く農夫だ。かつては行政局の高官だったらしい。たしかに身に着けているボロ服には昔は高価な品だったことを忍ばせる名残りがあった。

 地下生活者たちの食料は地上からもたらされる残飯だけでは当然足りないので、地下で自給自足されていた。その一つが菌園だ。

 下水道の沈殿物や地下生活者の排泄物を発酵させ分解したものを栄養源にして、食用になるキノコを地下で栽培していた。これが地下生活者たちの主食となっていた。俺も以前、ガエビリスから渡されたそれを正体を知らずに食べていた。味は多少かび臭いが食べられないことはない。

 ルーコフ他数名が菌園を維持していた。地下の街には数か所の菌園があり、それぞれ違った種類の菌を生産していた。人手が足りない時、俺も時々作業の手伝いに駆り出された。



 まもなくわかったことだが、地下生活者には人間でない者もかなりの割合で含まれていた。

 地上の街ではエルフなどごく一部の温和な種族にのみ人間と同等の権利が付与されていたが、それ以外の多くの非人類の知的種族は忌避され、差別されていた。それどころかコボルトやゴブリン、トロル、ヴァンパイアにいたっては公式に夜警(ナイトウォッチ)の駆除対象種族のリストに入れられていた。ダークエルフについては言うまでもない。

 ヘネルス・ドゥ・ヴィルマウシュタン氏はヴァンパイアだ。浮世離れした美貌の持ち主で、一様に薄汚い地下生活者の中で彼だけは身なりを常に清潔に保っている。物静かで言動はいつも紳士的。彼がどのようにして吸血鬼としての欲望を満たしているのかはわからない。一度、地下の散策に誘われたことがあったがそれは丁寧に辞退させていただいた。



 そんなある日のことだった。俺の住み家にふらりとガエビリスが現れたのは。

 会うのは迷宮探索以来、数か月ぶりだった。彼女は言った。

「ワタナベさん、頼みがあるの。聞いてくれる?」

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