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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅰ部
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第23話 ローチマン

 俺は背中の翅を激しくばたつかせながら怪物めがけて飛びかかった。

「おおおおお!!!」

 心の中で雄叫びを上げる。しかしその叫びは声となって口からほとばしらない。なぜなら変容した俺の肉体からは声を発する機能が失われていたからだ。

 怪物は飛来する俺に気付き、脚の一本を振った。


 俺はあっけなく下水の中に叩き落とされた。


 何をやってるんだ俺は。

 自分が何に変身したのか、もう分かってるだろうに。

 全身を覆う光沢ある黒い外骨格、長い触角、そして棘だらけのほっそりした手足……。

 俺はゴキブリ人間に、ローチマンに変身したのだ。

 飛ぶのが下手なゴキブリが敵に向かって飛んでどうする。ゴキブリならもっとゴキブリ向きのやり方がある。 


 俺は下水から身を起こすと、姿勢を低くしたまま下水道の壁に向かって猛然と突っ走った。目前に壁が迫っても速度を緩めることなく突き進み、その勢いのまま壁の上を駆けあがっていった。どう動くか頭で考える必要などなかった。身体が自動的に反応し最適な動作をしてくれた。


 怪物は壁を這い上がる俺を狙い攻撃を放ったが、今度は一撃も食らわなかった。当然だ。ゴキブリにとって垂直の壁面など床の上と変わらない。

 天井に達した俺は怪物まで一気に距離を詰めると、わらわらとうごめく長い脚を回避してその胴体の上に取りついた。


 胎児の顔が振り向き、不快げな表情を浮かべた。

 硬い外骨格に覆われた全身の中、柔らかくひ弱そうな赤子のような頭部。いかにも見え透いた弱点めいたこの部分だが、俺の新たな感覚はそれが単なる見せかけに過ぎないことを見抜いていた。これはただの末端の感覚器。失ったとしても生命に支障がない付属部分に過ぎない。

 本当の弱点はここだ。分厚い胸部装甲の下に守られた神経節。そこを破壊しなければこいつは死なない。


 俺は胸部装甲の体節の隙間に手をかけると、渾身の力を込めて押し広げた。

 最初、装甲はびくともしないように見えた。しかし、力を加え続けているとしだいにその間隙が広がり、隙間にピンク色の柔らかな組織が覗きはじめた。

 俺は拳を固め、無防備に晒された体節を殴りつけようとした。


 その時だった。俺は巨大なハサミに両腕ごと胴体を締め付けられた。怪物がサソリのように尾部を弓なりに曲げ、その末端についたハサミで攻撃してきたのだ。万力のように強烈な力で締め付けるハサミからはいくらもがいても脱出できなかった。はさみに並ぶ鋭い棘が体に食い込み、体液がにじみだした。このままだと胴体を切断されてしまうだろう。

「キシキシキシ……」

 勝利を確信したのか怪物は再び不快な声で笑った。

 

 だが、勝ち誇るのはまだ早かった。

 俺は頭から伸びる長い触角を鞭のように振るい、だらしなく伸び広がったままの体節の隙間に打ち付けた。鋼鉄のワイヤー同然に強靭な触角は体節の肉をスパッと切り裂いた。そして開いた傷口から触角の先を怪物の体内に潜りこませると、その奥深くに潜む白い神経節を探り当ててズタズタに破壊した。


 胴体を締め付けていたハサミの力が緩んだ。俺はハサミから脱出すると、怪物の脚に捕えられていたガエビリスを抱きかかえて下水道の床に飛び降りた。

 一拍遅れて怪物の巨体が落下し、背後で盛大な波しぶきを立てた。

 半分がた下水に没した怪物はピクリとも動かなかった。


 ガエビリスはまだ意識を失ったままだった。



「……すごいです。初回の変身でここまで到達するなんて」

 その時、「声」が聞こえた。しかしそれは音波で伝達される普通の声ではなかった。匂い物質により伝達された情報を俺の新しい脳が「声」と認識したのだ。


「ローチマン、生きていたのか……」

 俺も匂い物質の「声」で言った。

 ローチマン同士だと匂い物質によるコミュニケーションができるようだった。この新しい体では声帯を使った音声言語よりも自然な意思伝達法に思えた。

 俺は壁際に座り込んだローチマンに歩み寄った。その横ではキンクが気を失ったまま寝かされていた。そこは下水道に沿って走る点検通路で、汚水に濡れずに済む場所だった。


「ふふ、今じゃあなたも立派なローチマンですよ」

「それもそうだな。ところで、お前は大丈夫なのか?」

 ローチマンは怪物に全身五箇所を串刺しにされていたはずだ。


「ええ、かなり痛みはありますが、命に別状はありません。何せゴキブリですからね、生命力は折り紙つきですよ」

「ならよかったが。キンクとガエビリスが心配だ。早く手当てをしないと」


「姉さんなら心配いりませんよ。傷口はもう塞がってるし、もうすぐ意識を取り戻すはずです。姉さんなら魔法を使えるのでキンクさんを手当てできます」


「それならよかっ、……ん?姉さん!?」

「はい。リビナ・ガエビリス、僕の姉さんですよ」

「え、ちょっと待て……、ローチマン、お前の名前は?」

「リビナ・リゲリータ。ガエビリス姉さんの弟です」

「弟!?」

「そうですよ。僕にもちゃんと名前があるんです。これからは『ローチマン』じゃなくて名前で呼んでくださいね。あなただってもうローチマンなんですから!」



 その時、俺の腕の中でガエビリスが身じろぎし、薄らと目を開いた。

「……ついに目覚めたのね。ワタナベさん」

 彼女は音声言語で言った。彼女はローチマンじゃないので匂い言語は使えない。俺は彼女の手の甲に優しく触角を触れさせ、振動で言葉を伝えた。糸電話を通して話すように拙く不便に感じられた。


「大丈夫か、ガエビリス」

「もう大丈夫よ、ダークエルフは人間より丈夫にできてるから。心配かけてごめんなさい、不覚だったわ」

「でも、こうやって男の人に抱かれてるのも悪い気分じゃないわね。もう少しこのままでいさせてちょうだい」

 そう言ってガエビリスは俺に向かって悪戯っぽく微笑んだ。

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