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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅰ部
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第2話 朝の風景

 部屋にたった一つの窓から、ぼんやりと朝日が射しこんでいた。

 俺は眠い目をこすり、寝床の上に身を起こした。

 薄暗く狭苦しい部屋だった。ロープからぶら下がる洗濯物。コンクリートむき出しの壁。一枚の古びたヌードポスター。

 昨夜は仕事が終わるとすぐ、作業員仲間たちの誘いを断り、足早にこの部屋に帰ってきた。一人でヤケ酒を煽っているうちにいつの間にか寝入ってしまったようだった。二日酔いで頭が痛い。


 俺は虫のようにのっそりと寝床から這い出すと朝の支度にとりかかった。

 小便をした後、床に脱ぎ散らかしたままの下着を拾い上げて履き、物干しロープから作業着を外して袖を通す。集合住宅の屋上には物干し場があったが、そこに行くためにはやばい連中が入居する上層階を通り抜けて行かざるをえないので気が進まなかった。そういう訳で洗濯物はいつも部屋干しで、生乾きでじっとり冷たかった。


 部屋を出る間際、俺はちょっと振り返って自分の部屋を一瞥した。四畳半ほどのじめっとした独房。仕事で疲れ果てた俺がちょっと酒を飲み、たまにマスをかき、そして眠るだけの場所。仕事場とこの部屋を往復するだけの毎日。この仕事を始めてからずっとそんな日々が続いていた。もう四年になる。俺はこの泥のような日常にすっかりはまりこんでしまっていた。



 俺が住んでいる下層民用の集合住宅密集地から職場は徒歩でニ十分ほどだ。

 昨夜の全市民参加の大規模祝賀晩餐会の名残は街のあちこちに残されていた。路上にぶちまけられた吐瀉物、割れた酒瓶と散乱する食べ物の包み紙、そして街角で眠りこける泥酔者たちの姿。


 バス停留所に並ぶエルフの工員たちの脇を通り抜ける。町を覆う祝賀ムードにも関わらず、彼らは陰気な顔をしていた。これから工場での過酷な勤務が待っているのだ。工場には勇者の凱旋など関係なかった。昼も夜もなく稼働し続け、製品を造り続ける一個の巨大で無慈悲な機械。工員たちはその奴隷だった。俺は連中に親近感を覚えた。


 汚いどぶ川にかかった橋を渡る。

 俺が下水道清掃作業員として働いているのに、皮肉にも俺の住むこの地区の下水道敷設率は低く、いまだに多くの家が生活排水を河川に直接垂れ流していた。どぶ川からは腐った卵の臭いが立ち上り、真っ黒な藻が濁った流れに揺らめいていた。もちろん魚の影などない。


 橋を渡ると、商店や事務所、工場などが雑然と立ち並んでいる下町に入る。

 食品店で朝食用の焼きたてのパンを買い込んだ後で、俺の目はある光景を捉えた。

 道の真ん中で通勤中の人々が立ち止まり、ちょっとした人だかりができている。一体何があったんだろう。


 好奇心を引かれた俺は人の輪の中に潜りこんだ。そしてすぐに後悔した。眼よりもまず先に鼻が気付いたからだ。その独特のなまぐさく不快な臭気に。


 そこには異様な生物がうつ伏せで横たわっていた。

 大きさは大人と同じくらい。赤茶色の外骨格は濡れたようにてらてらと光っている、足の数は六本。そのうち後ろ足が特に発達している。頭からは1メートルほどの長い触角が伸びている。

 ローチマン、すなわちゴキブリ人間。

 奴らは都市のごみ溜めや廃屋、それに下水道に生息していて、残飯を目当てに夜間に街を徘徊する習性を持つ。俺も一度だけ下水道清掃作業中にちらりと見かけたことがある。

 

 見た目に反してローチマンは特に悪さをしないが、見た目が気持ち悪すぎるので駆除対象生物となっていた。

 黒く油光りする翅がないから、こいつはたぶん終齢幼体だろう。腹部の大半が吹き飛ばされ、白い臓物があたりの建物の壁に飛び散っていた。少し離れたところで撃たれ、ビニールテープのような長い腸を引きずりながらここまで逃げてきて力尽きたようだった。見ると、とげだらけの脚の先がまだ細かく痙攣している。やったのは夜警(ナイトウォッチ)の駆除部隊に違いない。


 通行人たちは入れ代わり立ち代わりやってきては、遠巻きにして眺め、眉をひそめて去っていく。

 ほどなく地区の清掃員たちが来て死骸を撤去し、現場を清掃し始めると、俺たち野次馬たちは追い散らされた。


 朝から不快な光景ばかり見てきたせいで、いつしか食欲が失せてしまっていた。せっかく買った焼きたてのパンに手を付けないまま俺は職場へと直行した。




「ったく、これっぽっちしか来てねぇのかよ。仕方がねぇ屑どもだな。あいつらクビだ」

 作業員たちを前にして、親方こと清掃作業所長のガノトが濁声を張り上げた。

 祝賀会の翌日ということもあり、今朝は欠席が目立った。ひどいことにいつもの半分くらいしか出勤していない。大方朝方まで飲んで騒いで今も酔いつぶれて寝ているのだろう。どうせなら俺もサボればよかった。


「えー、今日の作業は、第八地区の雨水排水路の浚渫(しゅんせつ)だ」

 雨水排水路とは雨水を河川に流すための水路で、生活排水などの汚水を流す下水道とはまた別系統の水路だ。基本的に雨水しか流れ込まないので汚れはひどくない。ただし雨水と一緒に流れ込んだ砂やゴミが溜まっているので、定期的にそれらを取り除く必要がある。それが今回の浚渫だった。



 俺たちはマンホールから地下の雨水排水路に降り立った。

 広がりのある空間に水音が反響した。足元には浅く水が張っている。ヘッドランプの光をあたりに向ける。レンガ組の壁面が目に入った。水路は幅5メートルほどのアーチ型で、かなり昔に作られた代物のようだ。こびりついた泥と丁寧で重厚な造りが歴史を感じさせる。今日は静かだが、大雨の時には大量の水がここを濁流となって流れるらしい。


 水路の底にはたんまりと砂と泥が堆積していた。泥だけではなく、空き瓶や木の枝など様々なゴミも散乱していた。いったいどうやって流れ込んだのかと思うような、車の車輪や自転車の残骸などの大きな物体も泥に埋もれていた。スコップで泥をすくい、土嚢袋に詰めて搬出する。大きなゴミも運び出す。額に汗がにじみだす。


 単調な作業に、俺の思考は目の前の現実を離れてあらぬ方向に浮遊しはじめた。

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