表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅰ部
15/117

第15話 堕ちたる者

 ローチマンの後に続き、俺は排水溝の中へと潜りこんだ。

 

 ローチマン。わかりやすく言えば直立二足歩行する巨大なゴキブリの怪物。なぜ、こんな不気味なモンスターに素直に従う気になったのか。自暴自棄になっていたのもある。だがそれよりも、さっきのメッセージから俺に対する本心からの思いやりと共感が感じられたせいなのかもしれない。それこそ今の俺が最も切実に求めていたものだった。


 俺のすぐ前を行くローチマンの背中には、真っ黒で大きな翅があった。こいつは成体なのだ。俺がついてこられるように速度を落として移動している。

 やがて排水溝の天井は鉄格子の蓋からコンクリートに変わり、あたりは真っ暗闇になった。ローチマンは構わずに進んでいく。ためらう俺の手に再び触角が触れた。


(…しんぱいしないで。このまままっすぐついてきて)

「ええい、もうどうにでもなれ」

 俺は前にいる得体の知れない怪物に全てを委ね、暗闇の中に踏み込んだ。



 排水溝は少しずつ天上が高くなり立って歩けるようになった。やがて別の水路に合流した。そこでは足元を少量の水が流れていた。臭いからして下水だ。流れに沿って進むと大量の水が流れる、さらに大きな水路との合流点に着いた。水路に沿って伸びる通路を上流に向かってさかのぼっていった。

 大きな水路は上流に向かうにつれ幾度も分岐してたが、ローチマンは迷うことなくその都度触角で進むべき方向を知らせてきた。目的地はどこなのか見当もつかないが、そこに向かうための目印がフェロモンか何かで壁に付けられているのだろう。


 いつしか再び狭くなった通路から水はなくなり、またもや四つん這いになって進んでいく。いったい俺はどこに連れていかれるのか。不安がどんどん膨らんできたその時だった。俺の鼻がある臭いをとらえた。下水の臭気とは違う悪臭だ。人間の汗と垢の臭い。この闇の中のどこかに大勢の人間が潜んでいる気配があった。


(…とまって)

 腕に触れるローチマンの触角が振動した。

「どうした?」俺は声を潜めて聞いた。


(…じっとしてて……)

 突然、手に生暖かい液体を塗り付けられ俺はぎょっとした。

「おい!何だよこれ!」驚いて思わず声を上げた。

(…ここからさきにすすむために、どうしてもひつようなの。がまんして)

 ローチマンは手を動かし、油のような液体を俺の胸や顔にも塗り広げていった。ツンとした独特の異臭が鼻を突く。これまで嗅いだことのない臭いだった。


(…これでだいじょうぶ。こっちにきて)

 俺たちは通路の壁に開いた狭い亀裂を潜り抜けた。


 その光景は突然目に飛び込んできた。

 青白い光に照らされた地下の通路に、たくさんの人間が詰め込まれていた。

 地下通路というより洞窟といった方がより適切だろうか。岩盤がむき出しになった狭い通路に、折り重なるようにしてボロをまとった無数の人々が横たわり、あるいは座り込んでいた。

 近くにいた数名が俺とローチマンに気付いてこちらに視線を向けたが、すぐに興味を失って向こうを向いてしまった。とてもまともな連中には見えなかった。


「この人たちはいったい何だ?」

 俺はローチマンに問いかけた。しかし返答はなかった。

 ローチマンは通路の壁に取り付くとそのまま登攀していき、天上に走る大きな亀裂の中に消えた。俺は何の説明もなく、得体の知れない人々の群れの中に一人で取り残された。


「…………」

 この連中を見て、俺は子供の頃のことを思い出した。

 親に連れられて都心部に出かけた時だった。当時の日本は社会福祉が行き届いておらず、大都会の地下街や裏通りには大勢のホームレスが住み着いていた。段ボール小屋の中にうずくまる垢まみれの浮浪者たちは同じ人間とはとても思えず子供心にかなりの衝撃だった。

 今、この地下の洞窟にひしめいている連中はまさにあの時のホームレスたちとそっくり同じに見えた。


 そういえば以前、下水道清掃作業員たちが話していた。

 街の地下のどこかに、最下層の貧民が隠れ住む場所があるという。

 凶悪犯や、精神異常者、その他の社会から追放された人間たちが最後に辿り着く地底の暗黒街。日の光の届かぬそこでは地上のモラルは忘れ去られ、まさに悪の巣窟と化しているという。真偽のほどが定かでない都市伝説の類だと親方は懐疑的だったが、下水道での作業中に不審な人間を見かけたと言い張る者もいた。

 おそらく、それがこの場所なのだ。

 ついに自分は底の底まで堕ちたのだ。これが俺が行きついた人生の終着駅なのだ。

「フフフ……」乾いた自嘲の笑いが口から洩れた。



 その時、通路にうずくまる人々を避けながら、黒い人影がこちらに近づいてきた。

 黒い衣装をまとったその人物は少年のように小柄で痩せていた。くしゃくしゃにもつれた長い黒髪で顔が隠れ、性別さえ定かではない。そいつは俺の前で立ち止まった。


「ようこそ、私たちの街へ……」意外なことにそれは女の声だった。

 乱れた髪をかき上げて、そいつは素顔を露わにした。

 美しい女だった。膚は病的に青白いが目鼻立ちは整っている。そして何よりその大きな目が印象的だった。長いまつ毛に縁どられた、まるで深い底無し沼のような青緑色の瞳。その瞳がまっすぐに俺を見つめてくる。


「まずは、歓迎の盃を」女はにやりと笑みを浮かべて言った。

 女の手には小さなガラスの瓶が握られていた。その中を満たしているのは、あぶくの浮いた白く濁った液体だった。


「これを飲めば、あなたは私たちの仲間になる」

 俺は女から勧められるままに瓶を受け取った。しかし口元へと運んだ時、瓶の口からあふれ出る強烈な悪臭が鼻を刺した。その瞬間、脳裏に閃いたイメージは、腐敗ガスでパンパンに膨らんで水面に浮かぶ鯉の死骸、濡れて髪の毛の絡んだ更衣室のマット、それにたっぷりと牛乳を含んだまま教室の片隅で腐敗した雑巾。それらを絞り、混ぜ合わせて濃縮した抽出物。飲むのを想像しただけで吐き気が込み上げてきた。


「うっ……これは……何だ」

「変化の霊液。あなたの心と体を束縛から解放し、新しい世界へと生まれ変わらせてくれる」

「無理だ。飲めない……」

「たしかに匂いはキツイわね。じゃあ、これならどうかしら?」


 女は俺の手から瓶を取ると、中身を口に含んだ。

 そして反応する間も与えず俺に抱き付くと唇を重ねた。

 深海の軟体動物のように冷たく柔らかい唇の隙間から、口移しで俺の口内に液体が注ぎ込まれた。


 味蕾がその味を知覚した瞬間、俺の全細胞がその液体に対し拒絶反応を起こした。反射的に口内の液体を吐き出した。だが少量を飲み込んでしまった。

 駄目だ。この液体だけは絶対に飲んではならない。俺はあわてて喉に指を突っ込み、げえげえと空えずきを繰り返した。だが結局飲んでしまった液体を吐き戻すことはできなかった。なぜだか取り返しのつかない事をしてしまった感じに襲われ、俺は茫然とした。


「安心して。つらいのは最初だけだから」

 女は顔を拭いながら言った。俺が吐き出した液体が顔にかかったのだ。


「これは複雑な魔術をいくつも溶かしこんだ魔法液なの。もうすぐあなたの心と体に変化が現れ、あなたは自由になれる。なにも恐れる必要はないわ」


 その時だった。俺の身体の奥深くで熱が生じた。熱は体幹から体の抹消へと静かに広がっていく。そして背骨に沿って駆け上がり、頭蓋の中を温かさで満たしはじめた。目に映る光景が輪郭を失い、溶けて歪んでいく。

「どうやら、効きはじめたようね」


 女は衣服を脱ぎ捨て裸体を露わにした。そして震える俺の手を取ると、自らの裸の胸に押し当てた。手のひらの下で女の小ぶりな乳房が柔らかく潰れた。どんどん体が熱くなっていく。もう耐えられない。

 俺はかきむしるようにして衣服を脱ぎ捨てると、目の前の得体の知れない女に抱き付いて床に押し倒した。身を焼くような欲望が、不安や疑念、嫌悪を消し去り、そして理性も吹き飛ばした。もう何もかもどうでもいい。俺の下で大きく足を開いている女だけがすべてだった。獣のように唸りながら貪りつく俺に女が囁くように言った。


「……わたしはリビナ・ガエビリス。よろしくね、ワタナベさん」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ