第11話 暗転
俺は水龍の死骸のそばに一人取り残されていた。
ふと心細くなり、クルゼンの後を追おうとした時だった。
「……?」
俺は言い知れぬ違和感を覚えた。何となく、ヒュドラの死骸の形がさっきまでとは少し変わっているような気がした。だがそんなはずはない。怪物は半部以上の首を吹き飛ばされ、体内を魔力で破壊されて死んだはずだ。俺は気のせいだと必死に否定しようとしたが、違和感は消えなかった。やはり違う。
まさか、再生しているのか?
「…………」
静まり返った下水道。
ときおりクルゼンがシャモスを呼ぶ声の遠い反響が聞こえてくるのみ。
声が途絶えると、聞こえるのはさらさらと下水が流れる音だけになる。
俺の耳は、それに混じる秘かな音を捉えた。ぴちぴち、ふつふつ、ぐるるる……。
すぐ近くから聞こえてくる。魔物の死骸の方向からだ。額に脂汗がにじんだ。
俺は勇気をふりしぼり、水龍の死骸を見つめた。
表皮の下で、湿った音を立てて何かが蠢いていた。そして、ちぎれた首の断面からは真新しい頭部が生えようとしていた。やはり、怪物は生きていた。いや、死から甦ろうとしていた。
クルゼンに助けを呼ぶべきか。いや、逆に地上に逃げるべきだろうか。
違うだろう、何言ってやがる。馬鹿か俺は。
今こそチャンスが到来したのだ。俺の手で、この怪物を今度こそ完全に葬ってやるのだ。そのためにわざわざアイテムを準備してきたのだ。
俺は背嚢に手を突っ込み、中身を探った。
中から取り出したのは、直径10センチほどの金属製の球体だった。銅色の表面全体に精緻な文様が刻印されている。
魔法球。内部に魔術を封じ込めた球体。封印を解くだけで誰でも魔術を放つ事ができる。俺のように魔術の素質のない人間でも。
昨日、裏通りの怪しげな店で手に入れた代物だった。内部に封印されているのは強力な火炎魔術だ。店主によると、標的を完全に焼き尽くし灰にするまで決して消えない地獄の炎だという。このような危険なアイテムの使用は夜警をはじめとした治安維持機構や軍などに限定され、一般市民には厳しく禁止されていた。しかし都市のブラックマーケットでは広く流通しギャングの闘争や犯罪行為などに悪用されていた。
俺は内部に破滅の力を封じ込めた球体を握りしめた。
胸が高鳴る。唾を飲み下す。掌に汗がにじむ。
水龍の再生活動はより活発化していた。新しい首が次々と芽吹くように胴体から伸び、胴体はぶるぶると激しい痙攣を繰り返している。いまやそれは完全に生命を取り戻していた。
その太短い脚が動いた。そして、再び生えそろった無数の首が波打ちながら俺に近づいてきた。
クルゼンはまだ魔物の復活に気付いていない。
俺にやれるのだろうか。
こんな化け物を、本当に俺一人で倒せるのだろうか。
いや、やってやる。やってみせる。
俺だってあいつと同じ、選ばれし転移者なんだ。それを証明してみせる。
俺は渾身の力を込めて魔法球を怪物に放り投げた。
金属球は魔物の胴体にぶつかった。
しかし何も起きない。まさかの不発。
「え?そんな……」
使い方に間違いはないはず。ただ標的にぶつければ封印が解けて魔法が発動する。店のおやじはそう言っていた。それとも、これは偽物だったのか。俺はまんまと騙されたのか。
はじめはゆっくりと這っていた水龍は、一足ごとに力を取り戻していく。
魔法球はあと2個あった。たまたま1個目が不良品だった可能性もある。
俺は2個目の魔法球を投げつけた。さらに不発。
そして最後の球。これが通じなかったら俺は復活した怪物に貪り食われて死ぬだろう。俺は祈りを込めて最後の球を投擲した。
命中した瞬間、カシンと金属音を立てて封印が解除された。内部に封じられた地獄の火炎が解放され、紫色の炎が水龍を包み込んだ。
水龍は甲高い悲鳴をあげた。全身にたちまち炎が燃え広がり、再生したばかりの組織をまたたく間に炭化させた。新しく生えた頭部が松明のように炎を上げながら崩れていく。
「はは、やったぞ!ははははは!」
俺は歓声を上げた。ついに、この俺が魔物を倒したのだ。
毒々しい紫色の火炎はそのまま水龍を灰にするかに見えた。
しかし、そのとき異変が生じていた。
水龍を完全に焼き尽くす前に、炎の力が衰えた。所詮、安物の魔法球に封じられた地獄の火炎。その程度の代物だったのだ。だが腐っても魔法の炎。火勢は衰えつつも炎は決して消えなかった。
そして、決して消えない炎の焼却力と怪物の再生力、二つの力が拮抗しあった。
それが水龍の再生能力を暴走させた。
怪物は焼かれながらすさまじい勢いで再生しはじめた。腹や背中の炭化した肉から新たな首が伸び、でたらめな位置に新しい脚が生えてくる。それらは生えたそばから焼かれ、その焼けただれた残骸から再び新しい首が無数に芽吹き、手足が伸びた。
水龍の肉体は急速に秩序だった構造を失い、混沌とした肉塊へと変貌していった。
さすがに俺も様子がおかしいことに気付いた。
クルゼンも血相を変えて走ってきた。
「おいお前!何をした!なんだこの炎は!」
その時、水龍の首がしなり、走り来るクルゼンを強靭な鞭のように打ち据えた。
クルゼンの体が下水道の壁に叩きつけられた。そこへ首の打撃がさらに一発。そしてもう一発。クルゼンは伸びてしまった。衝撃の強さのあまり打撃を加えた首自体もずたぼろになっている。
壁にもたれてぐったりとしたクルゼンめがけて、無数の顎が殺到した。怪物たちは炎で焼かれながらクルゼンに喰らいつき、むさぼり食いはじめた。
先ほどまでとは比較にならない凶暴さだった。絶えざる組織の再生は大量のカロリーを浪費する。カロリーの欠乏がもたらす飢えが、水龍を狂ったような捕食へと駆り立てていた。
「う、うああああ」
俺は悲鳴をあげて走り出した。後ろからはくぐもったクルゼンの断末魔の悲鳴が聞こえていたが決して振り返らなかった。
ついにマンホールに着いた。俺ははしごを握りしめ地上に向かって登りはじめた。
だがその瞬間、足首に激痛が走った。
はしごから手が離れ、俺は下水の中に転落した。
右足のアキレス腱がごっそりとえぐり取られてなくなっていた。傷口からは大量の血が噴き出している。怪物にかじり取られたのだ。
マンホールの底で横たわる俺に向かって、かつて水龍だった怪物が突進してくる。
俺は目を固く閉じ、人生最期の瞬間の到来を待ち受けた。
だが、紫の炎をまとって暴走する肉塊は俺になど目もくれなかった。
怪物は俺を弾き飛ばすと、地上に向かってマンホールを駆け上っていった。




