第100話 魔王討伐作戦
俺が正式に勇者と認められたその日から、すべてがめまぐるしく動き始めた。
元監獄の建物、通称「石碑」は魔王討伐の作戦本部へと姿を変え、多くの人間が出入りするようになった。俺とガエビリスはこの建物の内部で寝起きし、魔王との戦いに備えることとなった。保安上の理由から、作戦決行のその日まで外出は許されなかった。
俺には専属の武術指南役と魔術教育係がつけられた。
ローチマンだった時の名残か、俺のすばやさと回避能力は常人よりも優れていたが、膂力と剣術に関してはからきしだった。これまで敵を倒せてきたのもひとえに神授の聖剣の絶大な威力の賜物だったのだ。
毎日、三人の武官による厳しい訓練が続けられた。俺の全身はたちまち打ち身だらけになり慢性的な筋肉痛に襲われるようになった。だが武術訓練が終わっても、そのまま寝床に転がり込むことは許されなかった。次に待っていたのは魔術訓練で、そしてこれこそが真の難題だった。
俺は魔術がまったく使えなかった。それ故に俺は下水道清掃員にまで転落するに至ったのだ。
だが魔王との戦いに魔術は必須だ。いくら神秘的な力を持った聖剣があるとはいえ、それを操る俺が生身の人間の身体能力しか持たないのでは魔王に勝つのは困難だった。
身体強化、防御増強、運気上昇、応急処置をはじめとして必要となる術は多い。もちろん他の人間が魔術をかけることもできるが、その効果は短期間で消える。魔術の効果が切れないよう自分自身で常にバックグラウンド、つまり無意識の領域で魔術を稼働させ続けて、効果を維持しなければならないのだ。
教育係の魔道士たちは手を尽くし、俺の眠ったままの魔力を目覚めさせようとした。だが、数百時間に及ぶ努力の末、魔道士たちはさじを投げるに至った。魔力テストの結果には問題がなく、俺が魔術を使えない原因はおそらく心の問題だと断言した。
精神魔術師なら、魔力発動を妨げているトラウマや認知の歪みを除去することができただろう。だが、かつて受けた精神強制措置のせいでそれも不可能だった。人格改変をともなう精神魔術の使用は生涯に一度が安全限界であり、複数回の施術は脳に回復不能のダメージを与えてしまうおそれがあったのだ。
そこで取られた解決策が、ガエビリスとのリンク形成だった。そしてそれが彼女の身の安全を保証することになった。
俺が勇者に選ばれたとはいえ、この都市の人間にとって彼女は第一種駆除対象種族のダークエルフであることは変わらない。俺が強く反発したにもかかわらず、聖教会と夜警を中心とした一派は彼女の処刑を主張していた。
救いは意外なところからもたらされた。
「お久しぶりね、渡辺君。元気にしてた?」
横井、いや、秋本紗英だった。会うのはローチマンから人間に「治療」された時が最後だった。彼女はますます美人になっていた。この世界に転移する前の、垢抜けなく大人しい少女の面影は欠片もなく、自分の意志で人生を切り開いてきた自信に満ちた女性の姿がそこにはあった。
倉本から直接相談を受けた彼女は、思わぬ解決策を携えて「石碑」にやってきてくれたのだった。
「彼女とのあいだで強い結びつきを作り出して、魔術的に一心同体になるの。そうすれば彼女が使った魔術の効果があなたにも波及するし、彼女の魔力を利用してあなたが魔術を行使できるようにもなるわ。必要な条件は二人の間の心理的結びつきだけど……そっちは大丈夫そうね」紗英さんは俺とガエビリスを見て意味深な笑みを浮かべた。
しかし、当然のことながらリンク形成には代償が伴った。
「もし、あなたたち二人のどちらかが負傷したりすれば、相手にも同一のダメージを負うことになるわ。仮にどちらかが命を落とせば、もう一人も後を追うことになる」
それでもかまわない。俺は即答した。
ガエビリスは、「ワタナベさんの力になれるのなら望むところよ。どのみち私には選択肢はなさそうだけどね。じゃあ、早速やってちょうだい」と紗英さんに対して幾分ひややかに言った。以前、彼女が俺に与えたローチマンの力を紗英さんが取り除いたことに対し、ガエビリスは内心思うところがあるようで、二人の間は少しぎくしゃくしていた。
魔王討伐作戦の具体的な内容は倉本と夜警の隊長たちが中心になって計画した。作戦会議には当然俺たちも参加を求められた。会議の参加メンバーは多岐にわたり、そこには懐かしい面々の姿もあった。
「おい、ワタナベ、おめぇ生きてたのか。しかもゴキブリの次は今度は勇者になっただと?訳がわかんねぇぞ。何なんだよおめぇはよぉ。まったく困った奴だぜ」
野太いだみ声で俺をどやしつけたのは、下水道清掃員の親方、ガノトだった。久しぶりに再会した親方のあごひげには前よりも多く白いものが混ざっていた。
「親方、何度も迷惑かけてしまって、本当に申し訳ありません。二度も無断で長期欠勤してしまって……」
「まあ、今回は事情が事情だ。仕方あるまい。部屋もそのまま残してある。今回の件が片付いたら、欠勤の埋め合わせに前以上にこき使ってやるからな。覚悟しとけよ」
「ありがとうございます」
親方が呼ばれたのは言うまでもなく下水道の案内役を務めるためだ。親方は夜警の魔物掃討に毎回同行し、野村市長主導で実行された、自由騎士団と夜警合同の地下総攻撃にも参加していた。失敗に終わった総攻撃では大勢の犠牲者が出たが、親方は九死に一生を得て地上に生還したという。
「今の下水道は以前とはまるで違うぞ。前も十分危険な場所だったが、今はその比じゃない。言うならば、大口を開けて待ち構えている一匹の巨大な怪物のはらわたに自分から飛び込んでいくようなもんだ。気を抜けば一瞬で噛み砕かれ、消化されてお陀仏だ」
俺たちが戦うことになる魔王の状況は継続的に監視されていて、会議ではその内容も逐一報告された。これまでに集めた情報を総合して描き出された「地の底に潜む魔王」の全体像は驚愕すべきものだった。
南北20キロ、東西50キロにわたって広がるこの巨大都市は、約70パーセントの地域に下水道が敷設されていた。そして、かぎりなく分岐を繰り返して地下に伸びる下水管の総延長は数万キロに及んだ。いまやその内壁は、ほぼ全域が変異型スライム群体によって分厚く覆われていた。さらにスライムは下水道だけでなく、坑道跡やかつての「地下の街」の跡地、その他、地中のあらゆる隙間にも進出し、それらを合算すると都市全体のスライム群体の総重量は、概算で数千万トンは下るまいという途方もない数字が出されていた。さらに、それらすべてが下水管を通じてどこにでも侵入する能力を持ち、同化吸収した生物に擬態する能力を持ち、強力な消化液で獲物を溶かす能力を持ち、そして高度な魔術さえ扱うほどの高い知能を持っていた。
それが魔王。つまりこの俺が挑むことになる敵の姿だった。
本当に勝てるのか。
こんな山のように巨大な敵を相手に俺に何ができるっていうんだ。
話を聞くほどに尻込みしたくなってきた。こんなことなら、都市になど戻らずガエビリスと二人で誰も知らない遠い場所で暮らしていればよかった。そんな思いが幾度も頭をよぎる。「絶対に無理だ」という言葉が口から漏れそうになるのを必死で堪える。あんなに頼もしく思えた神授の聖剣が、まるで爪楊枝のようにか細く、頼りなく思えてきた。
「顔が青いですが、大丈夫ですかな。まぁ無理もないことですが」
魔王について淀みなくレクチャーしていた男が俺を見て言った。白い服、白いコート、白い肌。それとは対照的に黒々としたオールバックの髪と赤い唇。夜警の元総隊長ハルビアの、どこか鶴を思わせる上品で冷酷な雰囲気は以前と何一つ変わっていなかった。
「ですが、心配は無用。勇者はつねに最終的には魔王に勝利してきました。それは過去の歴史が証明しています。勇者ワタナベもきっと、魔王を倒してくれるでしょう」ハルビアは口元にごく微かな冷笑を浮かべて言った。
「改めて思うが、すげえ敵だよな。魔王ユスフルギュスよりでかいじゃん。でもきっと核とかがあるんだろ。それを破壊したら全体が一気に消滅するって感じの奴が。そうだろ、ハルビア博士」
会議に参加していた佐々木が言った。自由騎士団隊長として多忙な倉本にかわり、比較的自由のきく佐々木が全体のまとめ役を務めることも多かった。夜警の総隊長の地位を退いた後、ハルビアは博士として大学で魔物の研究をしていた。
ハルビアは首を左右に振った。
「残念ながら、その可能性は極めて低いと言わざるを得ない。「地に潜む魔王」の肉体をなす変異型スライム群体は、中心を持たない分散型ネットワークを形成しているのです。つまり人間の脳のような、全体を制御する中枢を持たないのです。いわば全体が脳であり、どの断片も独立して生存する能力を有しています。膨大な量のスライムすべて殲滅しなければ、魔王を倒すことはできないでしょう」
「何だよそれ、絶望的じゃないか。お前も貧乏くじを引いたもんだな、渡辺。史上初めて魔王に敗北した勇者になるかもしれんぞ、ハハッ!」佐々木は笑ったが、その笑いに加わる者は誰もいなかった。
「確かに絶望的ですが、これまでの調査から、魔王の活動がとくに活発な領域が二カ所見つかっています。それぞれセクター1とセクター2と仮称しますが、これらの領域では魔王にとって重要な何らかの活動が行われていると推測されます。ここを破壊すれば、魔王そのものの消滅は無理としても、その活動を大幅に妨害できる可能性が高い」
「なるほどねぇ。まずはその二点を攻撃すればいいんだな。ちゃんと聞いていたか、渡辺」
「おっ、おう。大丈夫だ……」
結局、それが今回の会議で俺が発した唯一の言葉になった。会議は勇者の俺を置き去りにしてハルビアと佐々木の主導で進んでいった。後はセクター1と2の詳細についての解説が続き、セクター1と2への二カ所同時攻撃が決定されてその日の会議は閉会した。
「やれやれ、この調子では先が思いやられますな」
会議の後、ハルビアがこちらにやってきて言った。こいつ、わざわざ嫌みを言いに来たのか。
ハルビアは周囲に聞こえぬよう、声を潜めて続けた。
「そもそも、あなたは本当に勇者なのですかねぇ。魔術も使えない上に元ローチマンで、おまけにダークエルフまで同行するとは。なんともはや。何もかもが異例ずくめですな。まぁこれはこれで興味深いですが。後になって偽勇者だったと判明する、というお粗末な結末だけは是非とも勘弁願いたいですな」
「……黙れ。俺には聖剣がある。これが何よりの証拠だ」
「成程ね。ですが、私もひとつ興味深い話を知っていましてね。まあ、情報源は聖教会からは異端とされている怪しげな文献なのですが。それによると、かつて偽聖剣なるものが存在したそうですよ。神授の聖剣の模造品を作ろうと目論んだとある王がいたそうです。完成した剣は見た目は聖剣そのもので、威力も凄まじかった。だがそれも最初のうちだけで、すぐに壊れて使い物にならなくなったとか。百本ほども作られたそうですが、もしかしたら今でもそのうちの一本くらいはどこかに残っていたのかもしれませんな。いえいえ、あなたの剣が偽聖剣だと言うつもりは毛頭ありませんよ。では、私はこれで」
俺は歯を食いしばってハルビアの後ろ姿を見送った。
「会議の時、ずっと黙ってたよね。気が重くなった?」
夜、ガエビリスが聞いてきた。
「うん、まあね。正直、かなりプレッシャー感じてる」
彼女には素直に内心を打ち明けることができた。紗英さんが魔術リンクを形成してくれて以降、心理的なつながりも強化されたようで、彼女の気持ちが直に伝わってくるように思えた。同時に、俺の気持ちも彼女に伝わっているはずだ。嘘をついてもすぐにばれるだろう。
「きっと大丈夫だから。私たち二人で、魔王を倒そうね」「ありがとう」
俺はひとりじゃない。ガエビリスが一緒にいてくれれば、魔王だって恐るるに足らない。
俺は神授の聖剣セクタ・ナルガの漆黒の刀身を見つめながらつぶやいた。「お前は本物だよな、頼むぜ、聖剣」
倉本、佐々木、紗英さん、ガエビリス、それにハルビア博士と夜警隊員、自由騎士団と聖教会が一丸となって作戦計画は細部まで詰められ、準備は整えられ、最終確認が進む中、魔王討伐作戦決行の予定日は容赦なく迫ってきた。
そして、ついにその日が訪れた。




