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異世界下水道清掃員  作者: 白石健司
第Ⅰ部
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第10話 夜警の力

 一瞬のことだった。

 シャモスの足に喰らいついた蛇が、まるで伸び切ったバンジージャンプのゴムが一気に収縮するように彼女を闇の中に引き込んだ。

「くそっ!シャモス!」クルゼンが叫ぶ。


 俺たちの足元にもウナギの群れのようにくねりながら、無数の蛇が迫っていた。蛇はくわっと大きく口を開き尖った牙をむき出しにした。あわや噛みつかれるかと思ったその時だった。

 ぼん、と湿った破裂音がした。見ると、足元で蛇の頭がバラバラに砕け散っていた。潰れた頭部の残骸を引きずりながら、残った胴体がするすると撤退していく。


 クルゼンの右手には、一振りのロッドが握られていた。

 金色の光沢を放つ真鍮の杖。夜警(ナイトウォッチ)の力と権威の象徴。かすかな共振音をともない、ロッドの魔力が励起されていく。

 再びロッドの一撃。残っていた数匹の蛇の頭が続けざまにボンボンと内部から破裂し、破片を飛び散らせた。蛇どもは俺たちの周囲から逃げ去った。


「すごい……」俺は息を呑んだ。これが、夜警(ナイトウォッチ)の力か。

 クルゼンが毅然として言った。

「私はこれからシャモス隊員の救助に向かう。君はマンホールから地上に戻り本隊に連絡してくれ」

「……えっ、あ……」俺は一瞬、返答をためらった。


 クルゼンの命令に従い、即座に地上へと向かうのが正しい行動だ。それはわかっている。彼はひとりでも十分にその圧倒的な武力で魔物を倒してのけるだろう。俺は連絡役に徹するべきなのだ。

 だがそれでは、俺のプランはどうなる。

 今回の魔物討伐で功績をあげ、それをきっかけにして今のみじめな境遇から抜け出すという、この千載一遇のチャンスは無駄になってしまう。この機会を逃せば、俺はこの先もずっと下水道清掃員のままだろう。そんなのは嫌だ。俺は指示に従うのをためらった。


「何をしている!今のうちに早く行くんだ!」クルゼンが苛立った声を上げた。

「う……」

「糞ったれが!ブルって固まっちまってやがる」クルゼンが誤解して毒づいた。

「仕方がない。俺のそばを離れるな。わかったか!」

「……は、はい」


 やがて、闇の奥から魔物が再び姿を現した。おびただしい数の蛇、蛇、蛇……ぬるぬると淫らに絡み合う無数の蛇。ロッドの魔力攻撃を警戒してか、俺たち二人から用心深く距離を取りながらまわりを取り囲んでいる。

 ヘッドランプの光に浮かび上がる魔物の頭部は、改めてよく見ると蛇というよりもある種の深海魚に似ていた。黒い皮膚に鱗はなく、ぬるりと粘液で覆われている。男根状の頭部に目は見当たらない。大きく裂けた口には鋭い歯列が並んでいる。何らかの感覚器官か、側面にぽつぽつと孔が開いている。ときおり威嚇するようにシュウシュウと音を立てている。


 クルゼンはロッドを構え、魔力を放った。

 見えない力の一撃が怪物の頭部を次々と粉砕していった。そして周囲を隙間なく包囲していた怪物の群れに切れ目ができた。

 その向こうに、巨大な肉の塊が見えた。すべての怪物の首はその塊から生えていた。まるでイソギンチャクの触手のように。あるいは、メデューサの髪のように。魔物は群れではなく、一体の生物だった。


「見えたぞ、あれが魔物の本体か!」クルゼンは叫んだ。

「一気に本体を叩く!」

 そう言うが早いか、ロッドを振り回しながら群がる首の只中に飛び込んだ。四方八方から魔物の首が襲いかかりクルゼンの全身に噛みついた。しかし、意に介さず、次から次に首を吹き飛ばしながら本体へと迫っていく。身の危険を感じたのか、ぶよぶよした本体/胴体は四本の短い足で後ずさって逃げ出した。

 だが遅かった。クルゼンはごつい黒のブーツで、肥大化したオオサンショウウオのような胴体を踏みつけた。そしてその背にロッドを突き立てると、ひときわ強力な魔力を注入した。ポンポンとくぐもった音を立てて、怪物の体内器官が破裂していく。魔物は背中のクルゼンを振り落とそうとひとしきり暴れ回っていたが、ついに力尽きて動かなくなった。

 クルゼンはその背からロッドを引き抜いた。



「ふぅ……。やったか」

 上腕部に噛みついていた頭部を引きはがしながら、クルゼンは魔物の姿を観察した。ぶよぶよとした巨大な両棲類の胴体の先に、5メートルから長いものでは20メートルにおよぶ頸部が無数の触手のように伸びていた。今それは、浜辺に打ち上げられた巨大イカのようにだらりと弛緩して横たわっていた。流れる下水がその巨体を洗っている。

「異形化した水龍(ヒュドラ)の類か。この長い首をマンホールから地上に伸ばして、通りがかる人間を襲っていたんだろう」クルゼンが言った。

「…………」

 俺は初めて見る巨大な魔物の姿に度肝を抜かれていた。そして呆然としていた。俺が手を出す余裕なんて全くなかった。気が付けば戦いは終わっていた。これが夜警の力か。自分とは次元が違いすぎる。


「今からシャモスを捜索する」そう言うとクルゼンは下水道の奥へと戻り始めた。

「おぉぉーい、シャモス!聞こえるか!」

「…………」返事は聞こえない。

「シャモス!聞こえているなら返事をしろ!」

 呼びかけながらクルゼンはひとり闇の奥へと遠ざかっていく。



 俺はヒュドラの死骸のそばで一人立ちすくんでいた。

 ぴくり、と魔物の短い脚が動いたのにも気付かなかった。

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