22 監督
──何かもやもやする。
家に帰り着いたもみじは、晩ご飯を食べ終えるとすぐさま自室へと引き上げていった。
今日は入学式で、初めての部活動の日。大好きな野球ができて、幸せな一日だったはずだ。それなのに、心のもやもやが晴れないことに、もみじは自分のことながら戸惑いを隠せないでいた。
「──ねぇ、お姉ちゃん」
双葉がもみじの部屋のドアを開けて顔をのぞかせる。以前は頻繁にもみじの部屋まで遊びにきていた双葉だったが、最近もみじの部屋に来ることはほとんどなくなっていた。そのため、もみじは妹の来訪に少し驚いていた。
「どうしたの?」
もみじがそう尋ねると、双葉はゆっくりと部屋の中に入ってくる。妹の他人行儀な行動に、もみじは首を傾ける。すると、双葉は後ろ手に持っていた一冊のノートをもみじの前に差し出す。
「これ、お姉ちゃんの日記?」
双葉が差し出したのは、だいぶ古いリングノートだった。表紙はこげ茶色の厚紙で、特に文字などは書かれていない。しかし、もみじはそのノートに見覚えがあった。
「ちょっと見せて」
受け取り、表紙をめくる。すると、子どもの文字らしい大きな字がずらっと並んでいる。
「『きょうは、しろうとあそんだ』『しろうはなげるのが上手』『しろうは──』……って『しろう』って誰よ」
もみじは日記の内容に突っ込みを入れつつ、さらさらとページをめくっていく。そして、最後の一文に目を通したところで、ゆっくりとノートを閉じた。
「なんで私のだって思ったの?」
もみじは、目の前に立っている妹にそう問いかける。
この日記は間違いなくもみじの物だ。以前、蔵から出てきた日記と同じ表紙のものであり、小学1年生の時からずっとつけてきたもみじの思い出でもある。
しかし、最近は一切書かなくなった。そのため、蔵から日記が出てくるまで完全に記憶から抜け落ちていたのだ。
双葉は、一瞬視線を逸らす。
「部屋にあったんだけど、昔は一緒の部屋だったからもしかしてって思って。お母さんに聞きに行ったら『もみじのだよ』って」
「……そう。ありがと」
双葉の言葉に、もみじは素直に礼を告げる。
すると、少し強張っていた双葉の表情にいつもの柔らかさが戻ってくる。
「……ううん。なんか、お姉ちゃん怒ってるみたいだったけど、今は優しい感じ! ちょっとほっとした!」
「別に、怒ってなんかないわよ。ちょっともやもやしただけって言うか……」
そう、別に怒っているわけではなかった。
双葉は、おそらくこの内容を読んだのだ。だからこそ、このノートを持ってきたときに「日記」であることを知っていた。別に、内容を読まれて困ることはない。昔の自分の日記であり、恥ずべきことは一切ない。
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きょうは、しろうとあそんだ。
しろうはなげるのが上手。プロの野球せん手みたいでかっこよかった。あたしもいつかあんなふうになげたい。
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あしたはしろうがいなくなる日。
ちゃんと、おみおくりをしないといけない。
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おみおくりはできた。それにやくそくもした。
いつかしろうはやくそくをはたしてくれるはず。だからあたしもがんばらないと。
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拙く、短い文章だ。これを書いたのがいつなのか、正直あまり覚えていない。漢字をあまり書けていないところを考えると、おそらく小学生の低学年くらいのことだろうが……。
それにしても……。
「……『しろう』ねぇ」
もみじは「しろう」の文字を指でなぞる。
保育園の時から、一緒に遊んでいる面々は変わらない。「安岡」という小さな村で育った友人たちは、中学まで特に変化なくエスカレーター式に進んできた。
だからこそ、この「しろう」という名前はもみじの頭を混乱させる。なぜなら、「しろう」なんて名前の友人はこの小さな村にはいないのだから。
◇
グラウンドのバックネット裏。
神ケ谷高校のバックネット裏には、簡易ではあるが数段の観戦席が施されている。噂では、初めて甲子園に出場した記念に作られたものらしく、もう数十年前の代物らしい。もみじも、小学生の時に何度かこの観戦席で練習試合を見た記憶がある。
もみじの記憶にある神ケ谷高校は、牙を失った獣だった。
「今日から本格的な練習に入る。うちは見ての通り人数が少ないから、一人にかけられる時間は多い。ただ、そのぶん一人がこなさないといけない雑用も多い。気合い入れて練習に取り組むように!」
「ぅす!!」
バックネット裏に集まった部員たちの大きな声が響き渡る。本格的な練習と聞いて、否が応でも気合いが入る。掛け声とともに練習に入るのかと思っていたが、キャプテンの近衛はその場にとどまり、昨日から練習に参加している新入生のほうへと真剣なまなざしを向ける。
「俺たち2、3年を除いても、スタメンの枠は4つ空いている。取り合えず、空いているポジションを1年の中で競争してほしい。今空いているポジションは──」
「外野2枠とセカンド……あとはキャッチャーっスね」
お調子者の2年生、中野の言葉に近衛は小さく頷く。
「去年の夏までは俺がキャッチャーをしていたが、専門のサードに戻ろうと思う。だから、杉浦と石垣。お前たち二人に正捕手の座を競争してもらうぞ!」
小さなどよめきとともに、その場にいる全員の視線が二人の新入生へと向けられる。二人とも、新入生の中ではかなり大きな体をしており、いかにも捕手と言わんばかりの風貌だ。
杉浦は、皆からの注目の視線に全く動じた様子もなく、同じ境遇の石垣へと笑いかけながら視線を向ける。
「了解! ガッキー、よろしくな!」
「ガ、ガッキー?!」
「おう! 石垣だからガッキーだな!」
気持ちのいい笑顔に、石垣は戸惑いを隠せない。もともとスポーツマンシップに溢れているナイスガイであることは知っていたが、その屈託のない笑みからはほかの意味が感じ取られた。
──眼中にない。
その笑みからは自分の敗北など一切考えていない、自信に裏付けされた真っすぐさがうかがえた。
「──あの、投手は」
その声は、ここまで静かに状況を窺っていた新入生の梅原の声だった。しかし、その疑問はもっともな物であった。最初にあったキャプテンの説明では、空いているスタメンの枠は、外野2枠とセカンド、キャッチャーの4枠だ。つまり、ピッチャーについては全くと言っていいほど言及されていなかったのだ。
梅原の問いかけに、上級生たちは一瞬微妙な表情を浮かべる。しかし、その空気を断ち切るように近衛が声を上げる。
「今年の夏、浅賀の投手起用は見送ろうと思っている」
「なっ! 旺士郎がエースじゃないんですか?!」
新入生の間に衝撃が走る。
日本球界の至宝とも言われている日本代表のエースには、無条件でスタメンの一枠が与えられるものだと思っていたのだ。しかし、近衛キャプテンが言うことには、今年の夏については浅賀をピッチャーとして起用する予定はないという。新入生の間で大きな疑問が生まれるのは当然と言えた。
とりわけ驚いているのが杉浦だった。杉浦は、シニア時代からずっと浅賀の球を受け続けており、その才能を一番理解していた。ゆえに、今年の夏は浅賀を投手として起用する予定はないという言葉に驚きを隠せなかった。
皆の視線が近衛のほうへと向かう。しかし、近衛の表情は曇っており、難しい顔をしている。
「これは、俺たちの判断じゃない。実は──」
「お、やってるねぇー」
緊迫した雰囲気にふさわしくない、元気な女性の声が場に響く。さっきまで近衛に集中していた視線が、すべてその声の主へと向かう。
すらっと長身の女性は、神ケ谷高校のユニフォームに身を包み、華奢な腕はタブレット抱えるように持っていた。むさくるしい男連中の視線が集まっているにも関わらず、その女性は全く臆した様子もなく、快活な笑みを浮かべて彼らのほうへと歩いてくる。そして、まるでモーゼの海割りのごとく切り開かれた合間を突き進み、キャプテンと部員の間に立つと、顔の上半分を覆うかのような大きな丸眼鏡をくいっと上げる。
「私は芝美幸。今日から神ケ谷高校野球部の顧問になったから、どうぞよろしくー」
彼女の軽い挨拶に、場に沈黙が訪れる。
嵐の前の静けさ。不安そうな部員たちとは裏腹に、芝監督は興奮気味に頬を紅潮させていた。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございます!
ゆっくり投稿していきますので、これからもどうぞよろしくお願いします<(_ _)>




