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19.暁の輝ける子

 細くもなく広くもない道は、木漏れ日に揺れていた。

 リークは夢を見ているのだと悟った。食事をすませ、疲れた身体をベッドに横たえてから数時間後のことである。

 青い空の彼方からは美しい歌声が響き、周囲には、同じ方向に歩く人がまばらにいる。白い衣装を着て、軽やかに裸足で歩く。何度も見た夢だ。

 明るい笑い声。二、三人ずつの塊になって話しながら、彼らはときおり、視線をリークに投げた。だが彼らは決して声をかけなかった。

 やがて一人二人と姿を消し、最後に残ったリークは、道の終わるところにある泉へたどり着いた。対岸には七つの頃のマイクがいる。いつもならそのまま見つめているだけだが、リークはおそるおそる、水面に手を触れてみた。

 すると、ずっと黙っていたマイクが口を利いた。

「助けて、リーク。そっちに戻れなくなっちゃった」

 リークは驚いて顔を上げた。

「どうして渡ったの?」

「だまされたんだよ。暁の輝ける子に」

 リークは寒気がして鳥肌を立てた。

「暁の輝ける子」というのは、悪魔界で最高権威を持つルシファーが天使だった時の名だ。ルシファーといえばアダムとエヴァに禁断の知恵の実を食べるようそそのかしたという話でも有名である。

 暁の輝ける子は子猫の姿で対岸に現れ、助けを求めるように鳴いていたのだという。マイクは助けに行って、戻れなくなってしまったのだ。

 子猫の姿と聞いてリークが思ったのは、あの冬の事故である。

「まさか、あの——」

 と問う前に、マイクはうなずいた。

『七つの冬の日、暁の輝ける子は汝の前に現れ、命を奪うだろう。しかし私が素早く拾い上げるので、魂までは奪われまい』

 神はそう予言し、マイクを地上に使わしたのだと言った。

「どうしてマイクを狙うの?」

「リークが悲しめばいいと思っているんだよ」

「僕が悲しむと、どうだっていうの?」

「神がお怒りになるでしょ?」

「なんで?」

 リークが首をかしげると、マイクは深い溜め息をついた。

「わかってないんだね」

「なんだよ」

「怒りは神様の波長を下げてしまうでしょ? 暁の輝ける子はそれをチャンスと思っているんだよ」

「だから、それは分かるけど、なんで僕?」

 マイクは問いに答えず、軽く目を伏せた。リークは少し困ってしまったが、とりあえず上の服を脱いで、向こう側へ泳いで渡ることにした。

「まあいいや。今から行くから、待っててね」

 リークは声をかけておいて、泉に入り、必死に泳いだ。「けっこう深いや」と思いながら、懸命に手足を動かした。

 しかし夢のすべてが得てしてそうであるように、リークは思うように泳げなかった。


 溺れる。


 リークは確信した。力が入らず、身体は沈んでゆく。自分で吐いた空気の泡が無数に顔を覆い、水面へ上がっていく。そのたびに底へひっぱられる。それでも諦めずに水をかいた。

 が、努力むなしく、意識は遠のいた。そして見上げる瞳に、天使の姿が映った——暁の輝ける子である。

 その名のとおり、美しく輝いている。本当に悪魔になってしまったのかと、疑ってしまうほど洗練された姿だ。だが、薄く笑う顔は身の毛がよだつほど恐ろしい。

 リークは心の中で叫んだ。


 逃げろ! 逃げろ、マイク!


***


 リークは思い切り息を吸って、もがくように飛び起きた。

 朝食後、セシルとキャサリンに夢の話をすると、二人は驚いた様子で互いの顔を見合った。セシルなどは心なしか血色をなくしている。

「ルシファーとは……まいったな。そんな大物に出てこられたら勝ち目はない」

「それなんですけど」

「ん?」

「彼は野心のために地獄へ落とされたんですよね」

「ああ、そうだが」

「大天使ミカエルと双子だったって、本当ですか?」

「さてね。私はどちらの顔も見たことがない」

「ガブリエルが一度追放されたことがあるっていうのは?」

「おいおい。私は司祭と言っても信者の一人だ。神の世界で起こった真偽など分からんよ」

「ああ、ですよね。でも、一般に広く伝わっている説が本当だとしても、ちょっと解せないところもありますよね。教えって人によって解釈が違うから、権力者の都合のいいように曲げられてるぽいっていうか」

 セシルは眉をひそめた。それがクリスチャンであり、パンドラの天使と疑われるリークの口から出た台詞とは思えなかったからだ。しかも、キャサリンまで便乗して、こんなことを言った。

「それは私も記者をしてきて思ったわ。政治と宗教って密接な関わりがあるし、民を支配するのに教えが都合良く使われているっていう印象も拭えないし。それに、宗教の成り立ちから見るとルシファーが自分の欲望のために天界を追われたっていう話には、まったく根拠がないのよ」

「えっ!? そうなんですか?」

「おいおい、なんだね、君まで」

「だってそうなんだもの。あなただって、イザヤ書くらいは知ってるでしょ?」

 セシルは渋い顔をした。

 イザヤ書では、天使ルシファー(明けの明星)とは、カナンの主神「エル」の子、「アッタル」のことである。当時はエルを中心に神々の組織があり、アッタルもそのメンバーだった。そしてイスラエルの神もこの組織にいたことが濃厚で——つまりは彼らの唯一神ヤハウェも、神々の組織の一員にすぎなかったのだ。

 ところが後世になってヤハウェがエルを傘下におさめると、事態は変わった。いわゆる権力闘争が起こったのだ。よってバアルやアッタルが追放されたのは、この闘争に敗れたからではないか、ということが推測されるのである。

「ギリシャ神話にも言えることだけど、なんだか人間臭い話よね。本当はどっちが正しかったかなんて、今となっては分からないわ」

「しかし主神であったエルがヤハウェの傘下に下ったのは、善なる考えに賛同したからではないのかね。実際、いま天界を治めているのは主であり、人に善と光を求めるよう説いている。なにも間違いではなかったのだよ」

 セシルが反論すると、リークは眉根を寄せ、むずかしい顔をした。 

「主に野心はなかったんでしょうか。神にも等しい力を持つ天使を地獄へ落としてしまう力があったんなら、至高の神には違いなかったんでしょうけど」

「主はお見通しだったのだよ。その二人を天界に置いていては世界が滅びるほどの災いとなる、ということが。彼らが正しいのであれば、追放されても悪魔にまで身を落とさずにいたはずだし、きっとまた輝ける翼でもって、天に帰っていたに違いない。そうは思わないかね」

 この説明に納得したらしいリークは、見開いた目を輝かせた。ほのかに浮かべた笑みには、主の判断が正しかったということを素直に喜ぶ感情が読み取れる。

 セシルとキャサリンは、不思議な気分に襲われた。それは至福と呼ぶのがふさわしいような感情だ。

 セシルは唖然としたあと、ふと笑った。

「君は神の視線を感じると言ったね」

「え? は、はい」

「主の気持ちが、いま分かったような気がしたよ」

「は?」

「君を見ていると幸福であるのに違いない」

「そんなバカな」

 本人に即否定されたセシルは、呆れた。

「人がせっかく褒めているのに、なんだね」

「いらないですよ」

「妙なところで素直じゃないな、君は」

「ほっといてください」

「放っておけるものなら、はじめから取り合わない」

 セシルは言って、キャサリンを見た。

「君からも何か言いなさい」

「あらやだ。なんで私に振るのよ」

「君の部下だ」

「さっきのあなたのお説教、素晴らしかったわ。私の出る幕なんてありませんことよ?」

 キャサリンは冗談めかして言ったが、セシルは腕をわなわなと震わせた。

「君は何も感じないのかね」

「あら、そうね。今日で二回目よ」

「は?」

「彼が笑うのを見て不思議と幸せな気分になれたのは、二回目なの。マイクって子も言ってたじゃない? 彼が喜ぶと自分も嬉しいって。こういう気持ちって誰にでもあるものだけど、出会って日も浅い人に感じるのは稀なことじゃないかしら。でもやっぱり、それにはちゃんとした理由があるの」

 セシルはきょとんとしながらキャサリンに注目した。

「なんだね」

「彼自身が、人のことを自分のことのように喜ぶからよ。見ている人は、それが嬉しいの」

 肩に力を入れていたセシルは脱力して笑った。

「ははは、なるほどね。まいったよ」

 するとキャサリンも笑った。

「ふふふ。そうでしょ? 私も初めて気づいたとき、そうだったの」

 そこから二人は、本当に楽しそうに笑い合った。リークはといえば、一人置いてきぼりをくらったように、うつむくことしかできなかった。

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