17.ロンドンの夕日
陽が完全に落ちると、祭壇にゆらりと影が現れた。黒炭のように黒い肌と異様に細い肢体。黄色一色の瞳——それは以前に現れた悪魔である。歪んだ口からもれるのは、相変わらず不快な、雑音のような声だ。
〝ようこそ。またやって来るとは、思いもしなかったが〟
なかば挑発するような口調に、セシルは眉をひそませながら、
「貴様の目的はなんだ」
と問うた。
悪魔は肩を揺らして笑った。
〝神の嘆きが必要だ。パンドラの天使は神の希望。それさえ奪えば、いずれ全ての魂を闇におとしめられる。苦痛も、憎しみも、分かち合おうではないか〟
悪魔はそう言うと、ゆっくり片手を差し伸べた。
〝この手を取れ。パンドラの天使よ〟
リークはその手を見つめた。恐ろしくはある。だがそれに勝る憤りがあった。
この悪魔のために、あるいは別の悪魔のために、マイクは戦い続け、死を繰り返しているのではないだろうか。
そう思うと、腕が震えた。
「僕をおとしめても、神の希望はなくならないんじゃないかな?」
リークが静かに答えると、悪魔の指先がピクリと動いた。
〝……なんだと?〟
「たとえ僕がパンドラの天使でも、それは希望じゃない。希望はエルピスで、天使は天使だ。それに、君たちに必要なのは嘆きじゃないよ」
〝ほう? 我に説教か。聞いてやろう。何が必要だ〟
リークは毅然として、顔を上げた。
「救いだ」
その言葉と同時に、悪魔は恐るべき咆哮を上げ、大きな風を巻き起こした。突風によろけたリークを、セシルとキャサリンは慌てて支える。だが枝のように細い腕からは想像もつかないほど強い力が、二人をリークもろとも突き飛ばした。
後方に飛び、床に転がったところを、悪魔は宙に舞い、襲いかかる。
やられる! と思った。その刹那。
閃光が飛来し、漆黒の手に突き刺さった。悪魔は雄叫びを上げ、のけぞった。
リークが驚いて上体を起こすと、地下室へと続く階段から姿を現した人物がいた。薄暗がりにぼんやりとした光を放ちながら立つ——十五、六の少年は、栗色の髪を揺らし、鳶色の瞳で射るように悪魔を睨みつけ、手にした小さな弓矢を向けた。
「その天使は堕ちない。諦めろ」
勧告する少年を、リークは凝視した。
「……マイク?」
リークの声に、セシルとキャサリンも反応して起き上がり、少年を見た。リークの弟が生きていれば、ちょうどこんな感じだろう、という年頃である。
「マイク、生きてたの?」
奇跡を目の当たりにしたような眼差しのリークに対し、少年は寂しそうな目で答えた。
「魂はあの世でも成長するんだよ、兄さん」
「……あ」
リークは言葉につまり、うなだれた。現実は、悪魔に放たれた矢よりも冷たい。今更ながら、弟の死を受け入れねばならないことに、ひどく胸を締めつけられた。
「さあ、今ならここから出られる。急いで」
矢尻を悪魔に向けながらマイクが言うので、セシルとキャサリンは扉へ向かって走った。
「マイクは?」
リークは焦って尋ねた。するとマイクは苦笑を浮かべた。
「大丈夫だよ。行って」
「でも」
躊躇しているリークに気づいたキャサリンは、振り返って叫んだ。
「なにしてるの! 急いで!」
〝無駄だ!〟
突如、悪魔が割り込み、また強い風を起こした。セシルが扉を開けようとした瞬間、再び場が閉ざされてしまったのである。
マイクは舌打ちして、再び矢を放った。しかし同じ手は通用しない。悪魔は矢をかわし、細い腕をマイクに伸ばした。
リークはとっさに立ち上がり、マイクに飛びついた。二人は床に転がり、寸でのところで悪魔の攻撃を避けたのだ。ところが、マイクは怒った。
「なにやってるんだよ! 逃げなきゃダメだ! もう一度命中させるから!」
「マイクは!」
「大丈夫だって言っただろ!?」
「どうして!?」
「僕はもう死んでるんだ!」
「魂は生きてるんだろ!?」
リークの思わぬ反論に、マイクはひるんだ。
「……そうだけど。夜は始まったばかりだ。こんな調子で夜明けまで戦えるわけない。逃げなきゃ」
「勝てなくても、負けなきゃいい」
その言葉にマイクが驚きの表情を浮かべた時、リークの背後に魔の手が迫った。
「あっ! 危ない!」
マイクが叫ぶのが早いか、リークは危険を察知し、振り向きざまに怒鳴った。
「失せろ!」
すると、悪魔の起こした風が悪魔自身に向かって強く吹きつけた。
〝グオッ!〟
悪魔は壁に激突し、リークはその隙にマイクを起こし、セシルやキャサリンが待機している扉の方へと向かった。
マイクは、自分の手を引いて走るリークを不思議そうに見やった。
「スゴイね。今のなに?」
「知らない」
「知らないの?」
「知らないよ」
扉の前にたどり着くと、リークはセシルとキャサリン、マイクの三人を背にして悪魔と対峙した。体制を整えた悪魔は、忌々しげにリークを睨んだ。
〝おのれ。なぶり殺してやるわ〟
リークはゴクリと息をのんだ。
マイクの言う通りだ。夜明けまで九時間はある。そんな長い時間、悪魔の支配する闇の中で——この狭い教会の中で、そう何度も攻撃をかわしきれないだろう。宣告どおり、なぶり殺されるかもしれない。
リークは拳を握り、肩に力を入れたが、腕が震えた。マイクはその腕をつかんだ。
「僕が弓で応戦するよ。兄さん達は机の下に隠れて」
「ダメだ」
「なんで」
「悪魔と戦って死んだって、ジョン・Jが言ってたよ」
「だから、もう死んでるんだって」
「魂は死なない?」
「死なないよ」
「でも痛かったり、苦しかったりはするだろ?」
「そりゃまあ」
「じゃあダメだ」
「兄さん!」
「大丈夫。夜明けまで耐えてみせるよ」
リークは言って、一歩前へ出た。
「そのかわり、テディ・ベアは諦めてよ。どうしても見つからないんだ。ごめんね」
マイクは目を丸めた。
「まだ探してたの?」
「うん。実はね」
リークは答えて顎を上げた。目の前の悪魔は、ニヤリと笑った。
〝覚悟はできたようだな。貴様のきれいごとがどこまで保つか、試してみるがいい。そして己の弱さを思い知るのだ〟
悪魔は細長い腕を振り上げた。リークは歯を食いしばり、目を閉じた。
その時。
オレンジ色の閃光が窓辺に差した。悪魔は断末魔のような雄叫びを上げ、セシルとキャサリンは驚きつつ目を細め、マイクは息をのんだ。
異変に気づいたリークが目を開けてみると、西から昇る太陽がガラスに焼きついた。光は眩しいくらい窓辺に溢れ、礼拝堂内に侵入してくる——物理的な概念を無視したその現象は、まさに奇跡と呼べるものだった。
「ロンドンだ」
リークが驚愕しながら呟くと、セシルが眉をひそめた。
「なんだって?」
「ロンドンだよ。僕、ロンドンの夕日に向かって手を振ったんだ」
「はあ!?」
セシルとキャサリンが驚き呆れる横で、マイクは同じように唖然としつつも、リークを見上げて緊張に震えた。




