16.さまよえる天使
「この地下室は、教会が焼失した時に見つかったのだよ」
とセシルは説明した。町の者は「いわくがあるかも知れない」と言って地下室を埋め立てず、その上にまた教会を建てたのだという。
石造りの階段を下りると、割に頑丈そうな扉がついている。反面カギはなく、丸いノブがついているだけだ。開けてみると、そこはただの物置といった風情で、無造作に積まれた木箱と、棚に並んだ書籍と、埃よけの白い布に覆われた何かがあった。
セシルは布をはぎ取った。すると衣装ケースとして使われているタイプの木製の箱が現れた。高さ七十センチ、幅二百センチ、奥行き五十センチほどである。錠前があったと思われる部分は壊れていて、蓋は簡単に開く。
「本当にガラクタばかりだ。君は何か気になるものがあるかい?」
セシルが場所をゆずるようにして問いかけたので、リークは中をのぞいてみた。
鍋の柄のような棒、アルミの皿、割れたグラス、ペーパーナイフ、フックなしの木製ハンガー、折れた傘——そのような日用品が放り込まれている。
リークはハンガーを手に取った。壊れているが、それだけが新しく感じたのだ。
「これなんか、修理すればまだ使えそうですよね」
その時の顔がやたら嬉しそうだったので、
「……欲しいなら持って帰りたまえ」
とセシルが抑揚なく言うと、リークは気恥ずかしくなってハンガーを箱に戻した。
「そんな意味で言ったんじゃないですよ」
「そうかね? で、ほかに気になるものは?」
「うーん、ありません」
セシルは大きく溜め息ついた。期待はずれだったようだが、それはリークにも、どうしようもないことである。なにしろ本当に、ゴミに等しいガラクタばかりなのだ。
それから二時間ほど書籍などをめくって調べてみたが、別にどうということもなく、三人はやや疲れて床に座り込んだ。
「ここには何もなさそうね」
「ううむ」
キャサリンとセシルがそう言う横で、リークは天井をあおぎ、
「もう帰りませんか」
とうながしてみた。セシルは肩をすくめたあと、「そうだな」と返事した。結局なにもなかったのでとどまる理由はない。リークがゆいいつ目にとめたのは、壊れたハンガーひとつだ。早々に引き上げるのがいいだろう。
が、それを収穫なしとするのは、セシルが最も敬遠しているネガティブな発想である。ここはポジティブな言葉で締めることにした。
「ここがただの物置だと分かっただけでも収穫だ」
セシルが立ち上がったのを見て、キャサリンも立ち上がり、リークは箱の蓋を閉じにかかった。が、ふと手を止めた。正面に見えたハンガーに、また目がいったのだ。
閉じられようとする蓋の下で鈍く光る。それは決して安っぽくない。上質な木材が使われていて、ニスも丁寧に塗られている。シンプルながらも美しい曲線を描き、華やかにさえ見えるのだ。
リークの胸の奥で、何かがざわめいた。
「これ、本当にハンガーかなあ」
入口に立っていたセシルとキャサリンは、変な顔をして振り返った。
「ハンガーでしょ?」
「でも、ニスを塗ってありますよ?」
「そういうのも、ありでしょ?」
「ですけど……ほら、フックが外れた跡もない。まるで——」
リークは何か言いかけ、急に口をつぐんだ。セシルは不審に思って先をうながした。
「なにかね。言ってみたまえ」
するとリークは耳を赤くしながら答えた。
「あれみたいですよね」
「あれ?」
「小さい弓。よく赤ん坊の天使が持ってるやつ。って言っても、弦がないから違うと思いますけど」
セシルとキャサリンは大きく目を見開いた。言われてみればソックリだったからだ。
「ちょっと見せてみたまえ」
セシルはリークから受け取ると、念入りに観察した。
「弓弭——いわゆる、弦をかける部分はなくても問題ないのだよ。天使の弓は使い手が握ると弦が現れ、それを引くと光の矢が放たれるというからね」
リークは目元をしかめた。
「でも、証明は無理ですよ? マイクがいれば確認できたかもしれませんが……やっぱりそれは、ただの壊れたハンガーです」
「おいおい。君から言い出しておいて、それはないだろう」
「言ってみただけじゃないですか。断言した覚えはありませんよ」
リークは口答えしながら、二人を追い越して地下室を出た。そして固まった。開け放してあったはずの扉がすっかり閉ざされていたからだ。
嫌な予感がして、リークは扉に駆け寄り、取手を握って押してみた。案の定、扉はがっちりと閉じられていて動かない。
その様子に、セシルとキャサリンも慌てて出て来た。
「やだ! また閉じ込められちゃったの!?」
「みたいです」
リークは開けることを諦め、振り返って祭壇を睨んだ。またあの悪魔が現れるのではないかと思ったのだ。
しかし、現れる気配はみせなかった。陽はまだ高い。「二の轍を踏まないように用心しているのだろう」とセシルが説明をくれたが、リークはかえって緊張した。
「夜になるまで、ここに閉じ込めておくつもりでしょうか」
リークのそんな言葉に、セシルとキャサリンは固唾をのんだ。
それから一時間がたった。扉は相変わらず閉じられており、三人にストレスを与えた。
「お昼を過ぎたわ」
キャサリンが不安げに呟くと、セシルは窓を見つめた。
「窓を割ろう」
そう提案したが、リークが嫌な顔をした。
「怒られちゃいますよ。誰が弁償するんです?」
「教会がするさ」
セシルは持っていた釘抜きを勢いよくぶつけた。しかし釘抜きは当たっただけで、ガラスは少しも傷つかなかった。
セシルは参ったという顔をして、釘抜きを拾った。
「相手も手強いね」
「強化ガラスじゃないんですか?」
「教会に? そんなわけないだろう」
「ですよね」
出口は当然のように、すべて塞がれているというわけだ。
「おなかすいた」
再びキャサリンが呟くと、リークは座席に預けてあった肩掛けカバンに手を伸ばした。
「チョコレートならありますよ」
「ほんと?」
リークが取り出したのは板チョコだ。その包み紙を見て、キャサリンの目が輝いた。
「リンツね! それ大好きなの」
リークはつられるように笑った。
「良かった。ちょうど三枚ありますから、一枚ずつ食べましょう」
そんな二人の笑顔にセシルはややホッとして、差し出された板チョコを受け取った。
「本当に用意がいいのは君だね、リーク君」
セシルに言われて、リークは頭をかいた。
「いやあ、本当にそうなら、チョコレートじゃないものを用意しましたよ。すみません」
「いやいや、充分だ。助かるよ。なにより、マーカー君が喜んでいるしね。こういう場面で明るくなれる要素があるというのは、大事だよ」
言わんとするところを理解したリークは、不安になって窓の外を見た。日暮れまで、あと五時間。悪魔に襲われる危険性を考えると、それまでにどうにかして脱出したいところである。
だが扉はどうしても開かず、窓ガラスも割れない。なすすべもなく時は流れ、陽は落ちていった。薄暗くなりはじめた礼拝堂内で、三人は身を寄せ、祭壇を見つめた。
「いいかね。思考は常にポジティブに。決してネガティブな感情に押し流されてはいけない」
セシルは注意したが、キャサリンは目元をしかめた。
「この状況でポジティブに考えるなんて無理よ」
「きっと助かる、そう信じるのだ。希望を捨ててはいけない」
「彼がエルピスを守ったように?」
キャサリンがちらとリークを見やってから言ったので、セシルは笑ってうなずいた。しかしリークは渋い顔をした。
「まだ僕だっていう確証はないですよ」
「でも否定はできない。違うかい?」
リークは黙った。セシルはそれを面白そうに眺めた。
「微妙な立場だね、君は。己が天使なのか人間なのか、はっきりと分からない。だがそれは言うなれば天使だよ。人間は人間でしかない。実は天使なのではないかと自分を疑ったりすることもない」
リークは揺れる瞳でセシルを見つめた。
「僕の頭がおかしいだけかもしれません」
「心当たりがあるのではないかね?」
「わかりません。神様に見られているという感覚はあります。でも、だからといってパンドラの天使かどうかなんて」
セシルはじわりと目を見開いた。
「ほう。神の視線か。興味深いね。それだけのことがありながら、君は普通の人間として生きてきた。人間の魂は生まれ変わる時、すべての記憶を魂の故郷と呼ばれる場所に置いて来るというが、もし君が天使でありながらそうされたというのであれば、何か意味があることなのかもしれない」
「……それって、なんか悪いことして追放されたっぽく聞こえますけど。もしかして僕、また悪さしないように見張られてるとか?」
「だったらギフトなど与えられまい」
「じゃあどうして」
「さて。記憶とは、良いものばかりではない。深い傷もあるだろう。そのために取り除かれたものなら、神の慈悲と考えてもいいだろう。パンドラの天使なら、ありとあらゆる災いからエルピスを守るため、おおいに傷ついたはずだからね」
セシルの言葉に、リークは苦笑いするしかなかった。
自分に、あらゆる災いと戦う勇気があったとは思えないのだ。だがそれは、剣や弓を持って立ち向かうという姿が、イコール「戦うこと」だと思い込んでいるゆえの、想像上の誤りにすぎない。
三人が祭壇と向かい合っている時、地下室では静かにハンガーを拾い上げる手があった。十五、六の少年の手である。
少年はハンガーをしっかり握ると、顎を上げて床の上を見据えた。




