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13.黒い思念

 二人はイギリスでの取材を終えて帰国した。これから再び例の町へと向かう。もう一度あの教会を調査するためだ。前回はパッと見ただけなので、入念に調べようというのである。

「そこで悪魔と戦ったってことは、パンドラの箱にまつわる何かがあったか、そのものが隠されていたのかも知れないわ」

 と、電車の窓に過ぎ行く景色を見ながらキャサリンは言った。

 リークは首をかしげた。

「痕跡なんてありますかね? カトリック教会が綺麗さっぱり片付けちゃったかもしれませんよ?」

 すると、またしても背中合わせの隣席から声がかかった。

「そのとおりだよ、ウイリアムズ君」

 二人がギョッとしつつ相手の存在を認めると、セシルは席を立ち、勝手にリークの横へ腰かけた。

「つけて来たんですか?」

「見張るように言われたのでね」

「別に悪いことはしませんよ」

「はっはっは。それはこちらも同じだ。安心したまえ。妨害はしない。訴えられてもかなわないのでね」

「じゃあどうして」

「悪魔から守ってやろうと言うのだよ。感謝したまえ。もっとも、君たちの前に現れるかどうかは分からないがね」

 セシルは言い、リークを見て口の端を上げた。

「きっと無駄だと思うが」

 リークはややムッとしながら聞き返した。

「無駄ってなんですか?」

 しかし、

「無駄は無駄だよ。天使や悪魔は、選ばれた者の前にしか現れないものだ」

 と言われると黙った。そう言われては身も蓋もないと思ったからだ。しかしキャサリンはジッとリークを見つめた。彼女はひとつの可能性を信じていたのだ。それは、もう一度会いたい人に手を振ると必ず会えるというリークの能力である。

 その力が本物ならば、リークはマイクと再会するだろう。最初はこの世を去った者との再会など信じられなかったが、今では信じられる。

 そんな想いで彼女は、息をひそめるように膝の上で拳をにぎった。


***


 教会へ着くと、リークはとりあえず礼拝堂内にある席に座った。そこは前回訪れたときにも腰かけた場所だ。

「さすがに移動続きだと疲れますね」

 そんなことを言いながらリークは笑ったが、キャサリンは笑えなかった。

「あなた、その位置に座るのが癖なの? 子供の頃も確か……」

「え?」

 リークはキョロキョロと辺りを見て、頭をかいた。

「ああ、そうですね。癖というか、ほかの席だと居心地悪くて」

「どうして?」

「さ、さあ?」

 キャサリンはいっとき黙って考え込んだ。リークは首をかしげ、誘いもしないのについて来たセシルは腕組みして突っ立ったまま、キャサリンの言動を見張った。が、二分ほどして言った。

「何を考えているのかね。その青年のことなど、どうでもいいだろう。早く調べものをして、ここには何もないことを確認したら、速やかに引き上げたまえ」

 するとキャサリンは、うつむき加減にしていた顔を上げた。

「本当に何もないのかしら?」

「え?」

「人前で歌いたがらなかった彼は、何故あなたの頼みだと受けたの? あなたはあの町の教会でも、通路側の席の真ん中より少し後ろの席に座った。音がいいっていう理由でね。でもあなたのお姉さんが言うように、教会なんてどの席も同じよ? どうしてなの?」

 リークは唖然とした。そんな昔話を覚えていることにも驚いたが、自分にとって至極普通のことを疑問に思われるのが不思議だったのだ。

「僕が一番に世話をやいていたからじゃないですか? それに、本当にこのくらいの位置がいいんですよ、音」

「絶対音感でもあるの?」

「い、いや、ありませんけど」

「ふーん。ま、いいわ。ミスター・フィリップスの言う通り、ちゃっちゃと調べましょう」

 リークは肩掛けカバンを座席に預け、キャサリンと一緒に教会の壁や、マリア像や、大きな十字架を調べた。むろん机やイス、床までも念入りに調べたのだ。しかしさすがに何もなかった。セシルを見やると、「どうだ」と言わんばかりに胸を張っている。

 リークは眉根を寄せた。

「なんにもなさすぎて怪しいですよね」

 セシルは肩をすくめた。

「なにがだね」

「塵ひとつ落ちていない。毎日掃除したって、こんなに綺麗にできませんよ」

「言われてみればそうね」

 と相づちを打ったのはキャサリンだ。

「痕跡がないのはともかく、ホコリや砂のひと粒くらい落ちていてもいいわ」

「外観も確認してみましょうか」

 リークの提案に、キャサリンはうなずいた。そして二人そろってセシルを無視するように扉へ向かった時である。

 開け放してあった教会の扉が、急にバタンと閉まった。今日は風もない穏やかな日だ。庭に人影もない。リークとキャサリンは驚いて駆け寄り、扉を開けようと取手を握った。

「ちょ、ちょっと、どういうこと!?」

「……押しても引いても開きませんね」

 二人の様子にセシルも慌てて駆け寄った。

「どうかしたのかね」

「言ってるでしょ! 開かないのよ!」

「私に貸してみなさい」

 セシルはキャサリンと入れ替わって扉を開けようと試みた。だが扉はガッチリと閉じていて、開きそうにもない。

「こ、これは一体」

 その時、ふっと背後に気配がして、三人は同時に振り返った。すると祭壇の前にたたずむ黒い塊があった。人の形のようで、妙に細い肢体が人ならざることを告げている。黒炭のように黒い肌と衣装で、黄色一色の目が三人を見つめていた。

「うっ!」

 セシルは息をつまらせて胸元のロザリオを握った。

「あ、悪魔だ」

 リークとキャサリンも固唾をのんだ。

「……まさか、本当に?」

「あ、現れないんじゃなかったんですか?」

「さて。私のせいかも知れん」

「そんな」

 リークが文句を言いかけた時、悪魔と呼ばれる黒い塊が凄まじい早さで寄って来た。まばたきする間もないほどの早さである。だが、

「下がれ!」

 とセシルが叫んでロザリオをかざすと、一瞬だけひるみ、動きを止めた。黒い塊はその場所で腕を伸ばし、指差した。矛先はリークである。

〝天使を置いていけ。そうすれば司祭と女は助けてやる〟

 禍々しく歪んでしゃがれた、不快な声である。キャサリンはとっさにリークの腕をつかんだ。

「彼は天使じゃないわ!」

〝置いていけ〟

 聞く耳も持たない様子で、黒い塊は言った。リークは恐怖で硬直した。しかし息をのみ、ゆっくりキャサリンの手をほどくと、勇気を振り絞って前に歩み出た。

「マイクを知っているのか?」

 すると黒い塊は肩を揺らした。

〝クックック。敗北した天使のことなど知らぬわ〟

 リークは握った拳を震わせた。それは事実かも知れないが、無性に腹が立ったのだ。

「おまえなんかに負けるもんか。マイクは何度生まれ変わったって、決して諦めたりしない」

〝だからおまえが守るのか? エルピスを守ったように〟

 リークは眉をひそめた。黒い塊が何を言っているのか、理解できなかったのだ。

「エルピス……パンドラの箱に残された希望? マイクはやっぱり、それを探しているのか?」

〝クックック。違うな。希望などという脆弱なものになど用はない。価値があるのは、そう、もろい希望を様々な災厄から守ることができた天使——パンドラの天使だ〟

 黒い塊は言うなり、リークに飛びかかった。リークは首をつかまれ、後方に飛び、背中を扉でしたたか打った。

「うっ……!」

「きゃあ!」

 キャサリンは叫んで腰を抜かした。そのキャサリンをセシルは素早く抱え、机の影に引っ張り込んだ。

「どういうことだね! あの青年は一体」

 キャサリンは唇を小刻みに震わせながら答えた。

「リーク・ジョッシュ・ゴールドバーグ。マイクっていう天使の兄よ」

「な!? なんだと!」

「天使は生まれ変わったのよ。でも七つの時に死んでしまったの」

 セシルは驚いて机の影からリークを見た。リークは黒い塊に首をつかまれたまま、扉に縫いつけられていて、足は床についていなかった。

「いかん」

 セシルはロザリオを手にして立ち上がった。

「退散しろ!」

 黒い塊はリークの首をつかんだまま、ゆらりと揺れ、セシルに顔を向けた。

〝無能な男め。そんなものは役立たずだと学んだはずだろう〟

 セシルはロザリオをかざしたまま、腕を震わせた。

「わかっている。悪魔と呼ばれるオマエが何者か。宗教的概念が通用しないことも。しかし私は司祭だ。司祭として振る舞わねばならん」

 そうしている間も首を絞められているリークの意識は、遠のき始めていた。

 このまま殺されるのか。

 とリークは思った。だがうっすらと開けた目に、ステンドグラスの明かりが映った。陽光は、かつて教会に響いたマイクの歌声のように美しく、優しくきらめいている。そして、大きく手を振り見送った魂も、雪の中で輝いていたことを思い出し、リークは胸から恐怖を消した。

 その瞬間、黒い塊の手が離れた。

〝おのれ〟

 黒い塊は現れた時のようにふっと姿を消し、リークは床に倒れた。

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