01.幸運の女神
街は閑静な佇まいだ。大きな道路を挟んで立ち並ぶ民家には、芝などの手入れが行き届いた広い庭があり、向かって右か左には必ず、ガレージと花壇と小さな家庭菜園がある。
敷地は歩道よりも五十センチから一メートルほど低い位置にあるので、玄関までの道のりには、緩やかな傾斜をつけている家もあるし、階段をつけている家もある。母屋はアーチ状のものが多く、基本的に白壁と茶系の屋根だ。大抵の家が大型犬を飼い、車は一人一台所有している。
学校や病院などの施設も近く、スーパーやデパートは車で十五分の距離にある。警官によるパトロールが強化されていることもあり、治安が良く、中流階級でもそれなりに良い所得が望める人間の住む街だ。
ゴールドバーグ家がここへ越して来たのは奇跡だった。
少し前までスティーブ・ジョッシュ・ゴールドバーグは日雇いの左官をしながら、ダウン・タウンの中でも一番安いアパートの一室を借り、妻ケリーと四人の子供——長男のジョージ、長女のリンダ、次女のシェリー、次男のリークを養っていた。収入のある月は五千ドルほど稼いだが、ない時は一セントもない。年収は最高で二万ドル、最低で一万ドルいくかいかないかくらいだ。家賃を払って食料を買えばなくなってしまう。
それでも仲睦まじく暮らしていたからいいのだが、ケリーが三男のマイクを身ごもった時は、さすがに頭を抱えた。
「仕事を増やすか」
スティーブが言うと、ケリーはうつむいた。
「夜間の仕事になるんでしょ? 物騒だからやめて」
「けどこのままじゃ……」
「宝クジでも買ってみようかしら」
ケリーがらしくなく、そんなことを言った。スティーブは冗談だろうと笑った。
「クジを買う金があるなら、パンを買ったほうがマシさ」
するとその時、安っぽい鉄板を叩く音がした。ドアを叩く音だ。
スティーブは、この狭い部屋から唯一外へ出られるそのドアを開けた。
「こんにちは。ゴールドバーグさん。今日は寄付を募りに参りましたの」
そこには毎週欠かさず行っている教会のシスターが、募金箱を手に立っていた。
「いや、うちは……」
「州の発行したクジを買っていただけないかしら? 一枚でいいんです。売り上げの収益を寄付していただけることになりましたので」
申し訳ないが寄付できない、と断ろうとした彼の言葉を遮るようにシスターは言い、一枚の紙切れを取り出した。
スティーブは困ったようにしてケリーを振り返った。ケリーはイスに座ったままスティーブを見て、ニッコリと笑った。その笑みは穏やかで、キリストを抱くマリアのようである。
スティーブは目を見開きながら、ゆっくりとシスターに向き直った。
「ちょうど家内が、クジを買ってみようかなんて言ってたところですよ」
はにかみながら言う彼に、シスターは柔らかな笑顔で答えた。
「幸運をお祈りいたしますわ」
かくして、幸運は舞い降りた。二等の百万ドルが当たったのだ。
教会には三万ドル寄付をし、あとは是も非もなく一家総出でアパートから引っ越しをした。夢にまで見た家具付きの家と芝生の庭と、車の入ったガレージだ。
スティーブはより良い職に就こうとビジネス・スクールへ通い始め、ケリーはこれまでで一番ゆったりとした気持ちの中、出産の時を迎えた。
それから二年半。スクールを出たスティーブは、中小企業ではあるが経理の仕事にありついた。現在の生活はとても安定している。
末っ子からお兄ちゃんとなったリークは、八つ下の弟・マイクの面倒をよく見た。その日も変わらない団欒の中で、二歳半のマイクを膝に置き、絵本を広げて読み聞かせていた。
「みてごらん、天使がたくさんいるよ」
絵本の絵を指差しながら、リークはマイクに話しかけた。マイクは手を叩いて喜んだ。
「これ、ボクだよ。ねえ、ここにいるの、ボクだよ」
リークは「え?」と笑いながら、絵本を眺めた。よく見ると、二十人描かれている子供の天使達の中に、栗色の髪と鳶色の瞳の天使がいて、それがとてもマイクに似ていたのだ。
「あ、本当だ。マイクがいるね。驚いたなあ。マイクは天使だったの?」
冗談っぽくリークが問いかけると、マイクはこくりとうなずいた。
「うん。もうすこしおっきくなったら、またカミサマのところへ、かえるの」
「……え?」
リークはやや返答につまって、口元をゆがめた。
「なに言ってるの? やだよ。マイクにはどこへも行ってほしくないな」
「でも、かえらないと」
マイクの言葉が妙にしっかりしていたせいか、急にリークの胸に、とめどない不安と悲しみが溢れた。
リークが急に泣き出したので、たまたま一番近くにいた長女のリンダがそばへ寄った。
「どうしたの?」
「マイクが、今よりも少し大きくなったら、神様のところへ帰っちゃうんだって。そんなのいやだよ。神様にはあげたくないよ」
リンダは半ば呆れた顔で笑いながら、リークの頭をなでた。
「バカね。どこへも行ったりしないわよ。赤ちゃんの言うこと真に受けないの」
「でも、マイクは天使なんだって」
「ええっ!?」
何かおかしなことを言い出したと、困った表情を浮かべるリンダに、なおもリークは噛みついた。
「絵本にも載ってる。ほら、見てよ」
リークは絵本の天使を指差した。すると、しぶしぶ覗き込んだリンダの顔色が、一瞬だけ青ざめた。
「やだ、よく似てるわね」
リンダは絵本を取り上げ、キッチンへ行った。
「お母さん! ねえ、ちょっとこれ見てよ。すごいのよ。マイクにそっくりなの」
「あら、なあに?」
リンダは絵本を見せ、母親の反応を窺った。
「ほんと! そっくりね」
うれしそうな笑顔を浮かべる母親に納得しながら、リンダはおかしそうに肩をすくめた。
「リークがこれを見て、マイクは天使だから、いつか神様のところへ帰っちゃうんじゃないかって心配して泣いてるの。どう思う?」
「やーね、ほんと? もうそんな勘違いする歳じゃないと思うんだけど」
ケリーはぶつぶつ言いながらもリークの様子を見に行き、肩を抱いてやった。
「あのね、リーク。母さんにとっては、あなたも天使なの。兄さんも姉さんも、みんなが天使よ? だからマイクだけが神様のところへ帰るわけじゃないの。泣かなくてもいいのよ。わかるでしょ?」
リークはやっと心を落ち着けたように、うなずいた。
「みんなが天使なら、心配いらないね」
「そうよ」
彼女は微笑み、リークの頬にキスをした。




