雨晴れ
息が切れるまで走って、気がつくと実習棟の裏にいた。ここには正門よりもいくらか地味な外観の裏門があるが、防犯の都合上、普段は閉じられているので、人気はまるでない。
雨足が強くなってきたので、俺は草取り鎌や外で使う道具が収納されている、掘っ立て小屋の軒下に入った。トタン張りの屋根に、大きな雨粒が当たりけたたましい音を立てる。終ぞ体育祭でも見せなかった全力疾走をしたせいで、肺が痛い。こんな状況で運動不足を噛み締めた。
「はぁーあ……」
積んである木材に腰かけ、息を整えるついでにため息をついて、汗と雨で濡れた顔を肩で拭った。その肩も濡れている。
思いっきり逃げてしまった。せっかく、空閑がわざわざ来てくれたというのに。スミレさんが来るのも、予測できないことではなかったのに。俺はあれからスミレさんに一切連絡をしていないけれど、空閑はずっと気にかけて、サポートしてあげていたようだから。
「何してんだ、お前」
「うわっ!」
急に声をかけられ、ようやく落ち着いたばかりの心臓が再び跳ねた。
「なんだ、住吉さんか……」
顔を上げると、小屋のドアから、いかつい顔をした初老の男性が顔を出していた。一高七不思議、神出鬼没の用務員こと住吉さんだった。
「なんだとは随分だな。どうした、しみったれた顔して」
住吉さんは隣に腰かけ、タバコに火を点けてふかし、ゴロゴロと喉の奥で話す。どうにも堅気ではなさそうな雰囲気を持っているので、教師にも生徒にも怖がられているが、俺は嫌いではない。
「いやァ、ははは……。ちょっと自己嫌悪で反省会中」
「体育祭はマシな動きしてたじゃねえか」
「見てたの?」
「グラウンド周辺にいてくれって、頼まれてたからよ」
なるほど、有事の際にまで神出鬼没では困るから、ということか。しかし借り物競争の際には、住吉さんがお題だった男子生徒は結局見つけられずリタイアしていた。どこにいたのだこの仙人。
「まあ、体育祭とは関係ないんだけどね……」
真青にも悪いことをした。母がフォローしてくれているだろうとは思うが、それもまた情けない。自分の失態を思い出すたびに、ため息しか出ない。住吉さんは、何も言わず隣でタバコをふかしていた。
「……人って、なんでいろんなこと忘れるんだろ」
「そりゃ、忘れないと、辛いことを何度も思い出して、気が狂うからだろう」
「いらないことだけ、忘れられればいいのにね」
「それが本当にいらないことかどうか、常に冷静に判断できるほど、人間の頭は良くねえからな」
「そっか」
ぽつりぽつりとそんな話をして、しばらく俯いていると、雨が小降りになってきた。
「……帰ろうかな。お腹空いた」
腹が空くと余計に気分が落ち込むことを、経験上知っている。これも記憶だ。立ち上がった俺に、住吉さんが三本目のタバコを携帯灰皿に仕舞いながら言う。
「気が済んだか」
「うん。ありがとう、住吉さん」
いろんな人に謝らねば。まずは母に。俺は住吉さんに別れを告げて、手っ取り早く、通行を禁止されている裏門を乗り越えて、
「堂々とやるんじゃねえよ」
フェンスの向こうから叱られた。
× × ×
家のドアに手を掛け、深呼吸をしてからノブを回した。
「ただいま」
癖で確認した足元に、靴が二足あった。片方は母の靴だが、もう片方は更に小さい。この靴、見覚えがある、と思った時だった。
「「おかえりー!」」
リビングから顔を出した母の下から、ひょこっと真青が顔を出した。
「うえっ?!真青さん?!」
きっとなんでもないような顔で出迎えてくれる母に、まず謝ろうと意気込んでいたのに、思いきり出鼻を挫かれた。
「お邪魔してます!」
「えっ、アッハイ」
母の後ろについて全身を現した真青が、何故か母のエプロンを着けていたものだから、さらに動揺した。番組の企画で作られ商品化された、機能的かつ可愛らしいチェック柄のエプロン。母は赤で、真青は青。よくお似合いです。じゃなかった。何が起きているのだと混乱している俺を見て、母は微笑んだ。
「何か言うことがあるんじゃない?」
「あ、えっと……。逃げてごめんなさい」
我に返って、腕を身体の側面に付けて深く頭を下げた。その後頭部に、声がかかる。
「春果ちゃんにも」
「嘘ついて、ごめんなさい」
頭を下げたところで、許されるとは思っていない。事情があったにせよ、自分の都合で、真青を騙そうとしたことは確かなのだ。
「私が訊かなければ、駆君も嘘つかなくてよかったんだもん。もう気にしてないよ」
ことのあらましは母から聞いたのだろう。静かな声だった。
「甘やかしちゃダメ。こういう時は、何か要求するとか、罰を与えるとか、したほうがいいの」
女神の寛大すぎる御心に顔を上げたところで、母が入れ知恵をした。声を荒げたりすることはないが、笑顔で怒るので逆に怖い。
「仰せのままにいたします……。俺にできることならなんでも」
「そんな、駆君には今までもいろんなことしてもらってるし!これ以上何か頼んだりなんて、できないよ」
足元にかしずく勢いの俺に真青が慌てた。
「優しいなァ春果ちゃん。何でも言うこと聞くって言ってるんだよ?絶対やらなさそうなことやらせるとか、すればいいのに」
「やらなさそうなこと?」
悪魔の囁きに、女神が揺らいだ。真剣に考え込み、ちらりと上目遣いで俺を見て、
「……前髪上げて学校に来るとか」
「勘弁してください!!」
的確に、俺が最も下されたくない命令を思いつく真青だった。
「いいじゃない!」
真青の提案に、母がぱあっと顔を輝かせた。常々、前髪を切れ顔を出せと言ってくるのだ。
「無理無理!それだけはホンット無理!」
「なんで?バイク乗るときとか、ちょっとおしゃれなとこ行くときとか、前髪上げるじゃない」
「それは知り合いに会う予定がないからいいんであって!学校は無理!」
「何でもするって言ったのに」
「うっ!いや、できることはするけど……本当……それだけは無理……」
腕を交差させ必死に拒否の意を示す。十年近く、このフィルターと共に生きてきたのだ。いきなり視界百パーセントで学校に行けなど、そんな殺生な。
「何がそんなに嫌なの?……仕方ない、罰ゲームは追々考えましょう。駆、着替えておいで」
「はい……」
罰ゲームかよ。突っ込んだら何を言われるかわからないので何も言わず、すごすごと自室に向かう俺だった。




