雨冷え
「もしもし、父さん?ちょっと信じられないこと言うけど、本当だから信じて。友達の女の子が、攫われたみたいなんだ。名前は黒野澄玲、二十三歳。住所は――」
俺から聞いた情報を、電話口の相手に伝えるあーさん。
「スターライトパレード所属の役者で、長い黒髪の美人。――うん、そうかもしれない。バイト帰りに誘拐されて、電車がよく通る線路沿いの、アパートかマンションに監禁されてるみたい。つい五分くらい前に雷が鳴った、土砂降りの地域。ケイタイは、さっきまで繋がった」
俺は、はっと思い出して、付け加えた。
「のす姉、狭くて暗いところに閉じ込められるとパニック起こすんだ。多分今も!それに、殴られて頭に怪我もしてる。早く助けないと……!」
「聴こえた?うん、じゃあ、任せた」
落ち着け、というように俺の肩を叩いて、あくまでも冷静に、あーさんは電話を切った。
「父さんね、警察のちょっと偉い人なんだ。……都内で、夜道を歩いていた女性が暴行される事件が立て続けに起きてる。被害者は長い黒髪の美人ばっかり。……三日前はとうとう死者が出た」
「え、まさか」
その事件なら、ニュースで見た。さすがに被害者の共通点までは伝えていなかったが、裏を返せば、その情報を知っている人物は限られる。同じ特徴を持つスミレさんが襲われたというのは、偶然が過ぎる。
「同一犯の可能性が高い。決定打がないだけで、犯人の目星もある程度付いてるって言ってた。大丈夫、すぐに見つかるよ」
漫画みたいに、一般市民が攫われた友達を助けるために単独で出しゃばり事件を解決、なんていう都合のいいことは、起こらない。慌てても心配しても、どうすることもできない。ただひたすらに無力だった。
容疑者確保とスミレさんの無事が確認されたという連絡が入ったのは、その日の夜だった。
犯人は都内に住む三十代の男だった。好みの女性を見つけては後を追け、暴行を加えていたらしい。女性が抵抗する様に興奮するという変態性癖の持ち主で、スミレさんは最初の一撃で脳震盪を起こして気を失ってしまったため、下手に刺激して前の女性のように殺してしまわぬよう、連れて帰り自然に目を覚ますのを待っていたのだそうだ。こだわり派なのか何なのか、よくわからない。わかりたくもない。
近所のコンビニに昼食を買いに出ている間にスミレさんが俺からの電話で目を覚まし、男の帰宅と同時に電話終了。すぐに、スミレさんは暗閉所恐怖症で過呼吸を起こして再び気を失ってしまい、男がまた目を覚ますのを待つ羽目になっている間に、警察が目撃情報や物証を固め乗り込んできた、というのが、事のあらましだった。スミレさんの鞄も、犯人の部屋から見つかったそうだ。中身を漁った様子はなく、攫ってきた人間の携帯電話の所在すら確認していないところなど、殺人まで犯した割に間の抜けた男だった。
「のんちゃん、まだ目を覚まさないみたいだけど、今のところ命に別状はないって。頭の怪我も、酷くはないらしいよ。じきに目を覚ますだろうってさ」
「よかった……」
泣きそうだった。その場にへなへなと蹲った俺の隣に、あーさんも座る。
「くろくんのお手柄だよ。のんちゃんが言ったこととか、周りの音とか、ちゃんと覚えてたから」
「あーさんが電話してみろって言わなきゃ、攫われたことにも気付かなかったんだよ?」
あーさんは、くろのすが来なかったと言った時点で感づいていたのだ。
「そりゃあ、情報があったからね。学校に同じような特徴の子がいたら気を付けてやれって言われてたし。……さすがに、のんちゃんが標的になるとは思ってなかった」
都内に住んでいて、リアルも似たような見た目だとは聞いていたのだから、注意するべきだったのに、と、あーさんもあーさんで凹んでいた。
翌日、参考人として話を聞きたいとのことで、俺は都内に呼ばれた。事件解決への協力を感謝されたが、いまひとつピンと来ない。全体的に、解決に向かわせたのはあーさん、空閑真宙なのだ。俺は、彼に言われた通りにしただけに過ぎない。
その日の夕方、スミレさんが目を覚ましたという報せを受け、空閑と共に彼女が運び込まれた病院に向かった。
「傷の程度は軽いのですが……事件のショックからか、記憶の混濁が見られます。事件の前後のことも、全く覚えていないと言っています」
渋い表情の医師からそんな説明を受け、空閑と俺は顔を見合わせた。つまり、俺が電話したことも覚えていないということか。よりによって大嫌いな暗くて狭い場所に閉じ込められていたのだ。多少の不具合だって出るだろう。
痛々しく包帯を頭に巻いたスミレさんは、白いベッドから上半身を起こし、窓の向こうの夕焼けを見ていた。俺たちが病室に入ってきたことに気付いて、振り向く。
「スミレさん、大丈夫?」
ベッドの脇に立ち、話しかけると、
「ああ、うん。ありがとう」
ふ、とスミレさんは目を細めて笑った。
「実際に会うのは初めましてだね、のんちゃん。とーすとでお世話になってる、あれあだよ」
空閑も挨拶した。
が、しかし。
「とーすと……?って、なんだっけ」
ええっと、と眉間に人差し指を当て、スミレさんは考え込んだ。その言葉に、俺と空閑はぽかんと口を開けて、固まってしまった。
「ごめん。……カレンダーの日付と、わたしが覚えている昨日の日付に、二年くらいのずれがあるんだ。わたしはもう、二十一歳じゃないみたいだね?」
「……俺は、去年の五月頃に、二十三歳って聞いたよ」
スミレさんの誕生日は、三月三十一日だと、以前本人から聞いた。年度の変わり目で皆忙しく、あまり祝ってもらえないと。今年の誕生日はくろすが祝ってくれるから寂しくないと、ついこの前話したばかりで。
「そうなのかい?……じゃあ、きっとそれが正しいんだろうな……」
「曖昧、って言うより、ほとんど覚えていない感じ?」
空閑が訊ねた。スミレさんは、少し考えてから、頷いた。一昨年の三月からの、約二年間の記憶がない。それはつまり、去年の四月に始まったとーすとの記憶も、丸ごと抜けているということで。では、その中で起きた出来事も、会ったプレイヤーのことも――。
「きみも、きっと会ったことがあるんだよね」
変わらぬ澄んだ瞳で俺を見た、その表情は真剣そのもので、からかっているようなそぶりはなかった。
「……忘れるなんて、最低だね、わたしは」
目を伏せる彼女の声が、酷く遠く聴こえた。
× × ×
その後のことは、よく覚えていない。仕事で都内に出ていた母と合流して家に戻り、最低限の事情を話した。母は深く聞いてこなかった。ただ、スミレちゃんが助かってよかった、とだけ言った。
それから、高校の入学式までずっと、とーすとに入り浸っていた。
もちろん、くろのすは来なくなった。療養や、記憶を失くしたことによる様々な弊害で、ゲームどころではないのだろう。復帰したところで、親しいプレイヤーたちに事情を説明するのも憚られる。
始めの一ヶ月ほどは、もしかすると記憶が早々に戻って復帰してくれるかもしれないと、期待していた。あーさんが、無事に退院しただとか、仕事に復帰し始めただとか、何かあると伝えてくれていたが、それもそのうち、なくなった。
アバターのデータは残っていても、俺を一番大事な友達と言ってくれた彼女はもういない。一緒に旅をした場所をまた訪れても、この一年間を証明してくれるものはどこにもなくて、自分の記憶すら疑わしくなった。
くろのすは死んでしまったのだ。そう思い込むしかなかった。
「……雰囲気が変わりましたね」
ある美さんが、おばけマントを脱いで、ゴーグルを愛用するようになった俺に、一度だけそう言ったことがある。
「うん、イメチェンって奴?ちょっとした変化に気付いてくれるの嬉しいなァ」
「自惚れないでください。真っ白が真っ黒になったら誰でも気がつきます」
「でも誰も言ってくれないんだよ」
「……人望では?」
その他、よく話していた面子も皆、くろのすの姿が見当たらないことを、俺が付けているゴーグルが彼女が付けていたものを同じ形だということを、何も訊いてこないのがありがたかった。




