彼女とのくろにくる
知り合って一ヶ月が過ぎた頃には、くろのすは裁縫スキルを覚えて、自分で服を作るようになっていた。名前に『くろ』が入っているからか黒っぽい服を好み、ライダースジャケットと黒い革パン、頭にゴーグルというタイトなバイク乗りのような格好がトレードマークになりつつあった。俺は当初からの目的だった料理スキルを嗜み始め、くろのすに対抗して白っぽい装備を集めるようになった。『おばけマント』という、要は白いシーツをよく被っていた。
エメラドに行けるようになると、くろのすは「ちょっと作ってみたかった」と言って、ギルド設立に誘われた。設立にはメンバーが、マスターを含めて最低二名いなければならないのだ。一度立ててしまえばその後の人数は問われないので、抜けてソロに戻ってもよかったが、わざわざ抜ける理由もないので、そのまま二人で適当にやることにした。
こうして、超極小身内限定ギルド『くろにくる』が誕生したものの、人員を増やす気もない彼女は今まで通り、適当にログインしては必要な時だけ俺を呼び、俺もほとんどギルドに入った意味がないようなソロプレイを繰り広げていた。
「くろすの両側に付いている文字、ずっとエックスだと思っていたけれど、数学記号のカケルなんだね」
ギルドメンバーのリストを見た時、くろのすがそう言った。
「のす姉のはエックスなんだ?」
頭上の文字とリストの文字のフォントが違ったので、お互いそれで初めて気付いた。
「ゼウスの父でなく、時間の神のほうの意味に取ってほしかったから付けたのだけど……あまり意味はないことに、最近気づいたよ」
そもそも、その二つが綴りが違う別の神だということ自体、俺も調べるまで知らなかった。気に掛けるプレイヤーがいたら、きっと神話マニアだ。続けて、くろのすは俺に訊ねた。
「くろすはどうしてくろすなの?」
「シェイクスピア?」
「違うよ。というか、読んでいるんだねそんなもの。イマドキの男子中学生が」
その言い方がなんだか年寄りじみていて、笑いながらくろのすに訊き返した。原作を読んだことは無いが、母がDVDを借りて来た洋画のロミオとジュリエットを一緒に観たことがあって、覚えていたのだ。
「イマドキのって、のす姉、いくつ?」
「レディに歳を訊いてくるとは良い度胸だね。……二十三だよ。まだ訊かれて困る歳じゃないから、答えてあげよう。二年後には答えたくないね」
くっくっ、と、喉の奥で笑った。
「俺は本名が駆だから、割とそのまま」
×の記号はクロスとも読むので、安直なプレイヤー名だ。
「思いがけないところで、個人情報を聞いてしまったね。等価ってことで、私の名前についても教えてあげよう。苗字が黒野でね、名前が澄玲っていうのさ。だから縮めてくろのす。単純でしょう」
闊達とした雰囲気に似合わず、と言ったら怒るかもしれないが、儚げで可憐な名前だ。もしアバターを写真から作っているとしたら、外見にはぴったりな名前だった。
「……ふふっ、一応役者なんだけどね。聞いたことないでしょう。まあ、こんな風にゲームでしょっちゅう遊んでる時点で、売れてないのは丸わかりだけどね」
「そうなの?それで口調と仕草が芝居がかってるのか」
俺が無反応だったのを見て、少しだけ落胆した様子を見せるくろのすだった。
「そんなに変な口調かな。まあ、役になりきろうと張り切りすぎて、自分の本来のキャラクターが分からなくなることは、よくあるけれど」
自覚はないようで、腕を組んで考え込む。
「でも、今度小さな舞台で主演をやらせてもらえることになったんだ。よかったらくろす、見にこない?席の賑やかしにさ」
そう言って、舞台の情報が載っているサイトのURLをメッセージで送ってきた。メインビジュアルの中心で切なげに目を潤ませている恐ろしく美しい女性が、今目の前にいる彼女と同一人物だと気付くのに、少し時間が掛かった。素顔でも十分に美人だが、舞台の化粧をすると、妖艶さが増す。
「いいの?舞台とか、俺よくわかんないけど」
舞台演劇なんて、紳士淑女が嗜むものではないのか。おちゃらけた中学生男子なんかがホイホイ観に行ってもいいものなのだろうかと怖気づく俺に、くろのすは微笑んだ。
「そう格式ばったものではないから大丈夫。映画館のマナーが守れるくらいで十分だよ。チケットは送るから、よかったらご家族も一緒に」
「本当?父さんは仕事で来られないと思うけど、母さんは喜ぶよ」
「じゃあ二枚送るよ。メッセージで住所教えて」
「わかった」
× × ×
届いたチケットを持って母と二人、現実の彼女に会いに行った。あまり変な格好をしていたら彼女の迷惑にもなりかねないと、久しぶりにワックスなど使って前髪を上げ、あまり潤沢ではないワードローブから、心なし仕立ての良い襟付きの服を選んで出かけた。
場所は都心の小さな劇場で、演劇のストーリーは、ロミオとジュリエットを現代風にアレンジしたものということだった。きっと、俺がストーリーを知っていることがわかったから、誘ってくれたのだ。
『チケット見せたら楽屋に入れると思うから、本番前に会いに来てよ』と言っていた彼女の言葉と関係者席のチケット、そして顔が売れ始めた母のおかげであっさり楽屋に入れてもらえた俺は、初めて黒野澄玲に会った。
「のす姉」
「くろすかい?!……じゃなかった。カケル、よく来てくれたね」
壁一面に大きな鏡のある部屋で、澄玲は俺たちを笑顔で出迎えてくれた。既に衣装もメイクも終わった後で、スポットライトの眩しさに負けない美しい女優がそこにいた。
「じゃあ、俺もスミレさんって呼ぶよ」
「なんだか、さん付けで呼ばれるのはくすぐったいね」
華やかに着飾った彼女の姿は、いつも話しているくろのすとは別人のようだったが、目を細めてくっくっと喉の奥で笑う仕草が一緒で、俺は少し安心した。
「一応、本当に年上だってことが分かったからね」
「口が減らないね。……まあ、いいか。本当に、来てくれて嬉しい。お母さまも、わざわざご足労いただいてありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそお招き頂いて、とっても嬉しいです。いつも駆がお世話になっているみたいで」
「そんな。むしろ世話をされているようなものですよ」
「まったくだよ」
「こら!」
社交辞令にボケを被せると、母に後頭部をはたかれた。痛くはないが衝撃が強いという、母独特のツッコミだ。澄玲はまた、くっくっと笑った。
「そうそう。これ、ケーキなんですけど。よかったら皆さんで召し上がってください」
「えっ!すみません、気を使っていただいて」
母が差し出したホールケーキを、澄玲は恐縮しながら受け取った。箱を少しだけ開けて中身を見て、わあ!と無邪気な歓声を上げる。生クリーム系の菓子類に目がないことは、ゲーム内で俺に要求してくる料理のレパートリーで気付いていたので、何か差し入れをと言う母に助言したのだ。俺も少し手伝った。
「手前味噌なので、お味の保証はできませんけど」
「手作りなんですか?!……誰かに似ていると思っていたら、もしかして、料理研究家の佐藤楓さん?」
「あら、ご存じなんですか?お恥ずかしい」
きゃらきゃらと、普段より上品に笑う母に、澄玲の顔が強張る。
「カケル、どうして先に言ってくれなかったのさ。芸能界の先輩じゃないか」
「やだ、ただのお喋りな主婦ですよ。お気になさらないで」
「そうそう。友達の母親なんだから、気にすることないって」
母と俺が口々に言うと、澄玲は、はあ、まあ、そういうことなら、と無理やり納得して、表情を取り繕った。
「カケル、写真撮ろうよ。今日の記念に一枚」
「いいよ」
スマートフォンを出した澄玲に、母が手を差し出した。
「じゃあ、私が撮ってあげる。駆、折角綺麗な舞台女優さんと一緒に写るんだから、せめて笑いなさい」
「せめてって何」
はは、と俺が思わず噴き出した瞬間を、母はカメラに収めた。




