名前
噂が広まり始めるとやはり、旧校舎に肝試し感覚の生徒たちがうろつき始めるようになった。部室は暗幕が引いてあるので中は見えないが、放課後も迂闊に近寄ることができず、げきま部の活動は再び自宅からの接続になってしまった。
「皆もの好きだなあ」
梅雨入りした空はどんよりと薄暗く、口を尖らせる真青の心を映しているかのようだった。ちなみに今日は土曜日で、部活をしている生徒以外は登校していないため、旧校舎は久しぶりに静かだ。
「真青さん、お化け嫌い?」
「ホラー映画は苦手かな。びっくりするじゃん」
その人気のない廊下で、俺は真青と二人、壁に寄りかかってだらだらと喋っていた。
「ああ、わかる。驚かすのを怖がらせるのの代わりにするのは勘弁してほしいよね」
「とーすとのショール城も、いきなりモンスター飛び出してくるから嫌」
ライムの憧れ、デスサイスの素材が落ちるショール城は、仮想現実システムを大いに活用してプレイヤーを脅かしてくる。そのあまりの怖さにクレームが殺到し、ゲームのストーリー上必須だったクエストが別の場所に変更されたほどだ。今でも、城に入る際には『ホラーが苦手な方・心臓の弱い方は入らないでください』という警告が表示される。それでも仕様や演出自体を改めないところが、とーすとである。
「ところで駆君」
「なんですか」
「いつになったら名前で呼んでくれるのかな」
例の噂を払拭するために付き合っているふりをする作戦から早半月、俺は未だに真青を苗字で呼んでいた。このまま逃げ切ろうと思っていたのだが、とうとう限界のようだ。
「いや、その……」
「ホラ、海鳥ちゃん呼ぶみたいに、”春果”ってさ」
そうは言われても、女神のファーストネームを呼び捨てにするなど、おこがましいにも程がある。海鳥と同じように気軽に呼べるものではない。しかし、真青は雨雲を吹き飛ばしそうな期待の眼差しで俺を見てくる。名前で呼ばれることに、何のこだわりがあるのだろうか。
散々ためらったものの、逆らうこともできず、
「えっと……じゃあ、春果ちゃん」
「うん!」
せめて敬称をつける抵抗を試みると、真青は笑顔で頷いた。俺がその一単語を口に出すだけで手汗を掻いていることなど、彼女が知る必要はない。
「……あのさ」
不意に、ずっと気になっていたことを、この際訊ねてみようかと口を開いた。しかし。
「ん?」
訊ねたらきっと、またいつかのように空気が重くなる。少なくとも、今訊くことではない。
「……やっぱりいいや……」
口を噤んだ俺に、真青が首をかしげる。
「何?気になるじゃん」
もたれていた壁から背中を浮かせ、真青がこちらを向いた時だった。
階段のほうから、カツン、カツン、と緩慢な足音が聴こえてきた。
× × ×
その頃、巧はグラウンドにいた。
「なんでうちまで来なあかんの……」
土曜日だというのに、制服で集合させられた海鳥が、ぐちぐちと文句を言う。
「いいじゃねえかよ、どうせ暇だろ?」
「暇やない!うちのギルド、六月の週末は学園エリアでメーレーやってんねん」
「相変わらず物騒なギルドだなあ……」
言い合いをしながら、巧は目を細めてグラウンドで部活動をしている面々を見た。そして、
「つっきー!」
ジャージ姿でサッカーボールを蹴っている月下翔を見つけて、呼び寄せた。
「あれ、巧じゃん。なーにー?」
ドリブルしながら寄って来た月下は、最後にぽーんと高くボールを蹴り上げた。巧はそれを反射的に胸元で受け、リフティングを始める。リズミカルに上下するボールを、海鳥はぽかんと口を開けて目で追う。
「つっきーさあ、旧校舎の幽霊見たことある?」
「幽霊は見てないなー。野球部が騒いでんのは聞いた」
巧が蹴ったボールを月下が受け取り、同じようにリフティングしながら答える。そしてまた、ボールは巧の足に吸い寄せられた。
「……アンタらのその足、どないなってん」
「どうもしねえよ。ほれ」
「うわっ!無茶ぶりやめーや!」
突然パスされ、うっかり避けてしまったボールを追いかけて走って行く海鳥の背中を見ながら、月下が言った。
「春果ちゃんと別れたんだって?もったいない」
「別にもったいなくねえよ。元々身内みたいなもんだし」
「あれ、四組の蟹屋敷さんでしょ。次の彼女?」
「まだ違う。お前、妙に女子の名前詳しいよな」
予想以上に遠くまで転がっていってしまったボールをやっと拾い上げ、海鳥が不機嫌そうに半眼で睨みながら戻ってくる姿を、月下はにやにやと口の端を上げながら見た。
「なんだ、まだか。……結構可愛いよね。一年の時だけど、通りすがりに廊下でナンパしたら睨まれたことある」
巧の眉間に皺が寄った。
「巧くんこわーい。で、肝試しして気ィ引こうって?」
「いや?ただの幽霊退治」
「へー。もうすぐ休憩だからさあ、俺も混ざっていい?ああ、邪魔じゃないならだけど」
「いいぞ。噂話してた奴全員連れて来い。野球部も」
「おっけー、いっぱい集めてくる」
ぐっと親指を立てた月下に、戻って来た海鳥がボールを返した。
「なんやの、こそこそ話しよって」
「海鳥ちゃんって可愛いねって話してたんだよ。いてっ」
無言で脛を蹴る巧だった。
「よう回る口やなあ。どうせ誰にでも言ってんねやろ」
「女の子は皆可愛いからさあ」
歯の浮くような言葉も海鳥は鼻で笑い、
「月下、そろそろ部活戻れ」
巧は真顔でボールを取り上げ、できる限りの全力で遠くに蹴った。
「うえっ冗談じゃん!ガチで怒るのやめて!ちゃんと休憩時間まで待っててよねー!」
月下は悲鳴を上げ、他の部員が練習する中心に落ちて行くボールを、慌てて追って行った。




