神域◆
なるほど。と、広いベッドの上で目覚めた少女、幸次は呟いた。
「そいつらならこの体もどうにかできるかもな」
されるがままに女官に体を清められている少女、ディアーナはつい先ほどまでの耳元で聞かされた話を思い出していた。
汗と自身の荒い息を不快に思いながら聞いたそれは、自分のもうひとつを殺すもので……現状をどうにかできる可能性があることを示唆するものであったのだ。
(幸次は……眠っている)
もうひとりの意識が無いことを確認して、ディアーナは自分の考えをまとめようと、目を瞑った。
寝台へ移動し、女官が退出していくのに合わせて、傍らの小机から紙とペンを取り出し、頭の中でまとめたことを書き出した。ディアーナは、自分から何かをすることが無かった。そのことに気が付き、自分の周囲の人々……教皇とその面々に一泡吹かせられると気分が高揚し、紙に書かれる文字が躍った。
読んだ紙片を机の中にしまう。鈴を鳴らし、女官が入室してくるのを見ながら、「今日、神域に入ります」と簡潔に伝えると、女官は普段は淀みなく着替えを用意するのに、一瞬だけその動きを止めた。そして深々と礼をし、「では先にお体をお清めいたします」と言い残して浴室の準備を始めた。
「どういうつもりかな?」
簡素な作りだが、テーブルの一番奥の上座に座る壮年期を僅かに超えた男が口を開いた。
「今まで儀式など受けるそぶりも見せなかったというに……」
「猊下。それにつきましては、私共が日ごとに聖女様にお願いに上がってのことで……」
どうだかな。と、猊下と呼ばれた男は思う。元々候補として選定された候補は候補のままで終わるはずであったのだ。帯びる魔力もその使い方も、性格までもが向いておらず、次代の登場まではまだ待たねばならなかったはずなのだ。それがいつの間にか聖女としてほぼ覚醒したことになっている。そして、魔力も使い方も全てが反転したかのような報告が上がり始めたのだ。そして、目の前の枢機卿が聖女の寝室に出入りしていると報告があったとき、完全に聖女が取り込まれていることを知った。
どのような手段で取り込んだのか、おおよその想像はつくが状況証拠のみでもあり、派閥としても教皇派と比肩するくらい大きなものでもあり、手を付けにくいところだ。
教皇の内心のため息とともに、朝の礼拝後の会議の議題は、儀式の手続きと他の話題へと流れていった。
正式に聖女と呼ばれるようになるには、この大聖堂の地下深くにあるという『神域』に赴かねばならないとされる。膨大な魔力が渦巻く神域には、同じく親和性のある強大な魔力を持つものしか近づくことができない。そこには人々……主に教会関係者が神と呼ぶ存在がいるという。
儀式を終えると御印を刻まれ、ディアーナは正式に聖女として認められるのだ。
「では私はここで……」
大汗を流し、顔色を悪くした司祭がディアーナに頭を下げる。
「お見送りありがとうございました。では行ってまいります」
ディアーナ……中身は幸次である外面よく微笑む聖女候補は、戻っていく司祭を見送った。
姿が見えなくなったのを確認して、幸次は「ふん」と鼻で笑って目の前の扉に手を当てる。バチッと何かがはじけたような音がして、ゆっくりと扉が開く。
押し寄せる濃密で肌で感じられるほどの魔力に少しだけ眩暈を覚える。「こりゃ、普通の人間が入ったらえらいことになりそうだ」と呟きながら、足を踏み入れる。
ここからは素掘りのトンネルだ。舗装もされていないトンネルが下りながら続いている。
「帰りがしんどそうだ……前の体なら下りで膝痛めそうだけど」
親父臭いセリフを吐きながら下っていく。肌が透けるほど薄い衣を身に纏い、飾り鈴をしゃんと鳴らして。
「明かりは……っと」
指先にチカッと火花のような光が瞬いたかと思うと、ふわりと幸次の周囲が明るくなった。今代の聖女が持つ最大の特徴がこの魔術発動のプロセスだ。 通常魔術を行使する際の術式は、魔力で回路を作り作った回路に発動用の魔力を流すことで発動させる。この回路が複雑だと規模も大きくなり、流す魔力も多くなる。流す魔力が多くなると、魔力に耐えられるように回路自体を補強させねばならず、補強用の術式を組み込まねばならなくなり、術式自体が大きくなりがちだ。さらに悪いことに術式は他人から見えてしまうのだ。相手に見破られないようにするために、術式にダミーを混ぜるような真似をすることもある。それを幸次とディアーナは豊富な魔力と簡略化、構成力と発動速度を極めて、極小にしてしまったのだ。
地中深く潜るほどに湿気と温度が上がっていく。さらに1時間ほど下る。
「あっちー! やっとついた! 戻るのめんどくせぇ」
張られた結界を抜けると、広間になっていた。
ドロリとした感覚が肌を滑っていく。このまま溶けるに身を任せたくなる衝動を抑えながら待つ。
「お前が」
「貴女が」
「貴方が」
「何人目?」
「40くらい?」
「わたしたちの子?」
「2人いない?」
「どうして?」
「ふたりでひとりぶん?」
「名前は」
「ディアーナ。もうひとりは幸次。俺だ」
「やっぱりふたり!」
「どっちで呼べばいいの?」
「俺? 男なの?」
「体は女の子なのに」
「……うるせー……」
「ではわたしが話そう。皆は還るとよい」
気配が次々と消えていき、ついにはひとつだけになった。
「ずいぶん若いのだな……わが子達よ」
「ディアーナでいいよ。印と……ついでにお願いがある」
それを聞いた存在からは、喜びと怒りと僅かな悲しみの波動を感じた。
帰り道、文句を言いながら「帰ったら飲む」を頼りに進む幸次の胸には、代々得てきたものとは若干意匠の違う御印が刻まれていた。意識を分割し、幸次の意識を封ずる術式。それを強大な魔力で緩和させる対抗術式を聖人の御印に組み込んでもらったのだった。
これで俺が表で活動できる。ディアーナだけに負わせなくてよくなる。あいつらの思うままにさせずに済む。と幸次は
足取りは文句をいう割には軽い。
神域。代々の聖人が膨大な魔力を持ったまま最後を迎えると言われている場所。位相の違う空間に同化しつつも、その魔力を放出し続ける。
大陸東部のみならず、全体を覆うように放出し続ける魔力の源。
入定する者をある者は聖人と呼び、ある者は贄と呼び、ある者は魔王と呼ぶ。
まだまだ続く長い上り坂。「ビール飲みたい」新米聖女はランニング中のおっさんのようなことを呟いた。




