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素晴らしき楽園へと至る水供給装置に振りまわされる者

 幸次は憤怒の表情を浮かべ、疾走していた。このような理不尽があってよいのだろうかと、怒りを露わにするのである。ひらひら翻る少し短めのスカートが鬱陶しい。

 人は過ちを犯す生き物だ。それはもう例外なく。

 ATMは過ちを正す仕組みが実に充実しているといえよう。曰く、「ATMへ行くように携帯電話で指示するのは犯罪です」そうであろう。これはある意味で情報の弱者となる人々への警告である。「暗証番号は定期的に変更しましょう」尤もである。今の時代、デジタルデバイスを利用する者の多くは、多かれ少なかれパスワードを利用するのである。パスワードは鍵だ。現金への、パソコンへの、機密文書への、特殊な用途を持つ画像への、投稿小説サイトへの。それらへの扉を易々とひとたび解放してしまえば、大変な悲劇を(もたら)してしまう。明日の糧が無くなる、パソコンに悪戯される、商売敵への情報流出、親または姉または妹からの生暖かいまたは嫌悪も露わな視線と暴かれる性癖、ブックマークされている小説のジャンルや内緒にしている連載中の文章。等々。などなどなどなど。ATMはこの重要な情報たる鍵は定期的に変えろ親切にも我々に言っているのだ。ここは是非とも心に刻まねばなるまい。

 また、ATMは驚愕すべきことではあるが、利用者の「忘れ物」にも注意を払っているのである。「お忘れ物はございませんか?」この愛に溢れる一言に我々は涙無しではいられない。あまつさえ、傘や携帯電話、スマートフォンと思しきアイコンまで付加されているところもある。これを見たドジっ娘は「あっ! いっけなーい! 傘忘れるところだったぁ! テヘっ★」と己の迂闊さを気が付かせてくれるのである。台詞が今ひとつ古臭さを感じさせるのは、幸次の精神年齢によるところであるので御容赦願いたい。

 あまりの過保護さ加減に唖然とせざるを得ない事実ではあるが、なんと現金を放置すると警告まで発する母親のような機能までATMは搭載しているのである。

 これほどまでに粗忽者に優しいATM。他の装置にも搭載すべきだとは思わないのか。と、うっかり者の1人である佐藤幸次は憤っているのだ。具体的には自動販売機などにもこの仕組みは設置すべきではないか。自販機こそが一部のうっかり者を救う仕組みが必要であると考える。


 ま、筋違いではある。なんということもない。最近やけに少なくなった自販機でビールを買ったのである。


 コンビニまで少々歩くのであるが、小さな酒屋は徒歩5分である。散歩して買ってくるにはちょうど良い距離である。釣銭に気を取られたのが失敗であった。と、幸次は後に語る。釣銭を遺漏無く手にした時点で、本目的の缶ビール500mlのことはすっかり忘れていたのである。その後、いつの間にか主目的が散歩に切り替わり、るんるん気分でいい陽気の空の下、公園でのんびりとベンチで寛ぎ、さてビールでも、とプルタブに手をかけたところで自分の物忘れに気がついたという次第である。



 当然というか、世知辛いというか。そこに楽園へいざなう神秘の水は無かった。いい年して地団駄を踏むが、もうなくなったものは仕方ないのである。あったとしても、既にそれは「温くなったナニカ」である。断じてビールではないのだ。

「ま、いっか。どうせお金はあるんだし。ビールはまだあるんだし」

 と、よくわからないことを呟きながら缶ビールを購入した。


 すっかり直った機嫌は公園に到着するまで続いた。やり遂げたのだ。手には本懐を遂げたことを主張するかのように、未開封のビールが握られている。あの公園のベンチでゆっくりと呑む至福の1本。期待で喉が鳴る。ややもすると駄目な大人であるかのようである。平日であるし。だが、この一杯のためであるなら、その程度のこと乗り越えられなくて何が呑兵衛か。見た目が見た目故に補導される恐れもあるのであるが、この町内を担当する交番とは色々と話はついているのである。つまり誰憚ることなく、ビールを煽れるわけである。幸次はほくそ笑んだ。



 ――幸次は今全力で走っている。取り忘れたお釣りを回収するために。


 釣銭口の硬貨を確認すると、はぁっと息をついた。


 もうすっかり疲れた。身体強化も忘れて走ったスカートから覗く白い脚はふるふると震えている。

 自分の粗忽さ加減にもうんざりだ。



 ほとほと疲れた。ビール飲みたい。



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