アストラ様が意地悪をおっしゃるなんて珍しいですね。
馬車が停まったのは広大な庭園を抜けた先、屋敷の前だった。
屋敷と同じシンメトリー仕様の美しい玄関扉が印象的だ。刻まれているのはなんの花模様だろう。ガラス越しだからというよりも、花の種類がわからない。公爵系の家紋とは違うようだし。
「ヴィッテ、深呼吸すると良い。いくらフィオーレ古代からの公爵家とはいえ、行き成りとって食ったりしないぞ。圧倒されるオーラはあるがな」
「あっアストラ様……。それは全然安心できる要素がありませんよぉ」
きりっと痛んだ胃をおさえてしまう。胃酸の分泌がすごそうだよ。
アストラ様は「すまん、すまん」なんて笑いながら、つむじを叩いてきた。ヘアメイクしているせいか、割とそのあたりは配慮されているようだ。なんかこれって、おひさまのお兄ちゃんみたいだ。
「アストラ様が意地悪をおっしゃるなんて珍しいですね。あっ、嫌だったと言うよりも――新鮮だったなぁって思って」
懐かしい。そう言いかけて、慌てて言いかえた。その表現はあまりにも不適切だ。
幼い頃にフィオーレを訪れた際、私はこの公爵家で少年だったアストラ様たちと出会っていた。
その記憶は私にとって本物でる可能性が高いとしても、アストラ様たちにとっては身に覚えのない妄言だ。到底、話せる内容の範囲から外れまくっている。
「う、ん。そうだったかな。昔は割と――いや、すまん。らしくなかったな」
「えっ、違うんです。さっきも言ったように、新鮮だっただけで。その、正直申しますと」
ただ甘やかされるよりも嬉しかった。やっぱり、言いかけて口を閉じた。
べっ別にマゾさんだからではない。この言葉を音にしてしまったら、何かのトリガーになってしまうって、反射的に思ったのだ。
「ヴィッテ?」
「アストラ。どうかしましたか?」
アストラ様の呼びかけに、オクリース様の声が重なった。
「……大丈夫だ。すぐに降りる」
短く応えたアストラ様が馬車の扉に手をかけた。わずかにおされた扉は、あとは自然と開いていく。
数秒の後、わずかな眩しさが薄れた先には数名の家人が控えていた。隙間からバニラの薫りが流れ込んできた。ヘリオトロープ ブライドブルーの紫色の花が見えた。
「お待ちしておりました。魔術騎士団ウィオラケウス司令官殿」
馬車を降りたアストラ様の向こう側には、たっぷりと白いおひげをたくわえ、堂々とした風采の持ち主だ。おそらくハウス・スチュワードかバトラーだろう。
耳障りの良い渋い声に聞きほれてしまう。仕草もすごく綺麗だ。
「カラムス、そのからかうような言い方はやめてくれ」
「なにをおっしゃいますか。このカラムス、幼少期から存じ上げているアストラ坊ちゃまのお姿に感無量なだけでございます」
きちっとした身なりと重厚な声色とは正反対、おちゃめな目元が印象的な方だ。
アストラ様は苦虫を噛み潰したような顔をするものの、言い返したりはしない。カラムスさんの後ろにいらっしゃる妙齢女性も微笑んでいる。その眼には、子どもを見守る母性を感じた。ただ、その隣に立つ三十ほどの男性は神経質にメガネをあげた。
「魔術騎士団ウェルブム参謀長殿もようこそいらっしゃいました。お二人が魔術騎士団の馬車で起しになるなど、着任のご報告以来で爺めは感激に打ち震えて御座います」
「カラムス殿。本日は部下を伴っているので、お手柔らかに願います」
オクリース様の視線を受けて、
「司令官付のヴィッテ=アルファ=アクイラエでございます。以後、お見知りおきいただけますと幸いです」
軽くスカートの裾をもちあげ、腰を落とす。
自分としては100点の姿勢だった。なのに、向けられている視線は圧倒的に『微笑ましい』という部類のものだった。主に年配の方々からの。
庶民だから、ではない。さっきのアストラ様と同様、成長を見守る親戚のようなやつだ。
「私、なにか失礼な振る舞いでもしてしまいましたか?」
隣にきたオクリース様にこっそり耳打ちしてしまった。
オクリース様は少しだけ腰を折って、
「ヴィッテに非はありません。ただ私に言えるのは、この公爵家のみなさんは若者を見守るのが趣味、ということでしょうか」
といつものポーカーフェイスのままで、けれど口元だけに笑みを乗せた。
なんだか自分だけ知らないところで、色々な感情や物事が動いている雰囲気だ。これ。優しさの度合いは全く異なるが、故郷での社交界や家業の商談でもあった。
「はっはぁ。それは素敵ですね」
よけいなことに首を突っ込むなかれ。そう決め込んで、一方後ろに下がった。
「失礼いたしました。そもそもお二人が当屋敷の主人を訪ねていらっしゃること自体がおひさしゅうございますので」
「つまりは先生も痺れを切らして、強引に我々を召還したということですね」
「今日はヴィッテを伴っているのだから、お手柔らかに頼むぞ」
アストラ様がじとりと睨んだのがわかった。背中越しでも表情が豊かなのだ。
カラムスさんがわざとらしく咳ばらいをして、優雅に軽くお辞儀をする。目線は私に向けられている。
「ヴィッテ様。ご挨拶いただきありがとうございます。お忙しい時期に我が主が無理を通しまして」
家人が主人が無理を通したなんて、普通なら言わない。ましてや公爵家の家人が。
先ほどの様子からして、アストラ様たちとカラムスさんは昔から知った関係なのはわかる。加えて、アストラ様が家名で呼ばれるのを嫌がる間柄。
言葉の意図は不明だが、カラムスさんは公爵にかなり近い人物なのだろう。バトラーという役割よりもさらに、人間的に公爵から重宝されているのは明白だと思った。
「もったいないお言葉にございます。司令官殿の恩師であらせられる公爵のご招待となれば、馳せ参じるのは我が上司の望みでもございますゆえ」
「噂通りの方でございますね」
うんっ!? ど庶民的なぱっとしない容姿っていう意味だろうか⁉ 私が噂されている内容なんて、そのあたりだけの心当たりだ!
下げた頭を風を切る勢いであげるものの、次の言葉が出てこない。
いつの間にか、カラムスさんと妙齢の女性以外は下がっていた。
「おひさしゅうございますね。立派なレディーになられましたな」
えっ? どういう意味だろうか。私をだれかと勘違いしていらっしゃるのかな⁉
「わっ私は、初めて、お会いするかと。司令官殿たちがお連れになった他の方とお間違えでしょうか」
「俺が女性を伴って先生に会いに来たのは今日が初めてだぞ!」
慌てたのは当のカラムス様よりも、なぜかアストラ様だった。あわあわと両手を躍らせている。
私の場合、女性を伴ったというよりも部下随伴の括りだと思うのだけど。
音を切ってこちらを振り返ったアストラ様。勢いに呑まれて、というか必死な形相に思わず何度も頷き返してしまった。
「……さようでございました。あまりにも愛らしいので、昔お会いした錯覚に陥ってしまいました。それに、当初伺っていたよりもさらに司令官付としてさまになっていらっしゃったから、勝手に見知ったような気がしていたのかもしれません。失礼いたしました」
カラムスさんと目があったのもあるけど、私が何を言っても差し出がましくなるのではと喉がなる。
とんでもないです。嬉しいです。光栄です。今後も頑張ります。
お礼の言葉を出したいのに、鍵がかかったみたいに喉が締め付けられる。これは――魔術
?
「じじいめの態度がヴィッテ嬢を必要以上に委縮させてしまったようですね」
違うんです。そう否定しようと思った矢先、別の感情が私を支配した。
いやだ、いやだ、いやだ。この人は嫌だ。駄目だ。今の私じゃいられなくなる。
だって。私に踏み込んでくる。昔の私を知っているから。昔の私を取り戻そうとする人。
怖い。怖いのに拒否できない。呼吸が浅くなる。短い息が零れる。でも――私の身体から汗は噴き出ない。
呼吸が乱れた直後、薔薇の薫りが濃くなった。ブラックティーだろうか。紅茶の薫りがする。風にのってきたにしては、鼻先で薔薇が咲いているようだ。
薫りを思いっきり吸って、呆然とした。思考がクリアになって。
さっきの強い心の叫び。
それに、アクアの声が重なっていたことに気が付いてしまったのだ。あれは私の叫びじゃなくって、アクアの叫びなんだ。もしかしたら私の声もあったのかも。でも、確かに私主体じゃないって思った。
とたん、心が真っ二つに分離した感覚に陥った。離れてくっついて、くっついて半分だけ剥がれ落ちる。不思議な恐怖と安堵。
いや、それよりも! あんなにも心の底から湧き上がってきた感情が、自分以外のものだったなんて……! そんなことあるのだろうか……。
「カラムス殿。ひとまず、先生に御目通りをかなえますか? まずは私とアストラの二人で」
薔薇の薫りがさっと消えて、オクリース様が背中を叩いてきた。
はっと背が伸びる。
顔を上げると、オクリース様がカラムス様を軽く睨んでいた。
「もちろんでございます。ヴィッテ嬢は当屋敷自慢の庭園をご覧ください。お二人はどうぞこちらへ」
カラムスさんが片眼鏡をくいっとあげた。それを合図に扉が開き、多くの使用人がホールの両脇にずらりと並んでいるのが見えた。全員が恭しく腰を折り、道を作っている。
アストラ様とオクリース様は肩を竦めて「またあとでな」と笑った。




