サスラ姉様の厳しめの、それでも浮かれているとわかる声が記憶の底から鳴った。
「花祭りが終わったら、また食事会はやりましょうね!」
「あぁ。我が家にも貰い物のヴィヌムが溜まってしまっているからな」
「じゃあ、大家のスウィンさん、それにフォルマやトルテも呼んで! って、うちの広さでは呼べる人数は限られていますが、寝室とキッチンを両方使えばいけるかと」
アストラ様は「いいな、それ」と満面の笑みで笑ってくださった。にかっと、まるで少年みたいな笑み。
うっと詰まったのを、私が躊躇したと勘違いしたのだろう。自分から言い出したは良いけど、実際の広さ問題的に。
アストラ様が、ふむと指を鳴らした。
「いっそのことうちか団でやろう。いや、それだとヴィッテやトルテが気を遣うか」
「いえ。魔術騎士団の方は大抵、自主性がありますので」
魔術騎士団は人手不足ゆえに、基本的に皆さん自分ができる範囲は自分でという傾向にある。何度かあった宴会の場でも、注文や配膳を進んでする方がほとんどだった。
家庭で冷たくされているので優しさに触れ合いたい、というおじさまも別に女性限定で甘えるのでもなく。愉快なお兄さん陣がおもてなしをしている状況だ。もちろん、私やトルテも手伝うけども。
「それでも、君たちは気を遣ってくれるだろう?」
「私もトルテも性分ですからね。どちらかと言うと、私たちが動くとフォルマもついてきてしまうのが懸念点です。お手伝いをしてくれようとしてくれるフォルマはめちゃくちゃ可愛いのですが、無理をさせているのではと思ってしまうので」
「難しいな。俺としては、密集してもヴィッテ宅の方が皆も安らげると思ってしまう」
あまりにも真剣にアストラ様が悩むものだから。体を傾けるものだから。
私は嬉しくなって、笑みを零してしまう。口元をおさえるが、込み上げる感情。
悩み続けるアストラ様の袖を引っ張り、顔を覗き込む。まるで親友のメミニに気軽にするように。
「意見を総合的にまとめると、うちでしましょうって結論にいたりますね」
私に目を向けたアストラ様はぽかんと口を開けた。
あまりにも気安かったかと袖から手を離す。不自然にならないよう、立てた人差し指をぶんぶんと得意げに揺らしてみる。
「私も自宅でおもてなしの方が気が楽ですもん。アストラ様もオクリース様も、うちで飲んでいる時は、すっごくリラックスしてくださっていますから」
「うっうむ。確かに、俺もオクリースもあの空間では素になってしまうな」
「私はそれがすごく嬉しいです。もしアストラ様が引け目を感じられていても、私はうちでおもてなしができるのが楽しんです! スウィンさんの出産お祝いもしたいです!」
いたって普通に笑ったはずなのに。アストラ様はまたもや目を逸らした。
もはや、私の笑い方が有害指定されるレベルとしか思えない。すぐに意見を聞きたいのに、こういう時に限ってアクアの姿は見えないのだ。というか、私が追い払った。
「スウィンと言えば、良く兄妹の髪を切っていたと聞いた。手先が器用だと自慢されたので、カットを頼んでみてはどうだろうか」
アストラ様が珍しくスウィンさんの名前を出した。ここしばらくはスウィンさんの名前を出しても、なぜかすぐに話題を逸らされていたから。
個人的には少し心当たりがあった。スウィンの妹のステラさんはアストラ様宅のメイドだ。その彼女からは必要以上にアストラ様と関わらぬよう、たびたび忠告を受けている。
フォルマからもステラさんの様子がおかしいのは聞いているから。なんとなく、そう、なんとなくだけれど。しまった、と思った。ステラさんに繋がる話題を出したのを。
「それでは、スウィンさんにお願いしてみますね。どちらにしろ、花祭後でしょうけど」
「このまま伸ばすという選択肢は?」
「――っそうですね。毛先を整えて貰う程度にしてもらうのも良いかも」
意識して伸ばしているというのは伏せておいた。母国から逃げた自分と向き合うためだ。
元々、私の髪は腰あたりまであった。社交界デビューのために、地毛を伸ばす必要があったからだ。その裏事情を母様たちから教えられた時、全身真っ赤になったのは懐かしい。
フィオーレの貴族令嬢は割と自由な髪型をしている。夜会でも髪を下ろしていらっしゃる方も多いとか。けれど、私の母国は社交界は封建的な面が強く残っているので、必ず髪は纏め上げている必要があったのだ。
「俺は長いのも、良く似合っていると思う。ヴィッテの艶ある青髪が踊って綺麗だ」
「あっありがとうございます。って、オクリース様が聞かれたら『落ち着きがないと同義語です』って叱られそうですが」
「ははっ! あいつなら言いかねないな! ついでにフォルマに怒られると良い!」
豪快なアストラ様の笑いのせいで馬車が揺れたからだろう。息を噴き出しながら、アストラ様は向かい側に戻られた。なおも肩を震わせるアストラ様は、いつも通り陽気な様子だ。
「オクリース様ってば、フォルマみたいな奥さんがお似合いですよね。感情豊かなのに、冷静な面もあって、しっかりものの夫人になりそうです」
「俺も同意見だ。宰相殿も乗り気なのだが、問題はオクリースだな。どうしても俺が魔術騎士団長にならぬ限り、嫁を迎えぬと頑なのだよ」
馬車の底に穴があきそうな溜息を吐いたアストラ様。つむじを突っつきたい欲望が込み上げてきても、堪えた。薄紫の髪の間に見えるつむじが可愛いと、思った。
伸びたの指は自分のそこを押えていた。脳裏に浮かんだのは、サスラ姉様。それは絶対に暴力なんかじゃなくって、優しいリズムで。瞼の裏に熱が滲んできた。
――ヴィッテの青髪には同系色に白をあしらったドレスが似合うの。けれど髪飾りは、どうしましょう。パープルかヴァイオレットか。いっそのこと対極色を持ってきた方が映えるかしらね。でも今から琥珀系を取り寄せて、あいつらに勝てるかどうか――
サスラ姉様の厳しめの、それでも浮かれているとわかる声が記憶の底から鳴った。
――サスラ姉様、私はあるもので整えて貰えれば充分です――
――お任せください、サスラお嬢様。リストを調べましたが、ヴィッテお嬢様を下に見る輩の物流ルート以上をおさえることが可能かと――
――お願いね、コムニ。ヴィッテも、素直に言うことを聞きなさいな。社交界は弱肉強食。それに、うちの輸入品をアピールできる機会でもあるのだから――
私の記憶から最も遠くにある調子の姉様の記憶。あり得ないはずの記憶。
けれど、どうしても妄想だとは思えなかった。
姉様が纏うほんのり甘いムスクの薫り、自分で広げた羽がいっぱいついた扇にむせる様子。
商売根性を持てと叱ってくる声。五感の全てで、まるで昨日の出来事のように感じる。
呆然とするなか。帰ったら、メミニから貰った姉様の秘書だったコムニ・カチオの手紙を読むべきだ。なぜか、そう思った。
「いっいたっ‼」
それと同時に、脳の血管が締め付けられるほどの頭痛が襲ってきた。
頭痛は大丈夫。アクアと再会して以来、割と頻発しているから。
今の問題は、はっきりと思い出したサスラ姉様の表情とその時の場面だ。これが本物なら、私がフィ俺に辿り着く前に持っていた記憶は――。
「にせもの? いや、でも、疎まれていたのも、本当だと、思うから。あの視線が向けられていたのは……」
私の吐息程の呟きは、アストラ様には届かなかったようだ。彼は窓の外を眺めている。
深呼吸を繰り返して、アクアを探す。アクアの姿は見当たらず、どうしてか心拍が落ち着いていった。アクアに思考を読まれていてはまずいと思った。
馬車の窓に指を添える。カーテンをほんの少し開き、外を見る。そして、はっとして呼吸が止まった。
「うん? どうした?」
「私、この眺めに覚えがある、かもって」
口にした途端、記憶が弾けた。
もっと目線は低かった。わくわく胸を弾ませて、ふかふかの座席に膝立ち。母様に『お行儀はどこに飛んで行ったのかしら』なんて笑われたっけ。
ほら。通り過ぎたハート型の柵はもっと鮮やかなピンクゴールドで、あそこに置いてある妖精の置物は水を流していた。なんだこれ。いくら街はずれだとしても、整備されていればもっと綺麗に当時を保っていられるだろうに。
私の隣には母様が、向かい側には父様がかけていた。そして、延々と続く並木道にはかわいい子――花妖精たち。興味深げに馬車の窓に張り付ていくる子たちもいて、私が元気よく挨拶をしたら……。
やめて欲しい! 怖い、怖い。これは思い出しちゃいけない記憶だ!
「っはぁ!」
そこで、今度は喉がひゅっと悲鳴をあげた。だれかに喉を握りつぶされているような感覚。記憶の底をかき消すように、頭の中で暴れるなにか。
盛大にむせかえるのは止められない。
「ヴィッテ! 大丈夫か? 閉所恐怖症はなかったと記憶しているが。緊張で馬車に酔ってしまったのか?」
「だっだいじょうぶ、です。唾が、気管に、はいってしまった、ようで」
なおも咳き込む私の背中を、アストラ様が撫でてくださる。大きな手。近い体温が、汗よりも涙を誘う。安堵の。
そして、熱をくださるアストラ様の存在が――背筋を凍らす視線で私の膝を抱く存在への恐怖をより強めた。
――ヴィッテ……私が少し離れている間に、この少年によからぬ嘘を吹き込まれたのかしら?――
私の膝に手を突き、顔を覗き込んでくるアクア。
私はアストラ様に首を振るやら、アクアに向けて顎を引くやら忙しい。というか、ややこしい状況になってしまった。
「そうか。緊張していると呼吸が浅くなるからな。深呼吸すると良い」
見本だというように、アストラ様が大げさに腕を腕に挙げて弧をかいた。東洋の呼吸法らしい。なんどか見せてもらったことがある。
私も習いたいところだが、向かいに腰かけたアクアの視線が痛い。
大きく呼吸だけしておいた。それに気を悪くした気配もなく、すぐにまた背中を撫でてくださっている。
――それにしても、あいつら何を企んでいるのか。まさか、あの時のことを覚えているのかしら。そう言えば……私もあの直後からヴィッテが母国に戻るまでに記憶は曖昧だったわね――
口元を押えるのに必死で、吐き捨てたアクアに声をかける余裕はない。
気持ち悪い。でも、ここで吐いたら駄目。絶対、駄目。
「ヴィッテ、吐きそうなのか?」
「すみません、馬車に酔った経験はありませんので、すぐにおさまるかと」
「そんなの体調によるだろう。ヴィッテが気を遣うタチなのは知っている。俺たちにとっては面白みのある先生だが、ヴィッテにとっては現公爵だ。急な呼び出しであれば緊張もしよう。いったん、馬車を止めるか」
すぐに気が付くアストラ様が恨めしい。
ぐっと喉を締める。私の背後にある御者を呼ぶベル紐に手をかけたアルトラ様の手を掴む。両手で抱える形になってしまう。息が荒いので見苦しいでしょう。すみません。
「問題ありません。もうすぐお屋敷につきますので、猶予期間があるよりはいっそのこと進んでいただいた方が覚悟が決まるかと」
「だが――」
なおも渋るアストラ様。包んでいる手により力を込める。言葉を遮るためだったけれど、彼に触れていると安心できたのも本当だ。
「ゼイタクを言うと、このままアストラ様に背中をさすっていただけると、嬉しいです。安心もできるので」
アストラ様は喉を詰まらせた。そしてファイルのひとつを手に取り、自分の顔面に打ち付けたよっ! かっかなり轟音が鳴った!
鼻やら額やらご無事だろうか。手を離し首を傾げて顔を覗き込もうとしたところで、額を軽く叩かれた。
「俺は、問題ない。それよりも、ヴィッテが大丈夫か聞いているのだよ?」
いつもは断定的に言うくせに、こういう時は問いかけてくる。
アストラ様が両肩を掴んでくださったのをいいことに、私は彼の胸に額をつけた。不思議と、頭痛は落ち着いてきた。一方で、鼓動は激しくなっていく。心の痛みが増していく。
「では、申し訳ございませんが、お言葉に甘えて少しだけ、こうしていてください。額だけ、私から触れることをお許しください」
両肩にはアストラ様が触れてくださっているのだから。言い訳をしつつ、つい左肩に手を重ねてしまう。アストラ様が強張ったのも知っている。
あぁ、あったかい。大きくて、ごつっとしていて、安心する。まるで……父様みたいだと思った。思って、違うとも感じた。駄目なのに。
アストラ様の服を掴む手には力が入る。




