私自身はどちらを否定したのか、わからなかった。
柱時計の振り子が大きく鳴った。ガラスにはスイレンという花模様が刻まれている。動力が魔術ではなくゼンマイ式という、フィオーレでは珍しい品物だ。ゼンマイが鳴らす音に耳を傾けてしまう。どこかぎこちなさがあるのが、私は好きだ。
そんな中、なんとか欠伸を噛み殺して見た時計版で長針が23時を指している。
「私はそろそろお暇しますね」
やっぱり酔いがまわってしまっているようだ。立ち上がり毅然と鞄をかけても、ふぁっと欠伸が漏れた。
慌てて口を覆う。それでもって、漏れ続ける空気を押し込めてお辞儀をした。
「眠気の限界がすごいようです。いまお暇しないと、明日のオクリース様との早朝訓練に寝坊してしまいそうです」
「明日は休みにしましょう」
「私は大丈夫です。せっかくオクリース様が時間を割いてくださっているのに!」
力こぶを作った後、はっとなった。
言うべきか口をパクパクさせていると、オクリース様が微笑んだ。あれは――半分あたり、の笑い方だ。
「私というより、オクリース様がお疲れなのもありますよね。気がまわらずに失礼しました。無理に訓練をしても効率が悪ければ、申し訳ないです」
私も飲み過ぎた自覚はあるが、アストラ様たちもかなりの時間ここにいらっしゃるようだ。
ふわふわとして、理性が躍っている感覚。メミニやトルテたちとはここまで酔うこともある。ただ、ちょっとこれ以上はやばい気がする。
「じゃあ、僕も一緒に帰るよ。おじさんも眠気がすごいもん」
「テンプスさんはまだ平気そうですが」
「いや。さすがに随分と長居しちゃったからね。ふきのとうやわらび。山菜がすごく美味しかったよぉー! 今度は普通の客としてお邪魔させてねぇ」
テンプスさんが立ち上がって伸びをする。食後の腸運動だろう。きゅうっとやたら可愛い音が鳴って、笑ってしまった。
テンプスさんといえば照れ笑いをするのでもなく、誇らしげに
「僕のお腹も賛同しているみたいだねぇ」
と胸を張った。テンプスさんのこういうところ見習いたい。
「だいぶ酒も入ってきたからねぇ。アストラ君たちさえ良ければ、またお話をしようよ」
「私たちもテンプスさんとこのようにじっくりと話ができて、勉強させていただきました」
そうフォローしてくださったのは、全く顔色が変わっていないオクリース様だ。ただ目を見れば、多少なりともオクリース様が酔いを感じていらっしゃるのはわかった。いつもより潤いが深い。
一方で、アストラ様は珍しく全く顔に出ていない。ぶすりとして、ソファーのひじ掛けにもたれかかっている。
「楽しい時間はあっという間だねぇ。お会計は後日おしえてねぇ」
「テンプスさん、今日は私が奢る約束なので。約束は守らないと、また一緒に呑んでいただけないかもなので、まかせてください」
ほわほわして財布を握りしめる。私だって自立してるんだもんね。
ふんすと鼻息荒く構えた私をよそに、アストラ様がテンプスさんに詰め寄った。
「俺も今日の時間は楽しかった。だが、はっきりしておきたい。テンプス殿は、なんの目的があったヴィッテに近づいて、今日この場に足を踏み入れたのか」
アストラ様ってば何をおっしゃっているんだろうか。
「僕は単純だよ。ヴィッテ君に興味があるし、お隣さんだから仲良くしたいんじゃないか。アストラ君たちとも適切に付き合いたいと思っているんだよ?」
「しかし――」
「アストラ様! 今日はせっかくたのしく飲んだのですから、気持ちよくお別れしましょうよ」
酔いの勢いか、アストラ様の腕をがしっと掴んでしまった。着やせするけど、騎士様らしくしなやかな筋肉がついているのは知ってるもんね。へへっ。訓練所で半裸なのも、自宅で半袖でいらっしゃるのも知ってる。
へらへらと笑っていると、口の端を落としたアストラ様に鼻を摘ままれた。
「ぶへっ」
変な音を発した私より、なぜにアストラ様が面白顔をしているのか。
きりっと立ち上がって扉に手をかける。下に降りて、馬車を呼んで、自分は徒歩で帰って。とにかくアストラ様とオクリース様を送らなきゃ。
「ヴィッテ。だいぶ酔っているな。オレが送る」
「だいじょーぶです。テンプスさんと同じところまで帰るので」
手を取ってくださったアストラ様。遠慮なく寄りかかってしまう。だって、アストラ様が引き寄せたんだから良いよね。
あぁ、眠い。目を擦る手を取られて、思わず唸ってしまった。手を掴んでいるのはアストラ様だ。手を掴まれているので、額を擦り付けることでしか抗議できない。ぐりぐりと押し付けると、アストラ様から「ほわっ!」なんてふわっとした叫び声があがった。
「アストラ、あんたってば……。あたしが変わるよ。この状況でやらかしたら許さないよ?」
「――頑張るとしか返せない」
「ぶはっ! あのアストラが‼」
沈む意識の向こうで聞こえる会話。なけなしの理性をふるって「あした、ちゃんとおしはらいしますから!」とアクティさんの手を握った。
「ヴィッテからはちゃんともらってるから安心しな。あんたはどんだけ酔っぱらっていても、支払いに関してはきっちりしているからねぇ」
ぐしゃぐしゃと前髪を撫ぜられてほっとした。「よかったれす」と舌が廻っていない調子で返すと、さらに髪全体を撫でまわされてしまった。
ちょっと痛かったけど、相変わらずアクティさんはお姉さんみたいだなと思って、うへっと笑ってしまう。
「なんだい。気味が悪い笑みを零して」
「だって。えへへ。アクティさんは、お姉さんみたいなんだもん」
「まぁ。ヴィッテの姉さんなら悪かないかな」
アクティさんが珍しくスキンシップをしてくれる。
抱きしめられたのが嬉しくて、私も寄り添ってしまった。アクティさんは柔らかくてあったかい。
「どうしよう。アクティさんってば、あったかくて柔らかくって、すごく安心します」
「そりゃ、胸がついててよかったってことかねぇ!」
「胸もあったかいのですが、アクティさんの手がすごく優しく背中にふれてくださるので」
あぁ、どんでもない酔っ払いだなと思う。ぐりぐりとアクティさんに額を擦り付けてしまう。それをまた、アクティさんが「今晩だけさね」と受け入れてくれるから、遠慮なく、くっついてしまうのだ。
あったかさに寄り添ってしばらくして、馬の鳴き声が聞こえた。馬車を用意してくださったのだろう。
「やはりテンプス殿だけに任せるわけにもいかないので、俺がアパートまで行くぞ」
「アストラ君ってば心配性だねぇ。僕は手なんか出したりしないのに」
「……この場合、あなたがどうするかではなく、ヴィッテがこんな状態だからな。ほらヴィッテ。馬車に乗ろうな」
馬車に乗ったところまではちゃんと覚えている。
隣に座ったアストラ様が肩を抱いてくれたから、遠慮なく寄りかかった。あまつさえ腕を絡めたのは、記憶の中だけだと思いたい。たくましくて優しくて、遠慮がちに頬を撫でてくださった手に、私は泥に沈むように寝てしまった。
「サスラ姉様、どうしてるかなぁ」
私を抱いている腕さえも固まるのがわかった。オクリース様もテンプスさんも、アクティさんさえも、なんで私が姉を気にするのかって思うよね。
サスラ姉様は私を大嫌いで、私のフィオーレに来るしかなくした人。それが周囲の認識だ。
それでも、やっぱり、私にとってもたった一人の姉なのだ。メミニも姉様の味方なところがある。
「君にひどい仕打ちをした姉でも、会いたいと思うのか?」
アストラ様の問いかけに、私は小さく頭を振った。
私はアストラ様の腕に寄りかかっているのだろう。頭上から安堵の息が落ちてきた。
けれど、私自身はどちらを否定したのか、わからなかった。
「やっぱりあのお嬢さんが君の心の拠り所みたいだな」
その夜、居酒屋『ホモー・エダークス』の影で静かに呟いた人物がいた。殺気を放つのでも、親愛の眼差しを向けるのでも、なく。ただ静かに佇んでいる。
「さて。どうやって壊してやろうか。いまの私の生きがいさん」
楽し気な口笛が鳴ったのは、ヴィッテたちが乗り込んだ馬車が完全に遠ざかってからだった。
やっと変化の片鱗編が終わりました・・・!
相変わらず長くてすみません。
次からは花祭り編に入ります。




