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『やり直し』と言ってくれたのが、嬉しかった

「ヴぃっヴィッテ⁉ なにをしているんだ、痛むだろうに」


 頬を滑る、自分以外の体温で我に返った。


「いえ。勢いがあったので赤くはなっているかもですが、自分で叩いたのでそれほど痛みは――」


 ってっ!! ちっ近い!! 視線こそ頬にいっているものの、シトラスの良い香りがすぐ鼻先にっ! というか、わざわざ手袋をとっていらっしゃる、アストラ様!

 ひぃぃっと声なき叫びのおかげか。アクティさんがアストラ様の首根っこをつかんで、華麗にぽいっとソファーの方に投げてくださった。すごい筋力です、アクティさん。かっこいい。


「と言いますか、意識がはっきりした今になって、どうしてこうなった感がひどくて混乱してしまうのはお許しください……」

「連れてきたのはあたしだけどね」

「アクティさん! いくら私がアストラ様付の事務員と言えど、臨職かつ平民なので、事前に一言いただければ辞退したのに――いえ、アクティさんに責任を押し付けるみたいになりましたね!」


 爪先を睨んでスカートを掴む。ある程度は予想できたはずだ。それなのに、のこのこ最上階まであがってきたのは、ほかならぬ私自身なのに、って。


「なに言ってんだい」


 アクティさんはつかつかと部屋の中に足を進める。


「あたしが連れてきたんだから、責任はあたしにあって当たり前だろう。まぁ、背中を押したテンプスにも」


 アクティさんの声が、本当に当然だと言わんばかりだったから。逆になんかうるっとしてしまった。自分をびしっと指さすアクティさんはかっこいい。


「僕はさすがに本気でヴィッテ君におごってもらうのは忍びなかったから、アストラ君たちがいるようなら便乗しようかなぁって」


 そしてテンプスさんは、とてもテンプスさんだった。この人はぶれない。


「テンプス殿は逆になぜ我々がいると察したのか」

「あっ、それ聞いちゃう?」


 アストラ様の疑問にけろっと返したテンプスさん。なんか可愛く体を揺らしているし。

 アストラ様は肩を竦めて、オクリース様は小さな溜息を零した。


「いや、藪蛇(やぶへび)だな……」

「もっ申し訳ありません! 私がぼうっとしていたので全面的な否があります! のこのこ最上階まであがってきてしまって。大人しく自宅に戻れば良かったです!」


 あばばっと挙動不審に右往左往するしかない。あまりに高速で縦横無尽に動いているせいか、テンプスさんが盛大に「んぶふぉっ!」と噴き出した。良かった。横の人の変音に気づく余裕あるみたい、私!

 指先は意味不明にうみょうにょ動かしたまま、涙目の顔をあげる。その先には、暖かい眼差しがあった。


「ヴィッテ、落ち着きなさい。だれも責めていないでしょうに。ひとまず、私の目を見てください。無断で肌に触れるようなセクハラ上司は、全面的に無視して」


 オクリース様の落ち着いた声にほっと胸を撫でおろす。

 目が合うと、まるで『いい子ですね』と言わんばかりの色を浮かべていらっしゃる。ものだから、そわそわと、部屋の隅っこに張りついた。隅っこ落ち着く。

 うぅ、視線が痛い。何やってんだ、こいつ的な四人分の視線が刺してくる!


「ぶはっ! ほんとーにおもしろいね、あんたたち!」


 アクティさんが豪快に笑った。

 おおおっもしろくない。なんにも愉快な要素はありません!

 ぶんぶんと頭を振る私がより滑稽だったのだろう。アクティさんは涙を拭って、自分のお腹を叩いた。テンプスさんは垂れ目のおとぼけ顔で身体を揺らしている。なんですか、その反応。


「ヴィッテ、君を責めていないのは絶対だ。ただ、いつもと様子が違う君が、テンプスと部屋に入ってきた事実に思考が追い付かないだけで」


 アストラ様がソファーに深く沈み込んだ。前髪に隠れて表情は読めないけど、ひらひらと手を振る様子はいつもと同じだ。少しだけほっと胸を撫でおろせた。


「それでも。アストラ様が――」


 思わず零れた声。

 薄紫の髪か垣間見た瞳にびくりと体が跳ねた。その色は冷たさよりも驚きが含まれている気がした。ので、余計に口籠ってしまった。


「なんだい、言っておやりよ」


 アクティさんの一言でアストラ様が体を起こした。拳を握って大きく頷いた。


「そうだ。一番ヴィッテに近いはずのオレが君を怯えさせているなら、きちんと理由を知りたい。ヴィッテが感じていることを全部知りたい」


 アストラ様があまりにも無邪気に身を乗り出すものだから。喉を熱いものが落ちていく。アストラ様は、どうして私にここまでしてくれるのだろうか。

 そう考えて、すぐさま頭を振る。そんなの私が保護対象であり司令官補佐だからだ。それでも十分だろうに、胸の奥で何かがくすぶる。

 ここはやはり何でもないって――。


「溜息を吐かれたので」


 思考に反して唇が動いていた。


「アストラ様に二回も溜息を吐かせたのが申し訳なく」

「だから、消えたいと?」

「そっそれは、私はアストラ様を補佐するのが仕事なのに、疲れさせてしまうなんて、登場場面からというか、店の入り口からやり直したいっていう願望からというか――いえ、こんな風に言われてもお困りになられるのはわかっているのですけども!」


 私の回答は決して前向きなものではなかった、はずだ。

 なのに、アストラ様もオクリース様も何故か顔を見合わせた後、ぷはっと噴きだした。それは可笑しさよりも――どこか喜んでいらっしゃるように見えた。


「あっ、あの。アストラ様、オクリース様?」


 困り顔でありながら、喉を震わせて笑うお二人を呼ぶ。


「すまない、嬉しかったのだ」


 私が狼狽(ろうばい)しているのが⁉ アストラ様まで、オクリース様みたいな腹黒美形になってしまわれたのだろうか。

 私の残念思考を読んだのか。オクリース様が腹黒微笑みを向けてきた。怖い。


「『やり直し』と言ってくれたのが、嬉しかった」


 ふわりと笑ったアストラ様。思わず見とれてしまうほど、柔らかい空気を纏って。

 オクリース様の視線がアストラ様へと移る。アストラ様は慣れていらっしゃるからか、平然と私に笑みを向け続けてくる。


「出会ったばかりのヴィッテなら、言葉通り『なかったことに』したいと口にしただろうからな」

「そっそういうものでしょうか。たっ確かに、なんと申しますか、先にアストラ様が心臓に良くないと言ってくださったので、たぶんそれが嬉しくて、そう考えられたのかと」


 冷や汗がながれつつ、しどろもどろに答えた。

 わっ私、おかしなことを口走っていないだろうか。いや、完全にその通りだ。

 肯定するようにアストラ様が目元を染めたものだから、堪らなくなってアクティさんの陰に隠れてしまった。そんな私を手招きしてくださったのは他の誰でもなくアストラ様だった。

 アクティに目で伺うが『行ってきな』とお墨付きをいただき、忍び足でソファーに近づく。小難しい顔したアストラ様に隣をぽんぽんと叩かれたので腰かける。テンプスさんはオクリース様の横だ。


「本日、ヴィッテは休暇でしたよね?」


 向かいに座るオクリース様に問われて、激しく頭を上下する。なぜなら、オクリース様の視線は彼の隣に腰かけたテンプスさんに向けられているからだ。

 当のテンプスさんは「それ、一口もらってもいいかなぁ」とオクリース様のグラスを指さしているじゃないか。オクリース様も「新しいのがくるのでどうぞ」なんて真っ黒笑みを咲かせないで!


「花祭りがきっかけでフィオーレの歴史を知りたいと思うようになりまして。調べに図書館に入り浸っていたところ、テンプスさんとお会いしました」

「今更テンプス殿がそのような部屋に用事があったとは」


 アストラ様とオクリース様の目元がすっと鋭くなった。

 テンプスさんはアパートの隣人だし、魔術騎士団絡みで私に近づいたところで得られるメリットは皆無なのに……。


「用事自体は他の閲覧制限室だったんだよねー。たまたま前を通りかかったら、結構大きな独り言が聞こえたから覗いてみたんだよぉ」


 ひゃっ! 背が伸びました!

 基本的にアクアとは思念会話テレパシーでするものの、興奮すると声に出しちゃうんだよね。気を付けよう。


「ちっ地下室で私しかおりませんでしたので、油断してつい独り言が!」


 やけっぱち気味に叫んでいた。いますぐにでも酔ってしまいたい空気だ。

 幸いテーブルには空のヴィヌムボトルとは別にウィスキーがあったので、ささっと自分で作ってロックを口につける。無礼ということなかれ。

 って、あれ? 確かあの時テンプスさんは……。


――この部屋付近で強い魔力を感じたから立ち寄ったんだよぉ――


 そうだ。独り言を聞いたとかではなく、魔力を感じたからとおっしゃっていた。それをわざわざ伏せた意味って何だろうか。

 思わずテンプスさんを見てしまう。私の疑問を悟っただろうに。当人はただ目尻を下げて笑っただけだった。それは、まるで『君にとって不都合だろ?』と問いかけられているようだった。決して、私を脅すという雰囲気は、なかった。テンプスさんは一体何を考えているんだろうか。


「それで、ヴィッテ君のお願いを聞いてあげた報酬で今に至るんだよ」

「報酬とは?」


 アストラ様の目つきがさらに細くなる。これは完全に真剣試合との時のそれですよ。普段とのギャップのせいか、どの騎士様たちの戦闘モードより迫力があると感じてしまう。

 オクリース様がアストラ様のわき腹に思いっきり肘鉄を食らわせてくださったのを良いことに、手を打って空気を変える。


「アクア・ヴィッテの泉の場所を教えていただいたお礼に、アクティさんのお店でごちそうすることになったんです!」

「ほぅ。ご褒美の店に指定してもらえるなんて光栄さね」

「旬の山菜が美味しいって、スウィンが言ってたから」

「お目が高いね。どいつもこいつも肉ばっかり頼むんだからさ。まぁ好きな物を好きなだけ食べろってのが信条だが、うちの料理で栄養が偏って病気になったなんて風潮されても困るってもんさ」


 アクティさんが満足げに頷いて、部屋の隅にある魔術通信具に手を翳した。厨房と繋がっているので、料理長に直接注文しているのだろう。いくつか飲み物と食事を注文してくださっているのがわかった。

 何の気なしにアクティさんを見ていたのだけれど、テンプスさんに名前を呼ばれた。


「何度もしつこいようだけどね。ヴィッテ君はくれぐれも一人でアクア・ヴィッテの泉には行かないようにね」


 心なしか、アクア・ヴィッテという音が強調され――空気が揺れた気がした。

 どう反応して良いのかわからず、ただ素直に頷く。


「アクア・ヴィッテの泉」


 響いたのはアストラ様とオクリース様の声。あまりにも無機質で背筋が凍った。

 視界の端に現れたアクアが、なんというか、泣きだす寸前のような、すごく怒っているような。それでいてひどく自分を責めている色で瞳を湿らせた。

 私と瓜二つの姿をしているアクア。自責の念を抱いている姿は、良く見知っている姿だった。だから、アクアの感情は手に取るようにわかる。


「あんたら、その反応はなんなんだい?」


 席に戻ってきたアクティさんが尋ねた。

 すると、お二人とも自覚はなかったようだ。お互いに顔を見合わせて、


「へっ?」


と戸惑ったように瞬きを繰り返した。オクリース様までそんな声を漏らすのは珍しい。

 アストラ様は胸を鷲掴みにして、オクリース様は顎を撫でて思案顔だ。


「すまない」


 先に口を開いたのはアストラ様だった。戸惑った表情のまま、頭を掻いている。

 何度か口を開閉してやっとという様子で顎を撫でた。変な話、なんだか可愛いと思ってしまったのは内緒にしておきたい。空気的にも。


「幼い頃、オクリースやフォルマたちと訪れたのを思い出したのだ。ただ、その頃にはすでに荒地だったとも覚えているので、少々己の記憶に混乱してしまってな」

「私も同じです。当時、魔術学院の学生だった私は、シレオやアストラと先生の元を訪れた後、フォルマたちにせがまれて花畑に足を運んでいました。あれは稀な場所だったのでしょう。いえ、たちというのは語弊がありますね」


 オクリース様の言葉に、呆気にとられてしまった。

 だってそれは――まるで夢の中のお兄ちゃんたちとの思い出そのものだから。違うのは、オクリース様の言葉の中に私がいないこと。そこに私がいない。悲しみに沈むよりも--もっと考えろと自分にいいきかせていた。

 どくどくと変な動きで血が巡る。堪らず息をのむ。


「先生ってのはアエトス公爵かい?」


 首を傾げたのはアクティさんだ。アクティさんは付き合いが長いように思えるけど、実際はアストラ様たちが数年前の戦地で会った傭兵だったっけ。

 旧知の仲みたいなのですっかり失念していた。


 アエトス公爵。

 魔術騎士団にもアストラ様やオクリース様あての手紙がきているので知っている。ので、私も勝手に親近感を覚えているところがあるのだ。恐れ多くも、文章の中に私の名前も書かれているとか。

 というか、フィオーレにおいてアエトス公爵家の名を知らないなんてもぐりも良いところだろう。

 アエトス公爵家といえば、フィオーレ公爵家の中で最も権威を持っている家系だ。先王同腹の弟君にしてフィオーレの良心であり戦神と称された御仁。遡れば大昔からの忠臣らしい。手紙を受け取った際、アクアが教えてくれた。ひどく憎々しいと絞り出すように。


 ともかく。魔術学院の前理事長にして、アストラ様たちの恩師らしい。特に、当時はまだ庶子だったシレオ様の才を見抜いていらっしゃったとか。


「あぁ。当時は恐れしらずな少年だったのでな。休日も良く先生を訪ねていた」

「私はシレオとアストラに無理やり引っ張られていましたが。先生がフォルマを気に入っていらしたので、仕方がなく付き合っていましたね」


 肩を竦めたアストラ様は恐縮しながらも嬉しそうだし、オクリース様も頭を振りつつも表情が柔らかい。

 だが、私にウィスキーのロックを渡してきたアクティさんは至極呆れた様子で目を据わらせた。


「フォルマのお嬢ちゃんをあんな呪い話もあるところに連れて行ってたのかい? 十数年前から無神経男だったんだね、あんたらは」

「そーとは断言できないかもよ? 呪いの話は好奇心旺盛な少年たちが気にしないのは道理だし、人が寄り付かない分きれーな野生の花畑が残されていたのかもね」


 テンプスさんは何故か私を見て「当時は」と付け加えた。

 私と言えば、


「そうなのですね。それは素敵な光景だったでしょうね」


と無難な返ししかできない。

 そして、後ろでアクアがとんでもなく恐ろしいオーラを放っているのはわかった。アクアってばテンプスさんを警戒しすぎだろう!


「失礼します」


 アクアがテンプスさんを睨んだところで、ノックが響いた。それでアクアの態度が緩和するわけじゃなかったけど、私が腰をあげる理由には十分だった。

 アクティさんの許可の言葉が落ちて、ジューシーなお肉の薫りが部屋に満ちた。給仕をしてくれたのはコックのクディーさんだ。

 簡単に料理の説明をすると、彼はすぐに踵を返した。これがマナーなのだろう。


「アクティさん、私も運びますね」


 一言断ってワゴンに手を伸ばす。が、くるりと体が回転していた。

 背中を押すアクティさんを呼ぶと、腰を軽く叩かれた。姿勢が伸びる。


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