あいつのことで笑わないで
居酒屋の二階以上には個室がある。しかも防音魔術具が埋め込まれた壁の作り。
二階は酔い過ぎた常連客を休める簡易休憩所として使っているが、三階以上は貴族やお偉いさんたちの密会用なのだ。誰もが使えるわけではない。
「ヴィッテ君。席も空く様子もないので、白ヴィヌムと食材を買ってアパートで食事をとることにしようか? ふたりっきりが気になる様なら、スウィンを誘っても良いし」
「えっ?」
思わず疑問の声が出たのは、テンプスさんが上の部屋への誘導を視線で促したのだと思ったから。
まぁ、相手が私かつ素面なテンプスさんを二階以上に案内する理由はないのだけど。
「ヴィッテ君的には嫌だったかい?」
「いえ。テンプスさんが旬の山菜をあっさり諦めたのが意外で」
「へぇ、あんた食に興味は薄そうなのに」
反応したのはアクティさんだった。やけに笑みを深めてテンプスさんを見ている。
テンプスさんは相変わらず読めない笑みを浮かべている。
「テンプスさんってば食は細いのですけど、こうと決めたら意地でも食べたいと思うタイプみたいです」
「ヴィッテはただのお隣さんのこと良く見ているじゃないかい」
「ただのお隣さんというか。よく空腹倒れしているところをスウィンさんと保護しているので、勝手に保護責任的な任務を感じているのかもしれません。そうすると、テンプスさんのこだわりみたいなのも自然とわかるようになりました」
なんでも良いと零しながらも実はお肉を欲している時、がっつり栄養を取りたいと言いながら野菜を煮込んだものが食べたいとか。
天邪鬼なところはサスラ姉様にちょっと似ている。可愛い。
「……あんた、むかし戦地で見た時にくえない奴だとはわかっていたが、隣人としても相当面倒くさいようさね」
「料理上手で食べるのが大好きな子がお隣さんになってくれて嬉しいよー。あの部屋、なんでかずっと空いていたからー」
ずれているようで割と噛み合っているお二人を横に、ふと思い出した。
サスラ姉様も本当に食べたいものを隠して、わざと反対の味覚を言うことがあった。私が指摘すると真っ赤になって、それでも最後には困ったように笑ったっけ。
「私もテンプスさんがお隣さんで良かったです」
「えぇ、本当に? 僕ってば結構わがままな自覚はあるよ?」
「テンプスさんのわがままも、楽しいです。だってテンプスさん、美味しいって時はすごく無邪気に輝いてくださるから作り甲斐があります」
そう。サスラ姉様も目の前のテンプスさんみたいに口を覆って、そっぽを向いて。その数秒後、こちらをちらっと伺うようにして、嬉しくて堪らないと笑う私に諦めて息を吐いていた。
そうして、私が鍋を持ち上げると、姉様も『しょうがないから、食べてあげるわ』ってお玉を掲げて、お皿によそってくれて――。
あれ? ちょっと待って。えっと、いま思い出したのって本物の思い出なの?
だって、私はサスラ姉様に嫌われていた、のに。記憶の中にいるサスラ姉様の姿は鮮明で――。いつも私を縮こませていた憎悪を灯した鋭い視線は、気配もない。
「――っ」
ずきりと。頭と心臓の両方に激しい痛みが走った。
それはまるで、心と身体の両方が悲鳴をあげているみたいに感じてしまって、呼吸が浅くなる。
あっ、やばい。これいつもの倒れてしばらく起きられない状態になりかけているのかも。
――あいつのことで笑わないで――
意識を保とうとして腕を抓った直後、ぴりっと肌を痺れさせた空気。冷たいものが背筋を走った。
――あいつらはわたしたちの敵なのだから。特にあいつはヴィッテを不幸にした最大の原因。あいつは最初からわたしたちがともにあることを拒んだから、わたしたちは離れ離れになることになったのよ。そのせいで無茶な即席の術を繰り返して貴女が……――
振り向く必要もなく、アクアが後ろから両頬を撫でてきた。細い指が肌を滑る度、底知れぬ黒い感情がこねくり回されるみたい。心拍数があがっていく。心臓が飛び出しそうだ。
サスラ姉様のことを考えた時のアクアは怖い。底知れぬ冷たさをはらんで絡みついてくる。
「ヴィッテ?」
名前を呼んだのはアクティさんかテンプスさんか。どっちかはわからないくらい身構えてしまっていた。
アクアのことは見ない振りをして手を打つ。
「えっと、入口で立ち話もなんですから、ひとまず出ましょうか」
よくわからないけれど、一刻も早く状況を変えたかった。体中が熱くて血が噴き出そうだ。
踵を返したところで手首を掴まれた。途端、不思議と体が軽くなった。
「テンプスさん?」
てっきりアクティさんが引き留めてくださったのかと思ったのだが。意外にも、しっかりと握っているのはテンプスさんだった。
目が合うと、テンプスさんの垂れ目がさらに下がった。
「聞こえてなかったのかなぁ? 店主さんが上に案内してくれるって言ったのにさぁ」
「はっ? あたしは――」
アクティさんが、らしくない様子で言葉を切った。でも、彼女を気遣う余裕はない。
あのアクアが怖いと思って、そう感じた自分に戸惑っている。でも、感情の元を辿ろうとすると目の前が真っ暗になる。
「ヴィッテ?」
名前を呼んだのはどちらか。
「あっ、すみません。ぼうっとしていて」
額を押さえると少し熱かった。汗が滲んでいた。雫を払うと余計に指先が湿った。
数秒の沈黙があって、
「そうさね。折角ヴィッテも着飾ってるんだから見せておやりよ」
アクティさんが背中を押してきた。やはり、幾分か体が軽くなった。
ほっと胸を撫でおろした横で、アクアの舌打ちが聞こえた、気がした。
「えっ? 見せるって?」
手を引かれるがまま薄暗い階段をあがる。手を引くのはアクティさんで、背中を押すのはテンプスさん。どっどういうこと⁉ なんか連携取れているんですけど⁉
アクアの気配は消えているが、なんとなく口を開くと気持ち悪くなりそうだったので黙ったままアクティさんについていく。
「入るよ」
最上階の角部屋に着く。割と控えめなノックの音が響いた。
掃除の時に見たことはあるけど、この辺りは特に景観重視であまり高い建物がない。あっても三・四階ほどだ。なので、六階建ての最上階は見晴らしが良い。時計台が良く見えるなぁなんて思う。
けれど、ほどよく建物前の樹や出窓の花たちが良い目隠しになっているんだよね。
「ちょうど良かった。ボトルの追加を頼もうと思っていたのだ。シレオとの話し合いは骨が折れた」
大好きな声が聞こえて我に返った。
顔をあげた先、開けられた扉の向こう側。皮のソファーにローテブル、ムスクの薫り漂う仄暗い空間にいたのは、
「アストラ様にオクリース様?」
私の大事な上司のお二人だった。




