テンプスさんが私をからかっていらっしゃるのは、わかっていましたから
――……まだ、話せない。もうちょっとだけ、待ってほしいの。覚えていること全部、話せるまで。ヴィッテとの出会いから、あの子たちのことも全部――
沈黙すること数分。アクアが肺の息を全部吐き出す勢いで溜息をついた。
私はどんな反応をして良いのかわからず、ただ頷いた。『あの子たち』とは誰のことだろうか。サスラ姉様なのか、はたまた全然違う人物たちのことなのか。
「まぁ、とりあえずさ」
ぽんと掌を打つ。
仕切り直しの意味で立てた音は功を奏したようだ。アクアは愛らしい調子で瞬きを繰り返して近づいてきた。今まで忘れていたのが嘘だと思えるくらい、愛しく思えて仕方がない。
少しずつ戻りつつある記憶の影響もあるだろうけれど、それ以上に、今目の前にいる彼女をもっと知り合いと思っているのだ。
「表立った歴史書じゃなくて、いっそのこともっと細かい分野の本を探してみない? 例えば、えーと」
――呪術専門書や謀反の歴史、みたいな?――
口ごもった私の代わりに、思いのほか真剣な色を浮かべたアクアが指を立てた。
切り替えが早いなと思った、正直。
けれど、アクアへの引け目を除いたら案外的を射ていると思える。
「アクアが嫌じゃないなら、その線でいってみようか!」
――もちろんよ――
「じゃあ、次の休みはそっちのフロアを探してみよう。ひとまず閉館までに十分くらいあるから覗くだけ覗いてみようかな!」
善は急げと、広げていた文具を鞄にしまいこむ。
最後の手帳を突っ込んだところで、
「あれ、ヴィッテ君?」
「ひぇ!」
伸ばした背がつりかけたのは、扉が軋んだのと同時に部屋に響いた声によってだった。
「あっ、えーと、あの」
恐る恐る振り返った先にいたのは、アパートのお隣さんのテンプスさんだった。
深緑の髪は相変わらず四方八方に跳ねている。それでも、ずれ落ちている銀縁眼鏡から私を見つめる視線はいつになく鋭い。視線の強さを助長しているのは魔術師団の制服を纏っているせいだろうか。藍色の重々しい制服は迫力満点だ。
「魔術師団魔術研究部門統括長テンプス・イグニス様におかれましては、ご機嫌麗しく。ご挨拶が遅れましたこと、誠に失礼いたしました」
テンプスさん個人は愉快な隣人だが、いわゆる国の機関のお偉いさんだ。彼が制服を身に着けている今は、本人が気にしないとしても礼節をとるのが常識だろう。
膝をひき、若草色のワンピースに掌を押し付ける。トルテが選んでくれた少し短めのスカートの裾が、ひらりと舞った。
「やだなぁ、ヴィッテ君ってばぁー。一瞬、君の前に僕以外のだれかがいるのかと思っちゃったよ。過去の魔術師団の偉人亡霊に憑かれているのかなぁって」
予想通り、テンプスさんはいつもの彼だ。気の抜けた声に膝がガクンっとなりかけるが、意地で堪えた。ずっこけしない、絶対。私は踏ん張れる系女子だ。
それでも表情筋は素直なので、引きつった笑顔を向けてしまう。というか、しまっている自覚はある。
「あの、テンプスさん?」
「僕ってばただでさえ根暗な研究者って避けられているのに、ご近所さんにまでよそよそしくされたら……。寂しくて寂しくて。おじさん、とうとうだれにも笑いかけて貰えなくなって、うぅ、ついには孤独死一択だよぉ」
ふるふると震えだすテンプスさん。
どどどどうしようと焦ったあげく、手持ちのハンカチをテンプスさんの顔面に押し付けていた。おろおろとハンカチを動かす私がよっぽどおかしかったのだろう。テンプスさんは盛大に噴き出した。
「あははっ! 随分と真面目な顔で挨拶してくるから、少しだけからかうつもりだったんだよ。ごめんね。ヴィッテ君に距離をとられると、おじさん寂しいんだもの」
「……いえ、テンプスさんが私をからかっていらっしゃるのは、わかっていましたから。でも頭と体は時には別ものでして」
なんだろう……この悔しさは。いつもなら『冗談が通じなくてすみません!』って勢いよく頭を下げるところなんだけど。
しかも、テンプスさんがからかっているだけじゃなくって、身分さを感じさせないようにわざとおどけてくださっているのもわかるから。それを嬉しいとさえ感じてしまった。私、いよいよ厚かましくなっている。
「それでも、嘘でも、距離感がさみしいって言っていただけて嬉しかったのでいいんです」
拗ねつつも笑みが堪え切れない色を浮かべた顔もそのまま、テン プスさんを見上げれば。彼はひどく戸惑った表情を浮かべた。
「テンプスさん?」
私の問い掛けに、頬に伸びかけた手がぴたりと止まった。無言で待っていると、ひゅっと引っ込められた腕。
目があった垂れ目はさらに目尻を下げる。
あっ、これはちょっと距離をとられたな。テンプスさんって、自分から急に距離を詰めてくるのに、時折やっぱり自分から一歩下がるから良くわからない。
「いやね。花祭り前の貴重な休暇をつかってまで、こんな辛気臭い図書館の地下になんでいるのかなぁって。折角おしゃれしているんだから、アストラ君とかに見せに行けばいいのに」
こほんと咳ばらいをしたテンプスさん。
自分がおしゃれしているのも忘れ、思わず目が据わる。
「テンプスさんってば、もしかして私のお知り合いがアストラ様とオクリース様だけだと思っていませんか? これでも魔術騎士団の他にも図書館仲間とかアクティさんのお店の常連さんとか、知り合いも増えてるんですから」
「そうくるかぁー。ヴィッテ君のスルースキル、変な方向にあがってるよねぇ」
あははーと、相変わらず緩い空気でテンプスさんは笑う。
「それは、辛気臭い図書館の地下に通う、根暗女子って揶揄されたのをっていう意味でしょうか……」
「これまた斜め上を来たねぇ」
「じゃあ、おしゃれっていう点ですか?」
「おしいねっ!」
テンプスさんが意図の見えにくい笑顔を炸裂させた。普段、割と思惑が掴みやすい方――伝わりやすくしてくださっているのかもしれないけど――が多いので、地味に困る。
故郷で父、それにここでアストラ様やオクリース様の付き添いで参加する社交と同じ空気を感じて、息苦しくなる。
記憶に沈みかけた直後、テンプスさんがぱちんと指を鳴らした。
「休暇って思った部分を繋げてみようよぉー」
はっと顔をあげる。
冷静になると、彼がなぜ私が休暇と見抜いたかなんて一目瞭然だ。私の服装や編み上げられた髪を見れば。
髪は昨晩泊まりに来ていたトルテがやってくれた。食堂の仕込みがあるから夜明け前に帰っちゃったけど、掃除洗濯のために一緒に起きたのでちょっと化粧もされた。
「なぞなぞは得意じゃないです。特にいまは脳内の糖分を全部使いきって疲れ果ててるので、わかりやすい会話をしていただけると大変助かります」
何に感心したのか。テンプスさんは「へぇ」と声をあげた。
……いや、きっと私らしからぬ発言だったのだろう。自然と顔が強張る。この乖離、どうにかならないものか。
「じゃあ、簡潔に。デートっぽい服装だねぇってのを遠回しに言ってみたんだよ」
珍しい、と思った。テンプスさんってば偏屈なところがあるから、もう少しからかわれるとのだとばかり――って、アクアが物凄くゆがめられた顔でテンプスさんを睨んでいるじゃないか! これはテンプスさんが本能でプレッシャーを感じて危険回避したんだろうね! 白目むきそう!
「あっあのテンプスさん、そろそろ閉館時間なので出ましょうか!」
「そうだったー。この部屋付近で強い魔力を感じたから立ち寄ったんだよぉ」
「中にいたのが私ですみません! 残念サプライズ!」
ちらちらとアクアを見上げる。より強くなる殺気にあわあわと泡を吹きそうになるが、アクアに声をかけることも憚られるので心の中で『可愛いお顔が台無しだよ!』と叫んでおいた。幸いそれが通じたようで、アクアは耳を染めてぷいっと天井を睨んだ。
「えっ? いや、そんな残念感はなかったよ?」
テンプスさんは廊下を鳴らす。
あっけらかんと返してくるテンプスさんに拍子抜けして、ぐったりとしてしまう。なんだこの展開。
「そっそれは何よりです」
メミニみたいに意味不明だとどん引きされるか、アストラ様みたいに大当たりだよと豪快に笑ってもらうか、はたまたフォルマやオクリース様みたいになぜ謝罪するのかとドクダミ色で微笑みを貰う方がわかりやすいというものだ。
「もう少ししたら閉館の音楽も流れるだろうからねぇ。マース女史の不機嫌をさけるためにも、一階に戻りがてら話さないかい?」
テンプスさんに促されながら、慌てて鞄をかける。テンプスさんは口にはしないけれど、視線で焦らなくて大丈夫だと語りかけてきた。
やっぱりこういうところは魔術師団のお偉いさんだと思う。というか、大人の男性と言うべきか。
「時に、ヴィッテ君はあんな滅多に人が立ち寄らない地味な歴史部屋で何を読んでいたの?」
静かな廊下に落ちた疑問に、内心『きてしまったー!』と背が伸びた。
だが、私は臆病な分リスク管理もしているのである! 鞄から取り出した手帳を広げる。
「地元にいた時に知った物語関連で、フィオーレの実際の歴史を知りたいと思いまして」
「へぇ、どんな歴史? 僕は魔術関連で史実も研究しているから力になれるかもよ? でも意外だなぁ」
テンプスさんが刺してくる。意外だなんて言葉は悪い予感が満載だ。
「ヴィッテ君は家具オタクだと思っていたからねぇ。関連性としてはあり寄りだけど、ここまでディープなのはねぇ」
「花祭りという歴史ある行事に関わる機会もいただけたので、フィオーレの歴史自体を理解したいなぁと! 案外、面白いですよ! 当時の王妃の好みが流行になる過程やら、世情が全体のレイアウトがもたらす雰囲気に影響を得ているとか。勉強になります」
手に持った分厚い手帳を開いて、調べた内容を証拠提示する。全部が嘘ではない。家具オタクとしても正直な意見だ。
手元を覗き込んでくるテンプスさんの瞳はらんらんと輝いている。
ふわりと涼し気な薬草の薫りが躍る。ミントに近いけど、ミントとはちょっと違う。
テンプスさんってば髪はぼさぼさで容姿にも無頓着なんだけど、すごく良い香りがするんだよね。そういえば部屋もハーブの香りが満ちているっけ。
「ヴィッテ君?」
「ほわっ! すみません、思考の海に浸かっていました。えっと」
さすがにテンプスさんの匂いにほっこりしていましたなんて言えない。
フィオーレに来たばかりの私なら言葉も不慣れで率直な感想を告げていただろう。けれど、さすがにかなり年上でバツイチの男性に相手にされるとは思えなくとも、二人っきりの空間でその言い回しは不正解だとわかるようにはなった。
「わかったよー。匂いの元である薬草は、家に帰ったらわけてあげるねぇ」
垂れ目をさらに緩めて微笑まれてしまった。
私といえば、心の中を読まれてあばばと暴れるのと、薬草への期待が膨らむとので忙しかった。テンプスさんって、アストラ様たちとは違って線引きがいまいち不明なのだ。
「あっありがとうございます。というか、テンプスさんの察しが良すぎて恥ずかしいです」
頬をおさえても変な汗も熱も引いてはくれない。
「察しの良さならオクリース君のが良いし、天然度ならアストラ君が頂点だと思うけどねぇ」
「それは全力で同意します。でも、テンプスさんってお二人と違うすけこましさがあるというか。自然に会話にまぜこんでくださるんですもん。ほら、ご本人は無自覚みたいなので、どう反応して良いのか、人生初心者は反応に迷ってしまうんですよ」
あっあれ? テンプスさんが虚無を浮かべてしまった。顔の前で手を振るが、虚空を見つめたまま固まっている。
どうしたものかとアクアを見上げるが、理不尽にも溜息を吐かれただけだった。
「テンプスさん! それほどまでに私の反応がおかしかったですか⁉」
言葉の壁なのか、生来の価値観なのか。私はやっぱり人とずれている。まだまだだ。
テンプスさんの肩を揺らすと、
「はっ! 確かにヴィッテの反応はあれだったけど、これは僕の感情の範囲だから気にしないでねぇ」
なんて手を鳴らした。
そして私が何か言う前に「それで何を調べていたのかなぁ」と気圧された。もう一度言う、話を振られたのではなく気圧されたのである。




