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オクリース様の雷が落ちるかどうかの瀬戸際で。

 アクアを思い出した夜から、ゆっくりと、けれど確実に色々なものが変化している。

 それはまるで。列車線路の分岐器がカチッと切り替わったみたいな感覚だ。向かう方向が変わったのは私自身の価値観や思考であり、または私が進む未来自体でもある気がした。

 ただ素直に喜べないのは、私もそれ以外の人たちも機械が動くようには変化を受け入れられないからなのかもしれない。

 だって、感情を持ち合わせた人間だから。変化が必ずしも幸福を招くとは言えないのを、私は良く知っている気がするのだ。




「ふあぁぁー。だいぶあったかくなったなぁーって!」


 大きなあくびに鳥の鳴き声が重なり、思わずびくっと肩が跳ねた。


――ヴィッテの特大あくびの方が野鳥を驚かせたのだと思うけれど?――


 数羽も群れになって羽ばたいたんじゃ驚きもしよう。

 反論したいのをおさえて私の周囲でぷかぷかと浮いているアクアに、


「それは失礼しました。どうせ、私って食欲を始めとして睡眠欲求も強いもん。まぁ、食欲には負けるけど。どんな欲も食欲には負けるけども」


なんて返すと、アクアはお腹を抱えて笑い出した。

 何がそんなにおかしいのか。フィオーレに辿り着いた際、森で行き倒れになっている最中でも気を失う直前まで考えていたのは食べたいものリストのことだったから、今更だろうに。幼少期からずっと腹ペコ女子だ。


――知っていても、とんでもなく久しぶりにヴィッテ本人の口から聞くと、妙に笑いのツボにはまってきてしまうのよ――

「それでも、髪の長さ以外はそっくりなアクアに爆笑されると、それこそ妙な気持ちになるよ」


 カーテンを開けた先にある窓ガラスに映っているのは、アクアと瓜二つなのに表情は正反対な自分の姿。まるで陽のアクアと陰の私を見せつけられているみたいだ。

 溜息交じりに視線を逸らすと、まだ薄暗い中でも広い庭園では人影が動いているのが見えた。


――ヴィッテったら。襟を止め忘れているわよ?――

「おっと。ありがとう」


 自分のロッカーで備品保管庫となっている部屋で、魔術騎士団の制服に着替え終わったところ。アクアが直そうとしてくれるけど、彼女は物理的な干渉ができない。綿毛で首元をくすぐられているような感触に、小さな笑いが零れた。


――私はいいけれど、もう少し広いというか、まともな更衣室を用意してもらえないの?――

「上官の部屋の隣ってかなり好条件だと思うけどなぁ。女性騎士様たちと別なのは、ここが備品管理もできてちょうど良いって私が言ったんだし」


 アストラ様の執務室の隣、角部屋にあるここは所狭しと物が置かれている。これでもだいぶ整理したのだ。


「とはいえ――」


 アクアが動いてわずかに発生した風で、足元に転がってきた謎の可愛らしい動物のぬいぐるみ。熊なのか猫なのか、はたまたアザラシという遥か遠くの海の生き物なのか……。

 それを摘まみ上げる。


――ほら、それなんてまさにだわ。少女趣味なぬいぐるみなんて、()()()やっぱり変態なのよ――


 アクアが言う『あの男』とは、司令官殿ことアストラ様だ。

 アストラ様は結構変わっていらっしゃる所はある。否定しようもなく。挙動不審な私を上回る場面も多かったりする。

 であっても、


「アクアの言い分はいささか偏見ではなかろうか、と思うんだけど」


などと苦笑する私に、アクアはふんと鼻を鳴らした。口に出して「ふんっ!」って言ったよ。ついでに「はんっ!」とか「ぷっぷっ!」とか加えてきた。

 呆れながら無意識でぬいぐるみの頬を引っ張っていたようで、埃が舞った。


「って、のんびり雑談している場合じゃないや!」


 壁時計の針が真っすぐになっているよ!


――あら、私との楽しいひと時を雑談なんてひどいわ!――

「ごめんて! でも早くいかないと、オクリース様が先に第三訓練場に来ちゃう!」


 慌てて部屋を出て、司令官執務室を通り過ぎて階段を駆けおりる。髪も一緒に踊る。いつものように纏め上げている時間はない。

 時折すれ違う騎士様たちには足を止めずに頭だけ下げる。反応は様々で、


「副団長はまだ見かけてねぇーぞ、頑張れ!」

「ヴィッテも入団当初はいちいち止まって頭を下げていたのに、走りながら礼をするなんて器用になったものだな」

「こけでもしたら団長がうるさいんで気を付けるっすよー」


などと、応援されたり褒められているのか不明だったり、あまつアストラ様を引き合いに出して楽しまれたりした。

 本気で私の遅刻を心配している方がいらっしゃらないのは、私があくまでも自主的に十分前行動をしているのを知っているからだろう。これでも、どんなにご令嬢方や意地悪官僚に妨害されても、会議等に遅刻したことはないのはちょっとした自慢だ。

 私といえば、それをわかってもらっているのがくすぐったい。

 でもここ数日は本当にギリギリな自覚もあるので、頭だけ下げて足を止めずにいる。


「ご助言やお気遣い痛み入ります!」


 アクアは大抵、こんな時は腕を組んで考え込む。

 現実世界でのアクアは感情の起伏が激しくて素直で率直。だから、そんな風に何を考えているか不明な時は、物珍しさよりちょっと不安になってしまう。


「アクア? 気にかかるものでもあった?」

――いえ、ね。……まぁ。なんでここまで一生懸命になるんだかってのはあるわね。魔力制御なんて、私が教えてあげるのに――

「……アクアの説明、三時間位は真面目に聞いたよ。バーっとかザバッとか擬音ばっかりで、ど素人の私にはさっぱりだった」

――私が生きていた時代とジェネレーションギャップがあるって言いたいの⁉ ひどい

! 私ってば、見た目はほぼヴィッテと同じ年なのよ⁉――


 激しく論点が違う。夢の中のアクアは割とまともに会話出来ていたように思うのに、隣で腕を組んでハムスターもどきになっている彼女はまるで理不尽な幼児だ。


「はぁ。アクアだってオクリース様は教えるのがうまいって唸ってたじゃないの」


 早朝訓練に参加する必要がない事務員の私が、こんな時間に職場にいる理由。それは司令官室で倒れてた際にアストラ様ことウィオラウス家の医師に言われたことが関係している。元々魔術が盛んで放った国生まれの私がフィオーレに来て、潜在している魔力がうまく制御できなくなっているせいだと言われたのだ。フィオーレや周囲の人の魔力に引っ張られているらしい。

 という訳で、早朝の訓練にあわせてオクリース様に個別指導を受けているからだ。

 それが通常業務を続ける条件なので、逆にありがたすぎる。生活かかってますから。臨時職員の私は長期求職命令が出たとしても、期間中は手当が支給されないんだもの。


――それは、まぁ、そうだけれども。でも! 私がヴィッテに教えたかったの! 『アクアお姉ちゃんすごいね!』って拍手してもらいたかったの!――


 素直に認めてもなおむくれるアクアは割とかわいい。見た目が自分なので、そう感じるのに違和感があったりはするけども……。なんだろう。我がままでも愛らしい雰囲気というか。

 自分とは似ても似つかないのに、改めてしげしげと眺めた横顔は自分なのだから奇妙が過ぎるだろう。


「ほら、アクア! なんとか十分前には訓練場につけそうだぁー!」


 沸き上がる黒い感情を見てみぬ振りをして、手を打つ。


「いや、手放しで喜んでいる場合じゃないみたい……」


 目的地前のホールを曲がったところで、第一部隊長のネムス様が遠くに見えた。げっと眉間に皺が寄ったのは仕方がない。ネムス様は礼儀に厳しい方なのだ。

 案の定、こちらに視線を向けたネムス様の眉尻が跳ね上がった。


「こら、ヴィッテ君! 廊下を走るなど落ち着きにかける! 団長付事務員の君の行動は、我らがアストラ様の評価にも繋がるのである! もっと品位ある行動をとるように!」


 太く傷だらけの右腕を上げて、割と本気で怒鳴っているネムス様。周りにいる騎士様たちが、まぁまぁとネムス様の腕を下げようとしてくれている。

 方向転換し彼らの前に駆け寄り、勢いよく頭を下げる。


「申し訳ございません! でも、割と緊急事態なんです! 昨日、フォルマやトルテとご飯に行っていたので、それをご存じなオクリース様の雷が落ちるかどうかの瀬戸際で! 決して飲み過ぎて寝坊ということはないのですがっ!」


 顔を上げた先にいたのは、きょとんとしている強面の顔だった。


 彼らの表情を見て、今更自分らしくない発言だったかと気が付いた。そして、一番驚いたのはソレをあまり深刻に考えなかった自分がいたからだ。

 これもアクアを認識したが故の副作用だと自分に言い聞かせて、なんとか彼らと視線を合わせる。


 そう言えば、少し前までの私ならネムス様に恐縮しきって平謝りだったし、ご本人にはともかく、騎士様たちに雷が落ちるなんて言ったりしなかった。ましてや、前日に友人たちとご飯――飲んでいたなんてことを。

 そう、この瞬間、確かな違いに気が付いた。私は言葉にしてしまったから。


「いや、ヴィッテ君」


 ネムス様本人が焦ったように手を伸ばしてきた。私の肩が大きく跳ねたせいで、触れることはなかったけれど。

 よほど私の顔面は蒼白になっていたのだろう。自分でも血の気が引くのがわかったもの。


「あっあの。申し訳ございません。諸々の表現というか言動が不適切で――」


 勢いの許す限り深く腰を折った。

 数秒の沈黙が続く。うぅ、気まずいのはあるけど、過分な謝罪だっただろうか。

 ぎゅっとつむっていた瞼を上げると、若い声が廊下に響いた。


「わかった、わかった! ははっ! そりゃ、大事態だ!」


 恐る恐る、というか顔色を伺う仕草だったのは自分でもわかった。ゆっくりを顔をあげると目があったムール様とデル様は苦笑を浮かべた。


「気持ちはすっげーわかる! 酒飲んでても、むしろ早く目が覚めたうえに、天気が崩れそうだったから予定より早く家を出て公共馬車に乗ったんだろ?」

「そう言えば、昨日の夜に騎士団管轄内で起きた通り魔事件のせいで、主要機関に繋がる交通網が遅れてるって聞いたな」


 フォローさせてしまったと身を引く前に、二人はネムス様の肩を両側から叩いたじゃないか。

 じょっ上官の肩を突っ込みよろしく叩くなんてとオロオロする私を横に、ムール様がにやりと口元を上げて髪を撫ぜてきた。


「理由があるとは言え、ヴィッテの言うように参謀長殿の静かな稲妻ほど怖いものはないからなぁ。いいから、急ぎなよ。完全に朝がくる前に遭遇した妖精だとでも思っておいてあげる」

「妖精は妖精でも可憐さとはかけ離れた悪戯っ子な妖精だ。髪もぼさぼさだし」


 ムール様とデル様が言いたい放題に笑えば、反対側にいらっしゃる女性騎士のランテ様もぷっと噴出し「本当だ」と下ろしたままの髪を撫でてくださった。くすぐったくて、私も笑ってしまう。


「いいわけあるか!」


 けれど、復活したネムス様には拳骨をもらってしまった。おぉぉ、痛い。

 私も同意見である。妖精だなんて烏滸がましいし、撫でられてうっとりしているのも不相応だ。


「先ほども言ったようにヴィッテ君の行動はウィオラケウス司令官の評価に繋がるのだ! ただでさえ、近頃は司令官と君の関係を邪推する者たちが――」

「部隊長、それは言い過ぎです。ヴィッテの仕事ぶりを見ていれば、明らかに嫉妬の感情が混じっていると判断できる程度の噂です」


 女性騎士のジェカ様が厳しい声でネムス様に向きなおった。


「えぇ。ヴィッテが司令官殿や参謀長殿に懸想して、媚を売っているなんてあり得ません。彼女の仕事ぶりは、わたくしたち一人ひとりが良く知っているでしょうに」

「硬派のネムス様が、まさか井戸端会議のような戯言を信じて邪推されているなんてことはありませんわよね?」


 性差別の少ない魔術騎士団も女性騎士はまだ多くない。そんな中、ランテ様やジェカ様をはじめ女性の騎士様たちにはとてもよくして頂いている。

 当然だが、アストラ様やオクリース様をはじめ、近しい人たちが私に気付かせないようにしてくれているだけで、魔術騎士団の中にだってもちろん私の存在を快く思っていない人たちもいて……。女性騎士は特にそんな私を庇ってくださるのだ。


「うっうむ。それがしも噂にそそのかされているのではなく、ただ、眼前のヴィッテ君の行動を諫めようとしただけである。が、言葉選びが適切でなかったのは反省するところだ」


 しどろもどろに答えるネムス様。ジェカ様は相変わらず凛と背を伸ばし、部隊長であるネムス様に向き合っている。

 笑顔の目の端に涙が浮かんできてしまう。嬉しい。すごく嬉しいから。もったいない。


「ネムス様もジェシカ様も、ありがとうございます! あっ、最初に庇ってくださったのはムール様でしたね! というか、デル様もランテ様も、ジェカ様もありがとうございます」


 敬礼しつつも、本当は罪悪感でいっぱいの胸が痛む。ずくんずくんと気持ち悪い音を立てて全身を痺れさせる。耳の奥で、ぽろりぽろりと音が鳴る。


 だって、邪推じゃない。

 私はアストラ様に恋をしてしまっている。それを自覚してしまった。


 私はアストラ様を異性として意識しているのだ。こんな裏切りはない。ひどく醜い感情だ。誰も幸せにしないし、ひどく独りよがりな想いだ。黙っていれば許されるとかの問題ではない。恋をすること自体が悪なのだ。

 私は一番彼に恋しちゃいけない立場にいる。

 同時に、あんな素敵な人を好きにならないはずがないのに、随分とひどいなぁと思う。『勘違いさせるような態度をとらないでください』なんて言えるはずあろうか。アストラ様は100%親切心の塊なのだから。


――そうかしら? オクリースの方が好きになる要素は段違いに多い気がするわよ? ヴィッテの男の趣味って昔から心配なのよねぇ――


 あっアクアの意見はともかく。っていうか、昔からってなんだ! アストラ様が初恋だぞ!

 とっともかく、感謝するべきは環境だ。私はアストラ様が好きなんだと自覚するのと同時、許されない感情だと引き締められた。どっちにしろ、私が好きと告げて良い人達じゃないんだからと苦笑が浮かぶ。浮かべるしかない。


「……本当に大丈夫なの?」


 ジェカ様に問われ、どきりと心臓が跳ねた。

 私の顔面がやばいですかねとギャグっぽく考えるのに、体は痛む。心臓がひどく痛い。しかも吐きそうなくらい気持ち悪くて、眩暈さえする。思考と体が一致しない。

 でも、大丈夫。どうしてか、前より前向きになれている私は嘘をつくことも上手くできる気がする。自虐に満ちていた頃より、想いを上手に誤魔化せる気がするのだ。


「もちろん大丈夫です! あっ、でも今だけは廊下を走るのはお許しください! 失礼します!」


 踵を返し大理石の床を蹴る。ちらりと振り返った先には、呆気にとられたり手を振っていたりする騎士様たちがいた。


 カランカラン、ほろりほろり。どくんどくん、からから、ぽろぽろ。


 大丈夫と口にするたび、心が砕けて何かが剥がれ落ちる音が耳煩い。

 それでも私はきゅっと口角をあげて走る。視線の先で手を振っているフォルマとオクリース様が、とても優しく微笑んでいるから。もう、()()()優しさも裏切りたくないと思ったから、()()()()()()()()()()()と思った。()()



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