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あるべき立ち位置の自分と蘇る記憶


 ガラス窓から朝日が差し込む爽やかな朝に、私は机の上に並ぶ書類に頭を抱えている。

 手に取ると、かさりと音を立てた紙。ちくしょう。まるで私を笑っているようにさえ思えてくるから、憎らしい。


「はぁ。これ、強制参加なのかなぁ。私みたいな事務方は、花祭り後の宮廷晩餐会に参加する必要ないと思うんだけど」


 盛大な溜息を落としたのと同時、重厚な扉が開く音がした。

 書類を顔にあて、横目で入室者を確認するという間抜けな様子の私をからかうのではなく、アストラ様は少しだけ驚いた表情で近づいてくる。


「おはよう、ヴィッテ。今日は随分と早いのだな」

「おっおはようございます! ここ最近、花祭りのパレードの視察だったり、他の団の方々との打ち合わせが多かったりするので、日常業務を早めに終わらせておこうと思いまして」


 昨晩、旅人さんを見送ってから、結局眠れなかった。ならばいっそのこと早く出勤してしまえと、五時前に着いてしまったとは口にできまい。

 アストラ様と目を合わせないよう、慌ててファイルのひとつを開く。おぉぉ。日常業務をとか言いながら、視線の先には『花祭り警護』の文字が現れた。


「そうか。先日倒れたばかりだというのに、無理をさせるな」


 気遣いの色が濃い声に、はっと顔があがる。あげた先にいたアストラ様は、予想に違わない様子でしょんぼりとしていた。

 早朝訓練の後なのだろう。肌触りのよさそうな白いタオルが肩にかけられている。髪が濡れているせいで、大型犬わんこの耳が垂れている幻覚が見えてしまう。


「あれは個人的な事情が原因ですから、お気遣いいただくのは心苦しいです」

「だが――」

「それに、仕事が詰まっていた方が楽なんです。花祭りが終ったら、色んなことにちゃんと向き合わないといけないですし」


 苦笑を浮かべた私を、アストラ様は口の端を落として不満気に見下ろしてくる。

 近頃のアストラ様は、いつもこんな表情を浮かべる。浮かべるだけなのだ。

 前はちょっとでも納得いかないことや拗ねることがあれば、はっきりと理由を口にされたのに。

 その態度の裏にどんなお気持ちがあるのかはわからないけれど、薄い壁ができてしまってようで妙に切なくなるのだ。自分からも距離を取っている癖にね。


「さっ! 私は各部屋の備品の在庫確認に行ってまいります! ついでに、先日司令官殿が積み上げたままの、書庫書類も整理してきます。執務室への戻りは昼過ぎになるかもしれません」


 うん。忙しいんだ、私ってば、とても忙しいのだ。雑務だってためると大変なことになるし、地味にみんなの仕事が滞る。今しがた距離をとか思ったものの、物理的な意味ではない。決して。

 勢いよく立ち上がった私の肩に、大きな掌が触れてきた。


「あっアストラ様?」


 あぁ、声がうわずった!

 どくんっと心臓が暴れだし、体がほてっていくのがわかった。あっ赤くなるな顔! こんな時は、食べたいものリストを思い浮かべて冷静になるのだ。逆に興奮してしまうか。じゃなくって!


「書庫の整理なら俺も手伝うから、たまには一緒に昼を食べに行こう」

「やだな、司令官殿。先週、食堂でご一緒したじゃないですか。それに、私、今日はランチ持参なんです。お金を貯めないといけないので、節約生活!」


 むんと、右手を掲げる。さりげなく、アストラ様の手を肩から外したかったのだけれど。

 今度は手首をがっしりと掴まれてしまった。しっしかも、なんか顔が、近いんですが!


「欲しいものでもあるのか? それなら、フィオーレ滞在5ヶ月記念に贈るが」


 アストラ様、怒っていらっしゃるのだろうか。お腹に響くような低い声が、広い部屋に響いた。ぽつりと、薄紫色の髪から垂れた雫が腕に伝う。

 いつになく真剣な顔で眉をつりあげているアストラ様は、かっこいい。しかも、私だけを見てくれている。射抜くような視線に吸い込まれそうになる。

 顔を背けても、それは変わらないから不思議だ。


「いえ、あの、欲しいのは物ではないのです。一度ですね、スチュアートとのことは関係なく故郷に戻って、両親の墓に状況報告したいのです。それに、家業関係でお世話になっていた方々にきちんとお礼をしなければなりません」


 自分がどうなってしまうかわからないから。可能な限り早く。


 その一言を呟けば、アストラ様はどんな感情をいだいてくださるのだろう。

 そう考えた自分に、失笑してしまう。これじゃまるで、アストラ様に傷ついて欲しいみたいじゃないか。

 心内を隠すように、必要以上に明るい声で続ける。


「フィオーレに来た時は両親の遺産を使いました。だけど、帰る旅費は両親の遺産じゃなくて、自分で稼いだお金で出したいなって! 自立したんだよって!」


 痛い。言葉を出すたびに、手首を握るアストラ様の力が強くなっていく。

 あげていた腕がゆっくりと下ろされ、ほっとしたのも束の間。今度は、アストラ様の胸元に押しつけられていた。厚い騎士服から、アストラ様の心音がとくんとくんと伝わってきて、泣きそうになる。


「『故郷』に『帰る』か」

「司令官殿?」


 呼びかけても返事はない。

 耳に届くのは、さっきまでの晴れから一転、低く鳴り響く雷の音。ガラス窓を打ち始めた雨音が、静かな空間に広がっていく。

 張りつめているのに、心地よいと感じている自分がいるのが不思議だ。今だけは、2人向き合うことを許されているみたいで。


「あの、今すぐにではないんです。今は仕事忙しいですし、まだ、その……」


 うわずった声と一緒に、私の手首を握っているアストラ様の手に、そっと指を添えてみる。

 それまで前髪に目を隠していたアストラ様が、首を傾げて「ん?」と顔を覗き込んできた。あまりに甘い声色に、頬が一気に蒸気していく。


「アストラ様やオクリース様、それにフォルマたちと長い間離れるっていうのは、想像できません、ので、お傍にいたいというか」


 言葉にして、照れるより泣きそうになってしまった。私、あとどれだけ皆の……アストラ様の傍にいられるのだろう。潤む瞳もそのままに、アストラ様を見上げる。

 数秒の沈黙の後、アストラ様の瞼がわずかに落ち、吐息の距離が近づいて――。


「おはようございます。アストラもヴィッテも早いですね」


 ばっと音を立てて横を向くと、涼し気な顔でたつオクリース様がいらっしゃった!

 まっまったく気配に気が付きませんでしたよ!


「おはようございます、オクリース様! ご入室に気が付かず、失礼いたしました! アストラ様、私、これで――」


 オクリース様に誠心誠意頭を下げたあと、アストラ様を見上げると――目があったアストラ様は、ばっと手を離し口元を覆った。おまけに、ものすごい勢いで顔を逸らされてしまった。

 今度は真っ青になってしまう。私、もしかしてなにかやらかしていたのだろうか!


「アストラ、貴方という人は」

「まっまて、オクリース!! 誤解だ! いや、誤解じゃないかもしれないが、不可抗力とか吸引力いうやつで!」


 なぜか盛大に両腕を振って慌てているアストラ様。


「余計に悪いです」


 後ずさる彼に詰め寄るオクリース様の迫力は、女神の園が見えるほどだ。正直立っているのもつらいほどで、鳥肌ものだ。


「忍耐力をつけるか、いい加減自分と向き合うか。どちらかにしてください」


 オクリース様が言い終えるのと同時、アストラ様が足を滑らせて『すてーん』と転んでしまった。そういえば、足元に雫がかなり落ちていたな。拭いてから部屋を出ないと。


「いつも言っているでしょう。きちんと髪を乾かしなさいと」


 浅い溜め息を落とし、オクリース様が近づいてくる。まるでお母さんだ。対するアストラ様は、思春期の反抗する子どもみたいだ。床にあぐらを掻いてぶすくれている。

 あぁ。こんな時間が、私は大好きだ。思わず、ふふっと笑いが零れてしまった。


「オクリース様のおっしゃる通りです」


 私がそう言えば、アストラ様は唇を尖らせて恨めしそうに私を見上げてきた。

 久しぶりの空気な気がして、つい調子に乗ってしまう。


「もしかしてアストラ様って、学院時代から同じこと繰り返していらっしゃいません? その度に、オクリース様やシレオ様に『犬の方がちゃんと水分を飛ばす』なんて怒られていたとか」


 アストラ様は『じゃあ今ここで飛ばしてやるぞ!』とか不敵に笑って、頭をぶんぶん振るんだ。それで、周囲にはアレがトップ3なのかなんて呆れられて――。

 床を拭いていた手が止まる。


「良くわかりましたね、ヴィッテ。まるで見てきたようです」


 オクリース様の声で、妄想がぴたりと止まった。体もピシリと石化した。

 オクリース様の言葉は疑念からではなかった。私ではなく、アストラ様に向けられたものだった。からかいの色を目にも浮かべていた。


「うるさいぞ! 昔みたいにお前に飛ばしてやろうか」


 アストラ様が鼻を鳴らして頬杖をつく。オクリース様はうんざりと半目になり、


「それは構いませんけれど、貴方の横にいる部下を見て下さい。上司のあまりの幼稚さに、目を見開いています」


 今度こそ思考回路まで固まった。アストラ様を子どもっぽいと思ったからじゃない。普段なら、むしろ他の人には出さないような素を知れて嬉しいですと、鼻息荒く語るところだ。

 わかってしまったのだ。先ほどの一連の流れは妄想なんかじゃない。幼い私が実際に体験した事実なのだ。『つめたいー』なんて笑った。


「すまん、ヴィッテ。俺はいまいち上司としての威厳が足りなくていかん」

「あっ、違うんです! なんだか昔同じようなことをしていたお兄さんたちがいた記憶があって。デジャブというやつでしょうか」


 ちょっとばかり心拍数があがる。流し台で手を洗い、体温を下げる。

 が、目の前の男性二人は「ほぅ」っと目を瞬いただけだった。うん、わかる。オクリース様はアストラ様みたいな人が他にもいるのだと呆れ、アストラ様はどんな関係だと聞きたがっていると。

 お二人には心当たりがないらしい。ううん。となると、あの記憶も私の妄想だと考えた方が良いのだろうか。


「ヴィッテにそんな仲が良い兄貴分たちがいたなんて、初めて知ったぞ」

「いえ。きっとメミニから聞いた話でしょう。私は引っ込み思案でしたし、仕事以外では男性のお知り合いもいませんでしたし」


 口の端を下げて訝しんだアストラ様。オクリース様はすでにご自分の席についてらっしゃる。

 相変わらず保護者というか、過保護というか。過去のことにまで父性をはっきしなくても良いのに。


「ほら。私のことはいいですから、ちゃんと拭きましょう?」


 アストラ様の前に膝をつき、わしゃわしゃと彼の髪をタオルで擦っていた。アストラ様は自然な仕草で首を垂れて下さった。泣きそうになって、唇を噛んだ。だって、これも私がちゃんと部下だから許される距離感だ。私の心内がばれたら絶対に、アストラ様も周囲の人も拒むだろう。


 私がただの部下で、わきまえている移民だから、信頼されているのだ。それは私個人に対する信頼ではない。私のバックグラウンドへの安心だ。


 心の中では、ぼろぼろと雫が流れる。私は随分と贅沢になった。勝手に変っていく自分さえ、受け止めて欲しいと願うほどに。フィオーレでは私以外にだれも望んでいないのに。私は幼い頃の自分に戻りたいと思うのだ。

 それでも、ソレを願うなら今の立場にいられないのも承知している。


「あ、れ?」


 おかしい。アストラ様の髪を拭っているはずなのに、私から零れるものが彼に乗せられたタオルに染みていく。

 アストラ様は私の変化に気が付いたのか、顔をあげようとした。


「違うんです。すみません。ちょっとだけ、すみません」


 執務室なのにアストラ様の頭を抱え込んでいた。

 アストラ様はされるがままになってくださる。嗚咽に変った音が静かな空間に響く。いつの間にか雨が降ってきて、私の止まらない涙を誘って止まない。

 いつまで経っても掴まれない背中を嘆いた訳ではない。むしろ、触れることだけを許されて、心が落ち着いた。


「情緒不安定で申し訳ありませんでした。ちゃんと、現状を理解できました」

「それを、私に向けるのですか。彼ではなく」

「はい!」


 元気良くオクリース様に返す。一生懸命笑った。渾身の笑みだったと思う。


「オクリース様なら、ちゃんと正しく受け取って頂けると確信がありますから」

「そう、ですか」

「私、有能な部下でしょう? あっ、いえ。どうか、有能な部下のままでいさせてください」


 願いにも似た宣言。

 オクリース様は私の恋心も決意も見抜いているのだろう。


「それが、魔道府参謀長の私の役割ですから」


 一言だけ、返してくださった。

 アストラ様と言えば頭を起こそうとするものだから、私は体重をかけてやった。


「ヴィッテが拭ってくれるなんて珍しい。というか、このままでは俺の首が折れそうだが」

「そうですか? 私、割と雨の日とかは拭いている気がしますけれど。あっ、体重をかけてすみません。でも、私が変な感情を持ってないと信用してくださるなら、どうかこのままで」


 アストラ様は俯いたままだ。ちょっとだけ額に唇を近づけてささやいてみる。かつて、自分がしてもらったように。

 彼が除ける様子はない。それは、私を女性だと考えていないからだろう。再び目が熱を帯びる。これが答えで、私が魔術騎士団の臨時職員を続けられない理由だ。


「オクリース様。私はこの方の信頼を裏切りたくないのです。だから、どうか利用したまま切り離して下さい」


 髪を撫でる振りをして、アストラ様の耳を塞ぐ。

 私がアストラ様の保護を受けたのも、魔術騎士団の臨時職員になれたのもアストラ様ありきだ。生に傷ついた彼の前で生きることを求めた私。そして、きっと監視目的があったにしてもテストをして私の仕事能力をかってくださったアストラ様。

 どうあっても、私はアストラ様を尊敬している。そして、どうしようもなく好きなのだ。異性として。


「それは、また機会を改めて話しましょう」

「オクリース様。らしくありません。それとも、私を切り捨てられない理由がおありですか?」


 虚勢で呟いたのに、オクリース様の喉がわずかに動いた。

 そりゃそうだよね。ここまで入れ込んで下さったのだ。理由がない方がおかしい。頭では理解しているのに、睫が肌に触れる。ぷくりと膨らんだ雫が睫に絡む。


「なら……言ってくれれば良いのに。ちゃんと釘を刺してくれたら良いのに。オクリース様とアストラ様が言ってくれたら、私は望む姿でいるのに。――お兄ちゃんたちのために、ちゃんと、良い子でいられるのに」


 絞り出した声。加えて、とんでもない顔をオクリース様に向けている自覚はあった。それでも止められない。私を見つけてくれたオクリース少年に語りかけしまう。

 オクリース様は何も言ってくれない。頭を抱えて片手をデスクについている。


「ヴィッテ? 沈黙の魔道をかけられたように、オクリースとヴィッテの声が聞こえない」


 アストラ様の大きな手が両耳を塞いでいた私の手を掴む。熱くて、厚みのある感触。

 零れかけたものはちゃんと飲み込んだ。何でも無いように手を動かす。


「すみません。少々強く押さえ付けすぎました。これで痛くはないですか?」

「くすぐったいが、とても心地良い」


 俯いたままのアストラ様が、ぽつりと返して下さる。珍しく歯切れの悪い調子も、嬉しくて仕方がない。

 されるがままのアストラ様。いや、むしろ頭を掌に押し付けて下さるアストラ様に、口元が緩んでしまう。


「なら、よかったです」


 本音がもれてしまう。手首を掴んで俯くアストラ様が大切だと思う。記憶を上書きされることに戸惑うオクリース様も。

 オクリース様を見るに、当時の記憶を引き出すような言動は呪いを発動させるらしい。あの当時の記憶を消すために。なんとも面倒くさい術だろう。あの時、私から何もかもを奪ったくせに、随分と執念深いものだ。正しい記憶も自尊心も、全部奪ったくせに。


 オクリース様もアストラ様も崩れ落ちて、寝てしまった。


「だいすきです」


 呟いた瞬間。ふっと背後に気配を感じた。驚きはなかった。

 私の傍らに浮いているのは、紛れもなく――お姉さんだった。


――ついに、私の実態化を認識できるくらい、封印が弱くなってしまったのね。記憶が、戻ったのね――


 次の瞬間。今の私の記憶にはない、でも、確かに私だと言える幼い私が過ごした日々が怒涛の如く、脳内に流れ込んできた。恐れはなかった。


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