夜中のホットミルクと旅人
くすぐったいが、とても心地良い。抱き枕のもふもふの感触だろう。
瞼を上げると真っ暗だった。夢の中の煌めいた光景とのギャップに、視界がチカチカとする。夜目はきくほうなんだけどなぁ。
「って、あれ? 私、もしかして忘れて、ない?」
私はまだ夢の中なのだろうかと、周囲を見渡してしまう。けれど、いくら首を動かしてみても体を捻ってみても、ここは確かに私が一人で暮らしているアパートメントだ。
毛布を剥ぐと、すぐさま冷たい空気が体温を奪っていった。吐き出した息も、白い。
「さむっ」
夢の中のあたたかった花畑とは、何もかもが反対だ。気温も……人のぬくもりも。まっすぐな気持ちも、なにもかもが今とは違う。
枕元のランプをつけると、置時計の短針が夜中の2時をさしていた。
両手を突き出し、壁を探りながらなんとか窓際に近づく。カーテンをわずかに開けると、月明かりが差し込んできた。今日は満月だったっけ。
「どうしてだろう。今まで、こんなことなかったのに。ううん、こんなことなかったって思うこと自体、おかしいのに」
静かな空気の中、呟きはやけに響いた。自分の声を認識した次の瞬間、床にへたり込んでいた。えも言われぬ悲しみが胸一杯に広がっていく。
「私が亡くしていた記憶をほとんど思い出しかけている、から? 自覚してしまったから?」
悲しいのは、昔を忘れていたからじゃない。まさかアストラ様たちと出会っていたという驚きはあるが、私一人の思い出だとしても嬉しい。
「私は、絶対に好きになっちゃいけなかったんだ」
一回忘れたのに。お姉さんに消えて欲しくなくて契約して、大人たちに全部封印されて忘れた。まだ封印された時は思い出していないが、お姉さんが話していた通りになったとはわかる。
大事な人も記憶も失ったのに、私はまた同じ人に恋をしてしまった。今度は超え様がない身分の壁を認識できているにも関わらず。
「アストラ様のこと、絶対に好きになっちゃいけなかったのに……また、出会ってしまった、心を寄せてしまった」
ひゅっと。冷たい空気が喉を通って咳が止まらない。
こんな時はあたたかい物でも飲んで落ち着こう。爪先を差し込んだ靴もやはり冷たくて、ぶるっと体が震えた。
「そういえば幼い頃、夜中に目を覚ますと、姉様がこっそりあったかいミルクを飲ませてくれたっけ」
夢の記憶よりもさらに小さい頃、私は姉様と一緒に寝ていた。夜中に目を覚ましてはめそめそなく私を嫌がることもなく、姉様は手を繋いでくれたっけ。そして、内緒でホットミルクを作ってくれた。最期に垂らされる蜂蜜が、ランプに照らされてとても綺麗だった。
「しーって、唇に指をあてて。自分は猫舌なのに、一緒にあつあつのミルクを飲んでくれたな」
どうして、今まで忘れていたんだろう。
コンロの前、鍋に満たされた水がふつふつと気泡を生むのに合わせて、思い出が溢れてくる。私は姉様を怖いとだけ――姉様に嫌わられているとだけ思っていた。その姉様の冷たい視線が、色を変えていく。それだけではなく、姉様が見ていたのは……。
「いったっ!」
突然の頭痛に、思わず膝をついた。冷たい床が一気に体を冷やしていく。込み上げてきた吐き気をなんとか堪える。
たまらず、すぐそばの窓を開けてしまった。夜中に物音を立てたと焦るが、そう言えばお隣のテンプスさんも階下のエンテラさんも留守にしていたはず。
「今日は、花の甘い香りがすごい」
てっきり、開け放った窓からはとんでもない冷気が流れ込んでくると思っていた。けれど、頬を撫でたのは思いのほか優しい風と花の甘い香りだった。
それでも、やっぱり空気は冷たくて。ストールとぎゅっと握りしめてしまう。
閉じた瞼に触れる空気とわずかに開いた視界の先にある花に胸が痛んだ。
「幼い私なら、ここに花精霊が見えたんだろうな」
包み込むように、つぼみに触れてみる。当然、私の視界にはつぼみしか映らない。
「わっ!」
感傷的になっていると、突風にストールを持って行かれてしまった! 幸いストールは屋根を越えていくことはなく、ゆらゆらと地面に落ちていった。
人に見つかる前に馬車の車輪が巻き込みでもしたら大変だ!
分厚いコートは羽織り、慌てて扉を開ける。できるだけ階段が響かないように爪先で降りる。
「確か、この辺りに――」
「これ、君のかい?」
突然、柔らかい音が耳を撫でた。口調は軽いけれど、声は少し低い。静かな空気を揺るがすのではなく、そっと撫でるような声量と音だ。
顔をあげた先にいたのは、一人の男性だった。
「まさか、満月の夜に妖精にお目にかかれるなんてね」
「えぇっ?」
さすがに私でも、夜中に人気の無い道に立っている見知らぬ男性に「こんばんは」と笑いかけることはしない。しかも、分厚いとはいえ、コートの下は簡単は寝間着ワンピースのままだ。うかつだったかな。
「驚かせてしまったのならごめんね。オレは道に迷った旅人でさ」
目があった青年が、人好きされるような笑みを浮かべた。
明るい満月の明かりに照らされているのは、銀髪だろうか。蒼白く見える肌と対照的な真紅の瞳に、くらりとめまいが起きる。深い赤に吸い込まれそうになり、一歩後ずさってしまった。
「あっ! 決して、待ち伏せしていた訳じゃないんだ。迷っていたら、何か降ってきて気になって駆け寄ってみたものの、アパートメント前のベランダにある花たちの方に見惚れてしまって」
綺麗に束ねていた綺麗な髪を掻き、青年が声を高くした。が、すぐさま慌てて口を押えた。その仕草があまりに可愛らしくて――アストラ様を思い出して、笑いが零れてしまった。口調も外見も全然 違うのに不思議と似ていると思えた。
思えて、ふっと視界が暗くなった。
「私こそ、すいません。自分が落としたストールを拾って貰っておいて警戒するなんて」
「いえいえ。どう見ても怪しいのはオレだから」
青年は私を驚かせないテンポで歩み寄ってくれた。そして、程よい位置でストールを差し出してくれた。
ふわりと果実の香りがした。香水だろうか。
「じゃあ、おやすみなさい。妖精みたいなお嬢さん」
男性が足を踏み出した。肩にかけなおした荷物は確かに旅行者のものだ。数カ月前の自分と同じ。
「あっ、あの」
思わず、引き留めてしまっていた。
「迷っていらっしゃるなら、ここから出来る道案内くらいなら」
恐る恐るという口調で話しかけた私に向けられたのは、旅人さんの呆けた顔。
って、私。いくら自分が行き倒れ人だったからと言って、こんな夜中に申し出ることじゃないでしょ! あわわと右往左往してしまう。
「ははっ。ありがとう、素敵なお嬢さん。それじゃあ、宿屋街に行くにはどの道が良いかな?」
旅人さんは見かけによらない落ち着いた口調で、小さく笑った。
けれど、笑顔はとんでもない破壊力だった。アストラ様みたいに、大きな笑顔。花がぱぁっと咲いたみたいな、ひだまりの笑み。ぐっと熱いものがこみあげてきて、ごくりと息をのんだ。
「はい。まっすぐいくと噴水があります。そこを左奥に進むと小道があるので、さらに左道なりに歩いていくと、酒場の看板の奥に宿街があります」
「ん。丁寧にありがとね。お嬢さんも、あったかいものでも飲んでゆっくり寝るといいよ」
なぜだろう。鼻歌交じりに歩いていく彼の背中から、目が離せなかった。




