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漆黒の君の、そのようなところがいけ好かないのです。

「ばか、ばか。本当に馬鹿なんだから」


 それは誰に向けた言葉だったのか。

 重い扉が完全に閉まるのを確認した後、ステラは廊下にしゃがみこんでいた。


「いっそのこと泣けたなら、すっきりするものを」


 冷静で感情の薄い自分ステラは、泣き叫んで勝手な想いを叫びつけることも叶わない。


「私だって、貴方が一番幸せだと笑っていられる未来を応援したい。けれど、それを叶えるには、私はあまりに無力で――何も持たない」


 膝を抱えて呟いても、ステラの瞳からは一滴たりとも雫は零れない。乾いた瞳で、ステラは思った。


「あの少女なら、どうするだろう。指先さえ伸ばせば、全身を包み込んでもらえる可能性があると知ったなら行動に移すのだろうか」


 考えて、ステラは大きく頭を振った。ヴィッテの性格から考えて可能性は無いに等しいだろう。


「だれも満たされないのに。わたしが、周囲が、望むアストラの幸せなんて、なによりも、アストラが心から微笑んでいる未来ではないって、痛いくらい理解しているのに」


 彼女なら、大事なアストラやオクリースのため身を引くに違いない。ヴィッテが今の生活でも十分すぎると感謝しているのは、茶の場で交わした会話からも知っている。

 ただただ、幸せそうに、そして、幸福すぎる状況にちょっぴり困ったように笑うヴィッテを、ステラは知っている。

 だから、ステラは安心していられたのだ。いくらアストラが無意識にのめりこんでも、当の本人が受け入れず、分をわきまえているから。


(明日も早いわ。部屋に戻らないと。オクリースへの報告は明日でもいいわよね)


 ステラを含め、家人は別館に住まいを用意されている。アストラは本館でも構わないと拗ねたのだが、家人一同が申し出たのだ。離れとはいえ、かなり優遇された作りだ。いくど、嫌々参加した侍女の集いなるもので嫌味を言われたか知れない。

 もちろんアストラ邸の家人が自慢して回ることなどあり得ないが、噂はいくらでも漏れる。


「今戻りですか、ステラ」

「あら、漆黒の君にフォルマ様」


 膝を伸ばしたステラに近づいてきたのは、湯気を上げている小鍋を手にした参謀長と、そんな従兄を気遣って寄り添っている令嬢だった。

 いつもなら公爵家の嫡男が小鍋など運ぶなんて、と苦言を呈すところだ。今晩は、もうそんな元気はないと、ステラは不安げに眉を下げているフォルマだけに微笑んだ。

 ステラの笑みを受けたフォルマは、珍しく年相応の笑みを浮かべる。


「漆黒の君、眉間の皺がとんでもないことになっていてよ」

「……貴女は相変わらずですね」

「まぁ、なんのことでしょうか」


 にこりと音を立てたステラは、あぁ、大丈夫だと胸を撫でた。アストラに厳しい侍女であり、オクリースに冷たい態度を取れる元幼馴染でいられていると。

 鈍いアストラならまだしも、冷静沈着なオクリースを騙せているなどとは、ステラも思い上がってなどいないけれど――。


「それでも、私は、貴方の距離に甘えてしまうのです」


 ほとんど音にならなかった声。それさえも、今は呼吸を荒くするには十分だった。ステラは恭しく礼をして、彼らの横を通り過ぎた。

 フォルマは一瞬だけ腕をあげ、なにかを飲み込むかのように綺麗な指先を下した。


「フォルマ、夜食を持って先にヴィッテに嗅覚への刺激を与えてください」

「オクリースお兄様ってば、さすがです。ヴィッテには一番効果がありそうですわ」

「えぇ。ですから重要な任務をフォルマにお願いします。熱いから気を付けてくださいね」


 オクリースの言葉に、くすりと笑みを零したフォルマ。身長差のある少女に微笑んでいるオクリースは、あり得ない位、柔らかい空気を纏っている。

 ふわりとプラチナブロンドの髪を広げ小走りになったフォルマのために、ステラは踵を返し、扉の前に戻った。そして、令嬢の手にはあまる重い扉を軽く押した。

 通り過ぎ様、フォルマに投げかけられた感謝の仕草に、ステラは嬉しくなるより胸を痛めた。


「まったく。どの人もこの人も」


 アストラに繋がる人たちは皆、立場を盾にしない。

 けれど、それは仕える者にとっては至極残酷な仕打ちとなる。ある意味では、立場の違いを突きつけられるより自覚せざるを得ないから。


「ステラ。貴女が言いたいことは重々承知していますが、私はフォルマにあのままでいて欲しいと願っています」

「彼女ほど美しく聡明であれば、爵位など関係なく欲する者は多いでしょう。従兄としては、ありのままの彼女を受け入れてくれる殿方に娶られて欲しいということかしら」

「はい。貴女が言う通りですよ。あと、きちんと休んでください。とてもひどい顔です」


 すれ違いざまにオクリースに肩を軽く叩かれた。ステラは思わず、その手を掴んでいた。


「ひとつ、報告しておきます。アストラ様は何らかの精神魔術をかけられている可能性がありますわ。あくまでも、私の予想と直感の範囲ですけれど。大した意味があるとは思えない術ですが、きっとアストラ様の()()()()()には大きな影響を及ぼしているのかと」

「さすがステラですね」

「驚きませんのね。いえ、貴方とクーロー医師が時間をかけてお話されているのですから、当然気が付かれていらっしゃると考える方が自然ですわ。いち侍女が失礼いたしました」


 ステラはオクリースの手を離し、そのまま腹の少し下で手を組む。そして、深々と腰を倒した。


「ステラらしくない距離の取り方ですね。私たちがどれほど貴女の目を知っているかを理解しているでしょうに」

「――漆黒の君の、そのようなところがいけ好かないのです」


 学生時代、何度彼に同じ思いをさせられたことか。ステラが目を三角にして睨めば、オクリースは満足したように薄く笑った。

 が、オクリースは次第に笑いを堪えきれなくなったようで、ついには背を丸めて小刻みに体を揺らし始めた。彼も、学生時代に戻ったような懐かしさを感じたからに他ならない。

 それでも、すぐに咳払いをして今の自分に戻る。


「そのあたりも、クーロー医師から興味深い話が聞けました。私にも関係していることのようですが――詳細は後程。ありがとうございました」


 オクリースは礼を述べる。それがうわべないのはステラにはわかった。全面的に信用されているのだと。

 扉が閉まるのと同時、ステラの瞳から大粒の涙が零れ落ち始める。嗚咽が漏れる。蹲って身動きが取れない。


「ひどい、ひどい。貴方たちはひどい」


 端正な顔立ちから紡がれる冷たい声。嫌味にもとられかねない台詞も、幼馴染の彼らは額面通りに受け入れてくれる。存在を無視しない。

 薄い表情の裏にも、オクリースが何かに緊張しているのは伝わってきた。そんな心境であるにも関わらず、ステラの小さな動揺も見逃さず彼なりの優しさを向けてくる。


「いっそのこと、内情など知れない立場に追い込んでくれれば良いのに」


 何度、扉に背をぶつけても、重い扉が軋むことはない。

 あぁ。この背にある冷たい感触は超えられない壁そのものだと、ステラは口の中を噛んだ。であるのに、漏れ聞こえてくる音だけはちゃんと捉えられるような立場に、ステラは顔を覆うしかなかった。


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