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貴方だけはヴィッテを忘れていて。残酷な魔女の、残酷なお願い。

アストラ寄りの三人称です。

 キングサイズのベッドに横たわるヴィッテの頬は蒼白だ。

 反して、吐く息はとても熱い。淡水色の寝巻に包まれた胸は、大きく上下している。


「辛そうだな、ヴィッテ。馬車に乗る直前にメミニ君から聞いた話だと、軽くうなされる程度のはずだが……どんどん身体的症状が出てきている」


 ベッドの縁に腰かけているアストラの指が、遠慮がちにヴィッテの額を撫でる。

 拍子に、額に溜まっていた汗粒がころりとアストラの指を流れた。

 なんでもない、自然な現象。であるにも関わらず、アストラの喉が鳴った。


「ヴィッテ」


 名だけを呼ぶ。ヴィッテがぴくりと動いた。そうしてまた、汗がアストラの肌を滑る。

 いつもなら得体の知れない感情が込み上げた瞬間、手を離してる。なのに、今日はどうしてかさらに触れてしまう。


「ヴィッテ」

「お願い、もっと」

「――っ」


 零れ落ちた音色に、アストラは体を硬直させた。けれど、すぐにくしゃりと瞳を潰して、掌を彼女の頬に押し付けていた。拒否はない。

 すかさず掌に擦り寄ってきた体温に、呼吸が乱れて仕方がない。


「どうせ、父親と間違えているのだろうな」


 どうせ、とは。

 反芻して、すぐさまアストラは大きく頭を振った。俺の口から零れ落ちた声は、まるで――。飲み込むべき言葉は、ほろりと落ちる。


「まるで、嫉妬ではないか。男としての」


 そんなはずはないと、アストラは己の親指をヴィッテの唇に押し付ける。ふにっと柔らかさに沈む指先。わずかに開いた隙間に埋まる肌。触れたのは堅さと柔らかさ。


「んっ」


 途端、アストラの全身に電撃が走った。甘い痛みに、今度こそ手が弾け上がった。

 目の前に横たわっているのは、いつものようにどこか一線を引いているようなヴィッテだ。苦しそうなのに、それを隠そうとする空気を纏う。

 けれど、だからこそ、幻と思えた触れあいに脳が痺れる。痺れを思い出そうとして、全身がうずく。アストラ自身は拒否しているのに、それでも聴覚、触覚、視覚が暴れる。


「ヴィッテ。俺はどうしたらいいのだろう。俺は己の道に絶望することはあっても、迷うことなどなかったのに……。君を前にすると、極端だと自覚がある感情が定まらないのだ。肯定と否定が浮かんで、結局ことなかれな方を選択してしまう」


 いつだってアストラの感情は単純明快だった。純粋に尊敬する先生を目標に突き進んでいた少年時代。戦争に赴いて、国の為に戦いに明け暮れた青年時代。

 だからこそ、生に絶望し、やさぐれた。あまりにも純粋な本質が変らないから。

 そんなアストラの人生の中、力強くそれでいて儚げに現れたヴィッテ。王命と別にして、ヴィッテは確かに庇護したくなる。

 であるのに、彼女に関してだけは、アストラは白黒つけられずにいる。


「あすとら、さま。――おひさまの、おにいちゃん」


 アストラの苦みなど知らないと言わんばかりに、ヴィッテの口元はわずかに緩む。

 どうしてだろうと、アストラは両手で顔を覆った。嬉しいはずなのに、彼女の声と自分の感情に溝がある気がして悲しい。優しい呼びかけなのに、胸が締め付けられて、苦しくてしょうがない。沈痛だけが、広がる。どれだけ考えても、答えとなる可能性すら浮かばない。


「それでも、俺は君を離しがたいのだ。いや、この手で掴んでいたい」


 呟いて、視界がぱぁっと光を抱いた。

 が、すぐに薄い膜のベールが眼前に広がる。落ちる瞼。その瞼を撫でるのは白いもやの幽霊。


――ごめんなさい。貴方が幼い頃からヴィッテを愛しんでくれているのは知っているの。でも、許せない。貴方も。私の愛する魂と同じく、貴方たちも簡単に私たちを忘れてしまったから。貴方が一番可能性が高いの。私からヴィッテを奪う可能性が――


 アストラがうとっと頭を垂れかけたのと同時、ドアを鳴らす硬い音が響いた。はっと顔があがり急激に襲ってきた眠気が嘘のように晴れた。

 返事がなかったからだろう。もう一度、四回ノックが響く。


「入れ」

「アストラ様、失礼いたします」

「なんだ、ステラか」


 背後から掛けられた声に、アストラは疲れを隠さずに応えた。

 姿を現したのは見目麗しい侍女。長身で、すっとした目元が印象的な美人だ。きちっとした侍女服を身に纏い、豊かな髪をしっかりと結っている。


「外は、雨が激しくなってきました。暖炉に火を入れませんと」

「気が付かなかったが、言われてみれば雨音がひどいな。けれど、火はいい。ヴィッテは暑そうだ」


 アストラはまた、ヴィッテの前髪を除けて甘く微笑んだ。無自覚に。


*************


 魔術騎士団の制服の胸元を崩してベッドに腰かけている主を、ステラは叱ることはなかった。

 ただトレイに乗せた水を無言で差し出す。アストラが受け取ったのを確認した後、雨を招き入れていたテラス窓を閉めてカーテンをひいた。


「ヴィッテ様を初めて運び込んだ日を思い出しますわ」

「あの日から、ここはヴィッテのために空けているからな」


 アストラが見渡した部屋は、数カ月前までは単なる客間だった場所だ。それが今や飾りっ気のない主が住まう屋敷とは思えない、女性らしい小物が揃えられている。それでいて『趣味が良い』と思える居心地の良さがある。

 アストラはうっそりと笑った。ヴィッテの後見人となってしばらくした後、客間の家具を見繕って欲しいと言ってコーディネートさせた部屋だからだ。自分の部屋になるとも知らず、ヴィッテは熱心に取り組んでくれた。


「なっなんだ、その目は! 後見人として、屋敷で諸々報告を受ける際に泊まって貰ってもらうための部屋なのだ。問題はなかろう」

「……私は何も申し上げておりません。それにヴィッテ様に関する報告は公的記録を残す必要がございます。調書に纏める聞き取りを団内や彼女の家で状況報告行うわけにはいかないのを存じております。報告の場の裏には、あの方がいらっしゃねばなりませぬもの。承認として」

「お前、俺が提示した問題から微妙にずれた回答をしたな。目が語っているぞ。『そもそも泊まる必要がない』とな」


 アストラがぶすりと口端を落として睨んでも、ステラは涼しい顔で微笑んだ。いや、ふんと鼻を鳴らしたように見えた。

 主従としては無礼極まりないが、アストラが咎めることはない。むしろ勝てないとばかりに肩を落としてしまう。

 完全に項垂れたアストラを見て、ステラの胸奥がわずかに踊る。


「んっ」


 けれど、アストラの視線は、すぐさま小さく唸った少女に戻ってしまう。

 ヴィッテの肌に張り付いている髪を指で掬うアストラ。わずかにでも涼しくなったのか。それとも、アストラの体温を感じたからなのか。ヴィッテの眉が少しだけ下がった。


「あすと、ら、さま」


 まるでアストラのぬくもりを追うように頭を動かしたヴィッテ。手は自分の腹の上でしかりと握られているのに。

 日ごろなら、愛しさが溢れ頬がだらしなく緩むのに――今は得体の知れない熱がアストラを染める。離した手で口元を覆っても、動悸は治まらない。


(熱い。体じゃなくて、喉が、頭が、胸が)


 ステラが隣に並んだのにさえ気付かないアストラ。

 彼は、ただ激しく跳ねる胸元を掴む。そうして、余計に己の鼓動の激しさを自覚してしまった。体を突き破りそうな高揚感。そして、混じる不安。得た喜びよりも、失う恐怖。


「――ラ様。アストラ様、聞こえていらっしゃいますか?」


 ひやりと、水を浴びせられたような冷たい音に、アストラは我に返る。


「あっ、あぁ。それにしても、オクリースの奴は遅いな。クーローとの話が長引いているのだろうか」


 すぐにアストラの思考は眠る少女に関連したことに移った。青より少し薄い天色の瞳は、もうヴィッテしか映していない。

 ステラは腹の前で軽く組んだ手に力を込める。いつもなら、アストラは「どうしたのだ」と声をかける仕草だ。それほどに、ステラの主は人の気持ちに敏感なのだ。それがたった一人の意識する少女がいるだけで、覆ってしまう。


「ご心配には及びません」


 そんなアストラなど見ていたくない。

 ステラは唇を噛む。彼はいつだってステラにとって尊敬して追いかける存在でいて欲しいから。


「ウィオラケウス家の主治医のお一人、何よりアストラ様を良くご存じのクーロー医師です。加えて、フィオーレが誇る魔術の使い手である漆黒の君が治療にあたったのです。何を危惧することがありましょうか」


 クーロー医師は、ウィオラケウス家おかかえ医師の中でも、特にアストラに近い存在だ。出会った頃、ちょうどアストラと似た年齢の息子を亡くしたこともあるせいか、定期的な診察の合間に、何かと話を聞いてくれたり世話を焼いてくれたりした。

 かといって、己の分からはみ出るわけでもなくアストラを見守ってくれている人物だ。


「ステラの言う通りだな。オクリースがヴィッテの治療に割り込んだ際はどうなるかと焦ったが。結局、魔術を使役できないヴィッテが、魔術騎士団に溢れている魔術を体に蓄積してしまい、魔術酔いを起こしているという結論で安心した。原因がわかれば対応はできるからな」


 早口で空気を揺らしたアストラの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるような音だった。

 腕を組み頷くアストラの隣に立っていたステラは、主の目も憚らず深い溜息を落とした。


(私の主人は勢いで生きているような印象を受けるけれども、その実、繊細で思慮深いと考えている。ずっと前から、知っている。普段の彼なら、いくら敬愛する医師の診断であっても、自分の判断と目の前の少女の状態を加味してから、結論付けるはずだわ)


 己の役割を知られるのが怖いと感じる程度に心を寄せる少女なら殊更だ。

 だからステラは逆に危惧してしまうのだ。アストラの感情を抜きにしても、この状態は良くないと。保護者が近い故に、この状態の本当に原因を見失ってしまうのではと。

 だが、ステラ個人にとっては正直――出会ってたった数ヶ月の少女に過ぎない。


(アストラを救ってくれたという感謝はある。妹のスウィンが可愛がっている店子たなこでもある。私個人としても、健気に生きてきた可愛い子とは思うわ。それでも、アストラの邪魔になるなら、貴女は――いらない)


 もう一度、ステラの溜息が空気を揺らす。重く、重く。


「なっなんだ? お前、本当にどうした」


 びくりと、アストラの体が跳ねた。

 王宮の重鎮と向き合っても、騎士団や魔術師団の幹部に睨まれても動じないアストラだが、隣で背を伸ばしている侍女にはどうにもかなわない。


「アストラ様がつきっきりで看病する少女です。クーロー医師も、漆黒の君と最善の治療についてのお話に白熱していらっしゃるのでしょう、と考えていただけです」

「そうだな! フォルマも、食いしん坊のヴィッテが目覚めた時にと、食べやすいリゾットを作ると張り切っているんだしな! 俺も、じっとしているわけにはいかないか!」


 ステラの言葉を真に受けたわけでもなかろうに。汗を額に浮かべたアストラが立ち上がった。


「やだ」


 舌ったらずな声と共に、くいっと長い上着の裾が引かれた。


「もう、やだよ。とおくに、いっちゃ、やだ。おいてかないで」


 滅多に、というか耳にしたことがないヴィッテの甘える願い。しかも敬語ではないから、素のヴィッテが縋ってくれたと、アストラは思った。

 思って、もやがかった記憶が一気に流れた。肝心な部分は何一つ見えない記憶の波。


(なんだこれ。先生の庭園に、屋台、それに知らない花畑。どこにも、愛しさが溢れてくる。俺の手を握り、抱きついてくる存在。そして、手を引いてくれたのは小さなぬくもり)


 アストラは己の掌を見つめる。触れるものなど何もないにも関わらず、小さくて無垢な熱を感じたのだ。

 さらに幻を見た。その幼い手を握り返す少年時代の自分の手。


――思い出さないで。憎しみからではないの――


 アストラは頭を抱える。ひどい頭痛だ。吐き気をもよおして、思わずベッドに腰を下ろす。

 どこかで聞き覚えのある音だと思った。


――貴方はヴィッテの大事な人だから。とてもとても大切な男性だから。貴方が思い出せば、全部の均衡が崩れてしまう。私とあの人、ヴィッテと貴方。だから、お願い。貴方だけはヴィッテを忘れていて。残酷な魔女の、残酷なお願い――


 ぴしりと体をかためつつ、視線を落としたアストラ。正直、幻聴だと思った。自分がヴィッテに大切にされているのは承知しているものの、『とてもとても大切な男性』が称されるなど。と、考えて、さらに悶えた。『男性』と、言われた気がしたのが堪らなく恥ずかしかった。

 それにつられステラも冷静な瞳を下へと向けた。そして、すぐさま、隣の主を映した。映して、ステラの中に確信が生まれた。


「アストラ様、駄目です」


 頭で考えるより先に、諫めの言葉が発せられていた。


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