甘えて欲しいと思うのは俺の我が儘なのだろうか。
私がアストラ邸に運ばれた際の懸念事項なんていくらでも思い浮かぶ。
このままアストラ様の屋敷を訪れれば、一晩お世話になることは間違いない。しかも、横抱きにされている状況なんて、おまけつき。
どんなに人目を避けていても、噂は立つものだ。私の顔色が最悪だったなんて事実は省かれて。妊娠だのどうだの、いくらでも尾ひれが付く。
「アストラ様、待って、ください」
必死の思いで、アストラ様の上着の襟を掴む。ありったけの力のせいか、鼻先が近づく。
だが、そんなこと気にしている場合じゃない。
私は、アストラ様のお荷物にはなりたくない。それを願うのは、前みたいな卑下の感情からじゃない。
私、まだアストラ様の傍にいたい。一緒にいたいだけじゃない。私は臨職だからずっとは無理だけど、可能な限り長く魔術騎士団で働きたい。
そのためなら、階下のエンテラさんに習っている行儀作法も、アクティさんの居酒屋を手伝って色んな言語のなまりに慣れる機会も増やす。王立図書館での勉強も。
前は迷惑になりたくないってソレだけだったけれど、今は違う。近くで彼の力になりたい。微力でも、彼が進む助けになりたい。
けれど、それだってアストラ様の傍にいるのが前提だ。
「私、あなたの――」
傍にいたい。その一言が音にならない。
おずっと伸ばした手はきつく握られた。それだけで、アストラ様の気持ちが伝わってくる。伸ばした手を掴んでくれる人がいる。
それだけで、すごく幸せだと思える。思えるようにしてくれたのは、他でもない、ここにいる人たちだ。
「ヴィッテが考えていることは、痛いほど理解できる。君が抱えているものを想像した上で、甘えて欲しいと思うのは俺の我が儘なのだろうか。どうしてか、君を幼子のように守らなければと思うのだよ」
額に触れるぬくもりと堅さ。肌に触れる吐息がそよ風みたいだ。
私が否定する理由はない。それでも、自分の意思とは違う。彼の言葉に甘えていい理由にはならない。
――幼子のように、ね。記憶はなくとも、彼のあなたへの印象はソコで止まっているのかもしれないわね。だからこそ、彼はあなたを庇護しようとするのかも――
遠くに聞こえた幽霊の声。幻聴だと思わない私はおかしいのかな。
うん、わかっているよ。ちゃんとわかっている。アストラ様が私に向けてくれる感情は、あくまでも保護者的なものだもの。そこは勘違いしてないよ。ただ、私が慕っているだけ。
「僕に対する当てつけですか」
やや後方。耳に入ってきたのがスチュアートの声だと認識するより早く、肩を抱いてくださる手に力が入った。ぞわりと逆立つ心を、私より早く察してくれたみたいな錯覚に陥ってしまう。
「君の好きに取るがいい。しかし、そもそもこんな状態のヴィッテを前にして、感情の向けどころがそこでは、ますます彼女の傍にいて欲しくはないな」
「貴方が知らないだけだ! 昔から、ヴィッテは興奮した後に体調を崩すのは珍しいことじゃなかった! 確かに久しぶりだけど、貴方が知らないヴィッテを、僕は知っているから少し落ち着いているんだ!」
どんな理屈なのと突っ込んであげる元気はない。
代わりにというようにメミニの手が離れ、靴音が響いた。薄らと目を開くと、メミニが思いっきりスチュアートの頭を叩いたところだった。
「ばかっ! 珍しいことではないけど、ヴィッテがしんどくない訳じゃないっての! あんたって、ほんと話がかみ合わないわね!」
「メミニ君の言う通りだな。君はそもそもの論点が違う」
感情をかみ殺すような声。アストラ様が、王宮の人や魔術騎士団を貶めようとする人と接する時の低い音だ。
額に唇が触れているのを感じながら、私の中に、ふっと忘れていた記憶が蘇った。
瞼の裏に浮かんだ映像。それは、フィオーレに向かう道中、山賊に襲われたものだ。響く叫び。馬の嘶き。連れ込まれた洞の中、座り込む私に伸ばされる太い指。荒れた指が首を擦って、そして――頭に響いた『懐かしい』おねえさんの囁き。
なんで今、思い出しているんだろう。
「アストラ、落ち着きなさい」
「そっそうですよ、大人げない人だ」
オクリース様の諫めを自分に良いように解釈したようだ。スチュアートがふんと鼻を鳴らす。
「……抱いているヴィッテに殺気が伝わっているようですよ。小さく震えているではないですか」
「ヴィッテ、すまなかった。意識はないかもしれないが、怖がらせてしまったか」
蘇った記憶のせいだろう。初めて耳にしたアストラ様の声は、死神と勘違いするほど硬
く冷たかったっけと思い出した。
もう私の中にあるアストラ様といえば、お日様みたいに明るくって、時に焦ってうわずっているっていう印象だ。そして、いつだって色んな人に囲まれている中から聞こえる。
フィオーレに来てたった数カ月なのに、もうここは確実に私の居場所になっているのだと実感する。そして、熱いものが肌を滑った。
「泣かないでくれ。君にそんな風に俺の声が届かないところで泣かれると、どうしていいのかわからないのだ。どうしてか、ずっと昔から悔やんでいるのだと思えてならないのだよ」
違うんです、アストラ様。私、悲しいから泣いているのではないんです。
寝ていると承知の上で、私に語り掛けてくれるアストラ様に胸が熱くなっているんです。この感情は一体なに? 慕う以上に、どんな気持ちがあるのだろう。
「フォルマも、そのような表情は貴女には似合いませんよ?」
「オクリース兄様。私、わからないのです。わからないけれど、今のヴィッテとアストラ様を見ていると、とてももどかしいのです」
しゃらんと、鈴の音が鳴る。きっと、アクティさんのお店の扉につけられた鈴だろう。ついで石畳を削るような足音に、なんとか瞼を持ち上げてみる。
すると、わずかな隙間にいたのは、柄にもなく大股で歩くアストラ様と、スチュアートを睨みあげているフォルマがいた。
「スチュアート様。わたくし、ヴィッテから彼女の身の上や故郷での話は、多少なりとも聞いております。もちろん、故郷を離れることになったきっかけも」
「そうなのか。なら、誤解が生じないように言わせてもらいたい。僕は彼女の姉である、でも似てもにつかない悪女のサスラに騙されたんだ。ヴィッテを想う心を利用されて。まぁ、それも聞いているだろうけど?」
確かに姉様は家財を持って出て行ってしまったのは事実だ。それによって母様が弱り、家人も職を失ってしまった。
なのに、姉様を悪女なんて称して欲しくない自分がいる。とても昔だけれど。それこそ、私の妄想かもだけれど。ある時期までは、とても優しい姉様だった覚えもあるから。きっと、姉様を変えてしまったのは、内向的に変ってしまった自分のせいもあるのだ。
「貴方が何をおっしゃっているのか、到底、理解不能ですわ。貴方は本当にヴィッテを見てきたの? ヴィッテを好きだったの?」
フォルマの静かな声が店に響いた。沈黙が広がる店。耳に入るのは、外の石道を叩き始めた雨音だけだ。
日ごろなら、フィオーレに溢れる緑が喜んでいるなとか、うちの花精霊さんはどんな様子でいるのかなって想像する天気だ。
「は? すみません、僕は貴女の言葉の方が理解不能だ」
「ヴィッテはご両親の死を悲しむことはあっても、ご両親を亡くしたきっかけを悔やんでも。ずっと、貴方と姉のことで悩んでいましたわ。気にかけていたわ」
「それは、僕がずっとヴィッテを想っていたのに、突然姉と駆け落ちしたからでしょう。僕だって、ヴィッテが一人で異国に渡ったと耳にした時は、心臓が止まるかと思ったさ。だから心配をかけたのはお互い様。まったく、ヴィッテも無茶をするよ」
ため息交じりにスチュアートがぼやいた。
おかしいな。スチュアートってこんなにも話が通じない人だったっけ。朦朧とした意識の中でもはっきりとわかる位、彼はここにいる誰とも会話がかみ合っていない。
「貴方はヴィッテのご両親が他界していること、それに彼女自身がフィオーレに渡ったことをどのような経由で知ったのでしょうか」
沈黙していたオクリース様が、ゆっくりと尋ねた。言葉尻は疑問系だけれど、きっと違う。オクリース様がこんな口振りをするのは、確証がある上で確認しているだけ。
なのに、スチュアートは鼻で笑う。
「故郷に連絡をとったからに決まっているじゃないですか。最後にサスラと滞在していた国は魔法が盛んだったから、魔法通信を通じて家の者に我が家とヴィッテの状況を確認しましたよ」
「へぇ。あんたが言うところの『婚約者』の姉と駆け落ちしておいて、数カ月でのこのこと実家に助けを求めたってわけかい」
アクティさんの声だろう。飄々とした語調だけれど、心底の呆れが滲み出ている。
ばんと、壁か何かが打ち鳴らされる音が耳を痛めた。
「失敬な! 僕は子爵家の跡取りなんだぞ! 親だって心配しているに違いないとは思っていたし、一人息子の僕が戻った方が養子を迎えるより断然良いに決まっている! 実際、父だって早急に戻って来るよう言ってくれたんだ!」
「ほぅほぅ。パパのお許しが出たんなら、大人しく故郷に戻ったら良かっただろうにねぇ」
アクティさんだろう。嫌味だと気が付かないのか、スチュアートは当たり前だと言わんばかりにため息を吐く。
「言われなくても、ヴィッテを連れて帰るさ」
びくりとアストラ様の体が跳ねた、気がした。支えられて触れられている部分が、ぎゅっと締め付けられた。痛いほどの力に、閉じかけていた瞼が持ち上がる。
揺れる視界の中、アストラ様と目があった。長い前髪の隙間から覗いたのは、見たことがないような色の瞳だった。
「あすとら、さま?」
怖い。
けれど、私がそう思った次の瞬間には、アストラ様の眉が下がり困り笑顔に変わっていた。
「すまない、ヴィッテ。やかましくして起こしてしまった。すぐ俺の屋敷に連れていく」
けだるさを我慢して反対側に顔を向ければ、オクリース様の背中があった。そのさらに向こう側には、怯みながらも私を見ようとしているスチュアートがいた。
「ヴィッテは僕と故郷に帰りたがっているに違いない。っていうか、さっきからなんだよ。大人数で寄ってたかって。騎士が恥ずかしくないのか!」
自分が魔術騎士団に押しかけて迷惑をかけたのは棚に上げてしまうんだね。色々言いたいことはあるけれど、そろそろ本当に限界みたいだ。
まどろみに手招きをされている。
「貴方は先ほどから、自分の話しかしていないわ。ヴィッテのことを少しでも想っているなら、彼女の状態を優先させるべきでしてよ。貴方、聞いていればずっと『違いない』とか『決まっている』とおっしゃっていますもの。一度冷静になってから出直していらっしゃいな」
珍しく感情が高ぶっていたフォルマも疲れたのだろう。ため息が落ちた。
私と言えば、震える指でアストラ様の服を掴んでいた。スチュアートにどう思われていようと良い。けれど、アストラ様に誤解されるのは嫌だ。
「スチュアートと一緒にいたいのでは、なくて。私は、ただ、アストラ様たちに、ご迷惑をかけるのが嫌で、だから、自分の家にって」
「なら問題ない。だれも迷惑などと思っていないのだから」
柔らかいアストラ様の語りかけに、全身から力が抜けていく。
代わりにと感情が溢れてくる。弱っているせいだ。おかしいな。アストラ様とオクリース様に拾われて目覚めた夜も、フィオーレに来たばかりで寝込んだ日も、寂しさなんて抱かなかったのに。
……違う。すでにその時から、私は一人じゃなかった。もう、一人じゃなかった。
「私、一人じゃ、ないですか? たよっても、いいですか? ここに――いても、いい?」
「――っ」
あぁ、敬語を使うのを忘れてしまった。うわごとの願いは口から出てしまう。零れてしまった。きっと体調不良のせいだ。
ぐっと体が持ち上げられる感覚。驚く暇もなく、額に柔らかいものが触れた。
「あたりまえだ」
なんでだろう。アストラ様の声が何かを我慢しているみたいな、苦しいものに聞こえている。ごめんなさい。もう思考がまわらない。
「うれ、しいな」
ただ、そう思った。頬が緩んだ。アストラ様のたくましい腕に全身をゆだねるだけじゃなくって、肩口に擦り寄ってしまう。
ごめんなさい、ごめんなさい。次、目が覚めた時はちゃんと分別をつけるから。覚えていないって言って、なかったことにしますから。今だけは許してください。
「なっ! ヴィッテ、待ってよ。僕の話も聞いてくれ!」
「無論、話は聞こう。確かにこの場は君にとってフェアじゃないからな。ヴィッテの体調が回復しだい、改めて機会を設ける」
「そんなことを言って、ヴィッテを軟禁でもして会わせない気じゃ」
なんて失礼なことを。アストラ様はとても誠実な人なのに。騎士服を着崩したりはしているけど、本当に騎士らしくて人望もあるんだからねって言いたい。
「スチュアートと言いましたね。貴方が疑念を抱くのも無理ない状況です。けれど、アストラは王直轄の魔術騎士団の最高責任者です。それ以上の言葉は、我が団への亡状とみなします。私的な問題が含まれているとはいえ、再三申し上げた通り、ヴィッテは我が団の一員であり、その身元保証人は司令官であるアストラなのですから」
オクリース様の言葉に黙り込んだスチュアート。
「スチュアート、大丈夫。わたしも、ちゃんと、聞かないとって、思ってる」
私もスチュアートと向き合わないと駄目だ。前に進まないといけない。
それだけじゃない。私は思い出した、そして蘇りつつある記憶を受け入れなければならない。
覚悟を決めた直後、すとんと意識が落ちた。




