ごめんね、ヴィッテの魂にとりついてごめんね―魔女の回想―
目を開いた次の瞬間、アクアは広がっている光景に呆気に取られた。
眼前に広がるのは、息を呑むほど美しい青のグラデーション。空が反転しているのかと見間違えるほど鮮やかな魔法花の畑だ。
眩しすぎる光景に、アクアはそっと瞼を閉じた。胸の痛みと反して、閉じた瞼の裏に映ったのはとてもあたたかい思い出だ。
幼いアクアが、大事な人たちと屈託ない様子で笑っているのだ。
「もう、思い出せないと思っていたのに」
アクアが零した呟きは、幾年ぶりかに聞いたはっきりとした音をしていた。
「私、一体どうしてしまったの?」
穏やかな風が、伏せた長い睫毛を揺らす。
覚えているような、そうでないような『生きている』感覚に、アクアの両肩が震える。
「抜けるような青い空と、無限に広がる花畑。あの人が私のために育ててくれた、ううん、一緒に育た秘密の場所だ」
薄青の色彩の絨毯は、遠くに行くほど不思議な藤色に変っている。
立ち竦むアクア。視界に入る真っ白なワンピースの裾が、おぼろげになる意識を保たせてくれた。夢と現実を教えてくれるように。
穏やかな空気と裏腹に、アクアの拳は震えるほどきつく握られた。
「どうして、今の今になって、――との思い出の場所にいるのよ!」
アクアは空に向かって大声で叫んだ。
アクアを現世へと縛り付ける男性の名。でも、叫んでいるはずなのに、名前はわからない。言葉は出ているはずなのに、そこだけノイズがかかっている。大事だと胸は騒ぐのに、肝心なことはなにひとつ、わからない。
「死んだのに、生きているみたいな状態の次は、なくした優しさを突きつけられて、それがなくしたものだって自覚させられて。どうして……どうして。こんな中途半端に存在するくらいなら、いっそのこと本当の魔女にでもなってしまえば良かった!」
生前から魔力が強かったアクアには、ここが本物の花畑ではなく、魔力が作り出した異空間であることは理解できた。
そして、一連の流れから自分の墓を綺麗にしてくれた女性の腹の中(というのは正確ではないかもしれないが)であることも、なんとなく察することができる。
「今更、なんで! ひとりぼっちなら、ずっと荒野の方がよかったわ! ひとりなら、中途半端にあたたかい場所になんていたくない!」
見上げた大空は真っ青だ。そこに、柔らかい白い雲を浮かべている。視界がぐみゃりと歪んでもなお、深い青空は褪せない。ほつりと、あたたかい雫が彼女の涙に混ざった。
――おねえさん、ごめんね。わたしが、おねえさんとなかよくなりたいって願ったら、かあさまの中に、わたしのとこにひっぱっちゃってた――
空から降り注ぐように聞こえた声。舌ったらずで甘い音をしている。
その声が自分に掛けられているものだと認識するのに、たっぷりとした時間がかかった。異空間だとわかっているのに、きょろきょろと周囲を見渡してしまう。
そうして、理解した途端こんこんと涙が溢れてきた。自分を視てくれている声。はっきりと自分にかけられる言葉。生前でさえ、多くなかったこと。
――わっわ! なっ泣かないで、おねえさん! えっと、アクア・ヴィッテおねえさん――
「わ、たし」
掠れた声で呟いた。呟いて、全身が一気に震えだした。ないはずの肉体が痛んだ。
「名前、そう、私の名前」
自分で名乗っておきながら、名前が呼ばれたと理解し、アクアは膝から崩れ落ちていた。
――おねえさん! ごめんね、わたしが急にはなしかけちゃったから、びっくりしちゃった?――
「ごめんなさい、違うの」
地面についたアクアの膝を、小さな花がくすぐってくる。
「違うの、私と同じ名前をもつ子」
――おなじ名前の子かぁー。さっきもいったけど、かあさまやとうさま、それにねえさまは、わたしのこと『ヴィッテ』って呼ぶよ!――
どこか誇らしげな声に、アクアは小さく笑った。姿が見えないのに、声の主がどんな表情でどんな仕草でいるかが想像できた。
――おねえさんはアクアって呼ばれてたんだよね?――
「えぇ」
――じゃあ、わたしとアクアおねえさんとで、ひとつだね! ふたりで、アクア・ヴィッテだ!――
「――っ」
アクア自身、何に震えたのかはわからなかった。ただ、今、全身鳥肌がたっているのは事実だった。存在を肯定してもらえたように感じた。
ヴィッテの無邪気さに救われた気がしたことなのか。大事そうに――自分の名を、愛称を呼ばれたことになのか。かつて、ヴィッテと同じ言葉をくれた人を想ってか。
それはアクア自身にもわからなかった。
「あぁ、熱い。熱いって感じる。この涙を」
止まりかけていた熱いものが、アクアの喉を焼く。まるで、なくした大切な人が呼んでくれているような錯覚に陥った。
――わたしね、おねえさんのおなまえ聞く前から、なんかおねえさんとはいっしょー! って思ってね、おはなしをしたいって思ったら、おねえさんがおなまえおしえてくれてね、えーと、うれしかったの!――
ヴィッテのように、魂の時から意思や世界の知識を持つ特別な存在は稀にいる。
そんな魔術的な知識はアクアにもあった。それは、多くはないが生まれ変わりが約束された『魂の輪廻』というものらしい。
もしかするとヴィッテは、自分より先にいなくなってしまった自分の腹の中の――。
いやと、アクアは大きく髪を舞わせた。自分がなくした存在と直結させるのは、いくらなんでも妄想も良いところの話だ。
冷静になれと、アクアは自分の胸元を掴む。
「もう、アクアと呼んでくれる人はいないから、すごく嬉しかった」
――えー? なんでいないの?――
「それも全部、私のせいなの」
――なんでおねえさんのせいなのさ――
純粋に問われて、彼女の中にずっとあったはずの答えが、はじめてすとんと落ちてきた。 ずっとずっと、浴びせられてきた非難と中傷の言葉は、いつの間にか彼女の真実になっていた。
彼女は顔を覆っていた手をおろし、空を見つめる。口が開いては閉じ、閉じては開く。その度、体に流れ込んでくる空気が全身の感覚を蘇らせてくれた。
おかしいの、と心の中で小さく笑った。現実世界よりも、この異空間での方が生きていると感じられるようになっていたから。
「私はね」
――うん!――
間髪入れずに返って来た声が、どうしてか、たまらなく嬉しかった。自分の言葉に耳を傾けてくれる。興味を持って。また、昔を思い出した。
「私は物心つく前から、強すぎる魔力を制御もできずいつも迷惑をかけていたの。私が生まれた国はとても魔法――魔術が盛んな国で、なおかつ特殊な力を持つ人種ばかりがいた国だったの。私はそんな一族の中でも、特に変わっていた能力を持っていたらしいの」
らしい、というのはアクア自身が母国を知らないからだ。
「私は赤子の頃から、自分の親や親族を殺した国で育てられていた。周りが私の血を利用しようとしていることも、そのくせ、目の上のたんこぶだと思っている人がいることも知っていた。母国の復讐を成し遂げろと、無責任にささやく人物もいたわ」
アクアは、物心ついた時にすでに敵国にいた。自分の国を滅ぼし、戦利品として赤ん坊のアクアを連れ去った大国フィオーレの王の加護の元に。
けれど、アクア自身は恨めしいとは思ったことはなかった。
母も父も、ましてや国も知らない。
王宮の片隅に隔離されていたが、特段ひどい扱いを受けた覚えはなかった。
母国からともに来たという付き人たちにも、目に余る仕打ちをされていた記憶はなかったからだ。
母国は、人々が慎ましく平和に生きていた小国だった。アクアの付き人は事あるごとに寂し気に語ったものだ。
不幸だったのは、当時勢力を拡大していたフィオーレの王が、見え麗しく賢いアクアの母に目をつけてしまったことだったとか。
結局、アクアの母は自害し、王や国と共に散った。そして、赤子だったアクアは、ゆくゆくは王の妾となるべく、数人の付き人と共に命をながらえたらしい。付き人が故国の人間だったのは、アクアが持つ特殊な魔力に対処するためだったとか。
「物心ついても、私はたいして不満を抱かなかった。王宮のはずれに隔離されているのだって、私にとっては日常だったから。年老いた王の妾になることにも、疑問を抱いていなかった。あの少年と出会って、少しずつ育った恋に気が付いてしまうまでは」
今思えば、それが罪の始まりだったのかもしれないと懺悔するばかりだ。自分がもっと早く王に召し上げられていれば、あの人と出会わなければ、と。
自分のすべてが憎らしい。
「それでも、私は幸せだったの。どんな思惑が渦巻いていても、本物の想いもちゃんとあったから。贅沢になっちゃいけないって、理解してた。でも、私は自分の幸福に浸っていただけだった。覚悟なんてなかったんだ」
再び顔を覆ったアクアは、おいおいと声をあげ続ける。
「そして、私は死してなお、人を不幸にする存在になったの?」
どこまで自分は歪んでいるのかと、嘆かずにはいられない。
幽体で墓石らしき場所に縛り付けられていたアクア。たまたま訪れて気にかけてくれた、心優しい女性。自分は、そんな女性の腹に宿る子どもの魂の中に入り込んでしまったのだ。
「魂ごと消えてしまえば良かったのに」
たまらず、アクアが額を地面につくと花弁が舞った。舞った花は風に乗り、空に吸い寄せられていく。彼女は躍る花を見ることなく、顔を覆ってむせび泣く。
――アクアおねえさんは、わたしといっしょはいや?――
やや間があって、ぽつりと落ちた声。
掌を顔に押し付けたまま、アクアは大きく頭を振る。
「嫌じゃない! でも、私は好きになった人を不幸にするだけの存在だから。あなたのことも、きっと――」
最後は音にならなかった。自分が不幸にした、殺した人たちの顔が浮かんで続けられなかった。地面に擦りつけた額に感じる痛みがわずかなのは、精神世界の主のせいだろうか。そう考えて、彼女の胸はより痛んだ。
――ごめんね、わたしはよくわかんない。おねさんが泣いてたから、泣かないでって思って、おなまえ呼んだらこうなってたの――
泣かないでと思った幼い魂の方が、泣いていると感じた。気が付けば、彼女の手は青空へと伸びていた。
「ごめんね、ヴィッテの魂にとりついてごめんね」
――とりつくって、なぁに?――
きょとんとした声に、彼女は苦笑を浮かべることしかできなかった。
――うーん、いっしょにいるっていうこと? わたしのおねえちゃんは、いつもはやくわたしと遊びたいって、かあさまのお腹にくっつくよ? それといっしょなら、わたしはうれしい――
アクアは願った。自分のこの卑屈さが、生まれてもいない純粋な命にだけはうつらないで欲しいと。
いや、純粋とか無垢とか関係ない。死した存在に手を伸ばしてくれたこの子が、真っ直ぐ育ちますようにと、願うばかりだった。




