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わたしは、アクア・ヴィッテって名前をもらうの。ヴィッテってよんでね。―魔女の回想―

「わっわた――」


 彼女が喉を開きかけた瞬間、ばたばたと乾いた土を踏む小さな足音が響いた。

 音の主は奥様の腰にしがみついた幼子だった。釣り目で気が強そうな割に、どこかおどついた雰囲気がある女児だ。息を切らしているにも関わらず口を開く姿は、いじらしささえ感じられた。


「かっ母様。身重で、出歩くだけでなく、このように、うっ動かれては、おっおからだにさわります」


 四・五歳ほどだろうか。奥様や母様と呼ばれた女性に似ない少女は、たどたどしく口にした。その割に大人びた口調が印象的だ。

 奥様はそんな苦しそうに言葉を発する幼子に笑みを零した。

 彼女はなんとなく思った。母様とは呼んでいるものの、奥様との関係は実子ではなく、良くて姪だろうと。奥様のあっけらかんとした性格と、どこか遠慮がある幼子を見比べて、恐らく物心ついてから引き取られた子ではないかと推測した。


「あら、サスラってば心配してくれたのね。お昼寝していたから誘わなかったけれど、追ってきてくれたのね。ありがとう」


 奥様は、満面の笑みで少女を抱きしめた。腕の中の少女に頬を寄せ。

 奥様は大きな瞳に柔和な顔立ちをしていた。内面から溢れる煌めきのせいか、年齢不詳だ。


「大丈夫よ、サスラ。母様は元気の塊なんだから!」


 奥様が体を離し、自分の二の腕を掴んだところで大きな腹音が響き渡った。荒野に響き渡って野犬さえ逃げ出しそうな音だった。

 サスラと呼ばれた幼女だけがきょとんと瞼を瞬かせ、それ以外の者は必死な様子で口を押えている。家人にとっては大して珍しいことではないのだろう。


「奥様、ひとまずお食事を」

「えぇ。腹ごしらえは大事よね。元気になってからお墓を綺麗にした方が、気持ちも込められるわよね!」


 真っ赤な顔のまま、奥様はピクニックシートに腰を下ろした。すぐさま腰元に立派なクッションがあてられる。

 続いて、娘も従者も靴を脱ぎ、シートにあがる。彼女の記憶にある主従では、あり得なかった。従者が主と同じ場にあがるなどは。


「あなたたちは家族なのね」


 シートにてきぱきと広げられるのは、色鮮やかな弁当だ。

 というか、と彼女はため息をついた。この殺伐とした風景の中、よくも食事をとる気になるものだと呆れたのだ。


「母様、これ食べて」

「サスラが食べなさいな? 貴女の好物でしょ?」

「だって妹にいっぱい栄養いかなきゃだもん。サスラは、おねえちゃんになるんだもの。ちゃんとおねえちゃんになるって、自分で決めたんだもの」


 サスラは懸命に母親の皿に食事をよそう。

 あれくらいの年代の少女なら、自分が欲しい物を率先してとるだろうにと彼女は思った。その姿がどこか昔の自分に似ているとも感じた。


 大事にされているのもわかっているし、ないがしろにされたことなどない。それでも本音を言ってはいけないと、我がままに振舞ってはいけないと空気を読んでしまう。


 だから、苛ついてしまった。『愛』かまでは判断できないが、確かに大事にされているのに、一線を引いている幼子が。まるで、在りし日の自分と重なったから。

 そして、混じりたいと思った。叶わなかった在りし日に戻るようにと。


「嘘――」


 願ったら、彼女たちの横にいた。


――今までどれだけ思っても、石から離れられなかったのに――


 目を見開いた彼女は、水色のシートに座る少女と目があった。しっかりとあった。


「あなた、だれ?」


 サスラが目を見開く。

 この時点では、彼女はサスラを可愛いと思った。自分と目を合わせて、尋ねてくれたから。

 だが、次の瞬間、二人の関係は明確になった。

 守ると決めた存在と、自分と同じだと思った存在。それを間に挟んで。


――おねえさん、だぁれ?――


 彼女は奥様の腹に釘付けになった。姿なき声に、魅せられた。

 豊かな腹の奥に息吹いている存在に、彼女は虜になった。


――おねえさんは、わたしとおなじ色だ。わたし、おねえさんとおともだちになりたいなぁ――


 彼女が奥様のお腹に掌を添えるのと、サスラが手を伸ばすのはほぼ同時だった。

 サスラは彼女をきつく睨む。子どもの目とは思えぬ強さで、睨みつけた。まるで自分のすべてを奪われまいと牙を剥く獣のごとく。


「ヴィッテ、だめだよ。ヴィッテ! 呼んじゃ、だめ! なんで、ねえさまの声、聴いてくれないの! わたしがニセモノだから!?」


 幼子の叫びは、ただ虚しく響く。わんわんと響く耳障りな鳴き声。

 母親の腹にしがみつき泣くサスラは、ただただ異様だ。

 それでも、母親に似ても似つかない子どもは腹にしがみつき、がむしゃらに「だめだよ!」と叫び続ける。母親は戸惑いの中に、諦めを混ぜて幼子を撫で続ける。


「大丈夫よ、サスラ。父様と母様は知っているもの。誰が何と言っても、サスラはこの子のお姉ちゃんよ。たぶん、この子は私の変なところが似て自由奔放なのよ。だから、いいの。サスラは呆れて、怒って、愛してあげて。サスラは、しっかり者で、時には抜けたあの人ソックリだもの」


 母親の言葉に、サスラは瞳を潰した。幼子に見合わない様子で声を押し殺して泣く。認められた喜びよりも、己の感情を言葉に出来ない苦しみを抱いて。

 珍しいのだろう。宥められてもなお、わんわんと声をあげて義母の腹に縋るサスラを前に、周囲は途方にくれていた。

 一方、彼女は腹の中の魂と微笑み合った。


――わたしは、アクア・ヴィッテって名前をもらうの。ヴィッテってよんでね。アクアより、ヴィッテのがしっくりくるっておもうの――

――私は、かつてアクア・ヴィッテと呼ばれた存在。アクアと紡がれていたわ。だから、アクアって呼んで欲しい――


 二人が音なき言葉を交わした瞬間、アクアは存在を引っ張られた。すでに肉体のないはずの肉体が千切れると思えるほどの、強い力で。


――くるしいっ――


 感覚ではなく、想いが胸を締め付ける痛みに思わず瞼を閉じた。


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