僕はヴィッテさんの心の中にある小さなつぼみが、早く咲くのを願ってしまいますよ。
「じゃなくって! 花祭りのルートって、あれ?」
てっきり思考の海に溺れていたのかと思いきや。眼前にはきっちりと警護ルートの案がまとめなおされていた。
書類には、大通りから小道にいたるまで詳細なコメント付箋まで完璧に貼られているじゃないか。休みの日に自分の足を使って調べた庶民的な実情や、騎士様に付き合っていただいた結果の表に出ない事件の話を踏まえた意見書だ。
「そういえば、ちゃんと手は進めていた覚えがあるし。私、もしかしたら、意識と手の動きが分断できるのか?」
昔からちょっとは自覚のあったことだが。今更、自画自賛である。
じゃなくって。
そろそろ、アストラ様たちが王宮近衛隊との打ち合わせを終える時間だろう。お湯を沸かしつつ、クレメンテ様に書類を渡してくるか。
「そういえば、メミニが気になること呟いて寝ていたなぁ」
件の書類を抱え、司令官室の扉を押す。ごごごっと力強い音を立てて開いていく扉。開いた扉の先に立っている見張りの若い騎士に会釈し、左手側の階段を踏んだ。
こつこつこつと、石造りの階段がブーツとぶつかり合う。
「そうだ、私は」
メミニの言葉が、幼い私がフィオーレに来た頃の記憶を呼ぶ。
フィオーレは緑が多くて、サスラ姉様は妹を大切にしてて、私は物怖じしなくて。
ふっと咲いた記憶の花が重なり、言葉が零れた。映像が弾けた。
「フィオーレで、三人の少年にあって、それで――」
真っ青な空間で、靄をかぶり言い合う少年たちの姿が浮かび――込み上げる吐き気に喉元をおさえた。なんだこれ。気持ち悪い。全身が拒否する。胃が、痙攣する。
覚えのない記憶の向こう側、私の名前を楽しそうに呼ぶお日様みたいな声。名前とは別に、私に向かって「おちび」って呼びかける、悪戯めいた笑顔の少年。
喉から逆流してくるものを感じて、近くのトイレに飛び込む。
流し台に向かって大きく口を開く。飛び出ていくものが、さらなる吐き気を誘発する。喉を焼くものが出ても、しばらく上を向くことは出来なかった。
**********
「うぅ。ダメだ、なんか胃がむかむかするよ」
よろつきながらも、再度司令官室を後にして数分は経つ。げーげーして慌てて執務室の隣のロッカーに戻り、がががっと歯と舌を磨いたよ!
なのに、未だに吐き気はおさまらない。ただ、渡り廊下は風通りもよくて、徐々にだが調子は戻っているようだ。
とにかく書類を目的の場所に届け、司令官殿たちが会議から戻られたら、可能な限り早めに帰らせていただこう。胃液を吐くのさえ、食いしん坊の名が廃る。
「ヴィッテさん、ちょうどよかった」
「わっ!」
背後から名を呼ばれ、びくりと肩が跳ねた。振り返った先にいた少年は、申し訳なさそうに、でも少しばかり楽しそうに笑っていた。
短い黒髪に爽やかな笑顔。他の騎士に比べて年も若く小柄だが、とても落ち着いた雰囲気を纏っている。彼は、私と年の近いレクトゥス君だ。
今は騎士服ではなく、軽装だ。ふとももあたりまでの長いシンプルな上着に、柔らかい若草色のシャツが、彼の爽やかな雰囲気にとてもよく似合っている。
「レクトゥス様。今日は半番のはずでは?」
「ほら、ヴィッテさん。また、様呼びになっていますよ」
顔を覗き込まれて、おぉぉと不審者よろしく目が泳いでしまった。アストラ様といい、レクトゥス君といい! 天然たらしである!
将来が色んな意味で心配な騎士様は、私の返事を静かに待っている。
「れっレクトゥス君? 話は戻るけど、今日はお昼で帰ったんだよね? 今は夕方だけど、忘れ物でもした?」
歳以上に柔らかく微笑んだレクトゥス君の背には、広い空がある。まだ濃い藍色は見えないが、橙色と薄紫が混ざり合っている。ゆっくりと流れる雲と舞っている魔法の花にも、その色を映して泣きたくなる色。
レクトゥス君から視線を逸らすために向けた先には、想像以上に美しい光景が広がっていた。
「はい。半番といっても、半分は仕事で、半分は休暇みたいなものだったから。荷物を置いたら、今度こそ帰ります」
レクトゥス君は腕の中の四角い籠を、ひょいっと抱えなおす。
自分にはかしこまるなと言うくせに、半分敬語を使ってくる年下の騎士様は本当にずるいと思うのだ。
恨めし気に視線を落とすと、レクトゥス君が持つ籠には、やけに可愛らしいクローバー柄の布がかけられていた。隙間から丸いものが見えるが、何だろうか。
「なにか、あったんですか?」
「え?」
思わず、ひゅっと喉が鳴った。
明日、王を含めた重鎮が来団する。だから魔術騎士団全体が緊張している。私も同様だ。暗にそれを言いたいんだよね。
「ごめんなさい。レクトゥス君が心配してくれているのに、誤魔化そうとした」
都合の良いように言い訳している自分に気が付いて、ずくんずくんと胸が痛んだ。これじゃいけないと、思う。
私、変わらなきゃいけないのに。ううん、前の自分に戻らなきゃいけない。
――やめて、やめて。私をおいていかないで。私を忘れたあの時に、ひとりで戻らないで――
頭に響いた声に、はっと体が跳ねた。
そこで唐突に理解した。
私は、メミニが言う、元のヴィッテになってはいけないと。今のまま戻れば、フィオーレで取り戻しかけた何かを、決定的に捨てることになってしまう。
変わるのではない、捨てるのだと。
――お願い、ヴィッテ。さみしいの。ここは暗くて、だれも私の声を聴いてくれなくて、さみしいの。だから、あなたまで私を忘れないで――
前より明確に認識できるようになった頭の中の声。彼女と認識した声はひどく寂しそうで、それはかつて、自分が故郷を捨ててフィオーレに来る前に抱いたものと一緒だった。
だから、私はこの声を置いて先にはいけない。私を想ってくれている人がたくさんいるのは身をもって知っているはずなのに、私は、このたった一声を聞かない振りなんて出来ない。そう、思った。
「あの、ヴィッテさん! 大丈夫です! ヴィッテさんが頑張ってくれているのは、魔術騎士団のみんながわかっていますから! 口の悪い人もいるけど、ヴィッテさんが痒いところまで手を伸ばしてくれているのは見ています」
崩れかけた膝が折れずに止まったのは、レクトゥス君の大きな声のおかげだった。
背を伸ばし、日常に意識を戻す。どうしてか、そう思った。日常に戻ると。
なのに、感覚はどこか遠くにある気がした。すごく嬉しいのに曖昧な笑みしか返せない。
「えっと。僕の婚約者、あっ、幼馴染なんですけど。って、それはどうでもよくて。あの子が辛い時に、浮かべるのと、同じ感じだったので!」
目の前の騎士様は、私への違和感を確かに抱いたのだろう。なのに、それをはっきりと出さずに、大切な人を持ち出し気にかけてくださる。
それが嬉しくて、泣きそうに嬉しくて、どうしていいのかわからなかった。その決して器用ではない優しさに、どう答えて良いのか。
「レクトゥス君が大切に思えることと、愛されてる幼馴染さんが羨ましいです。私は、自分の幼馴染が考えていることなんて、なにひとつとしてわかっていなかったみたいだから」
スチュアートは自分から私を婚約者にと望んでいたらしい。なのに、最終的にはサスラ姉様と駆け落ちまでした。あんなに権力に頼って生きていた子が、すべてを捨ててまで、姉さまの手をとった。どうしてだろうか。
私は推測すら浮かんでこない。
駆け落ちするまでには当然、二人の関係を匂わす行動や想いあう過程があったはずなのに……私には全く見えていなかったのだ。なら、本当に――匂わせだったのか。それすら、わからない。
「ヴィッテさんの幼馴染ですか? 先日からいらっしゃっている、えーと、メミニ嬢ではなく?」
レクトゥス君がぱちくりと瞬きを繰り返した。
「はい。あ、もしかしてレクトゥス君てば、私が故郷で幼馴染というか、友人がメミニだけだったと思ってます? 生まれも育ちも故郷の地ですから、一応メミニ以外にも幼馴染みたちはいますよ?」
話題を逸らすように、意地悪な口調で笑ってみる。もしかして、私、フィオーレ歴四ヶ月で結構いい性格になってないだろうか。
妙な高揚感と目の前で慌てるレクトゥス君のおかげで、なんだかおかしくなって、つい声を出して笑ってしまった。
「ヴィッテさんてば」
「ごっごめんなさい。つまり、なにが言いたかったかというと、レクトゥス君はその子のこと大好きなんだぁって思って、すごいなぁって感じたんです」
私の一言に、レクトゥス君は真っ赤になって挙動不審になった。夕焼け顔負けに、耳まで染め上げている。めちゃくちゃ動揺しているのが、全身に出ている。
いいなぁ。私もいつか、こんな風に思ってもらえる自分に変われるのだろうか。
「司令官とヴィッテさんみたいな空気になれたらいいのですけど!」
わたわたと、バスケットを抱えたまま右往左往していたレクトゥス君は、止まっていた足を進め始めた。
はて。なぜ私とアストラ様を引き合いに出したの? 隣に追いついても、思わず首を傾げ続けてしまう。
「アストラ様と私、ですか。うーん。私たちの関係って、上司と部下ですよ? 確かにアストラ様はとてもお優しい方だから、ご自分を、私のお兄さんというか保護者みたいに思ってくださってるみたいだけれど」
はっ! わかった!
レクトゥス君は、アストラ様みたいに明るくてほっこりするような人になりたいってことか。
「大丈夫! アストラ様はアストラ様でいいところがあるけど! レクトゥス君にはレクトゥス君の家庭が築けるよ! 願ってる!」
ぐっと拳を握って応援だ。
が、流れたのは微妙な空気の沈黙。なんかこれ、オクリース様やフォルマにされるのと似ている。すごーく、似ている。
「僕はヴィッテさんの心の中にある小さなつぼみが、早く咲くのを願ってしまいますよ。色んな人のために」
ちょっとだけ高いところにあるレクトゥス君の顔には、苦笑が浮かんでいる。
その表情の意味を聞き返す前に、目的の場所についてしまったようだ。




