ヴィッテがこの先を知りたいと思うなら、この手紙を見て。
幾重にも重なった鐘音に、はっと意識が戻る。夕刻を知らせる鐘は特に賑やかで、街に降り注ぐ魔力の花びらも華やかだ。
書類の海に溺れていたせいか、そんな音を耳にしても未だに意識がはっきりしない。
「まだ昼下がりの感覚だぁ。でも、明日の会議に使う資料の作成は終わったー!」
今、司令官の執務室には私しかいない。
なので、「ぶわー!」なんていう変な声をあげつつ、思いっきり伸びをしても恥ずかしくない。伸びをしすぎて椅子がひっくり返りそうになってしまったけど。
「もうひとふんばり! アストラ様とオクリース様が戻られるまで、花祭りパレードのルート案を揃えておこうかな」
花祭りまで後一月あまりだ。近いうちに王自らと王宮の近衛隊とが来団し、打ち合わせがあるそうだ。私は、立場とか身分とか諸々の事情で出席はできない。
でも、アストラ様たちが困らないように、念を入れすぎるほど資料の準備をしておくのは可能だ。使わなければ、それはそれで良いのだ。それがいつか役に立つこともあるかもだし。
「魔術騎士団は王直下な機関なこともあって、近衛隊というか色んなところから敵視されているもんね。とにかく、ちょっとでもアストラ様のお力になりたい!」
しゃんと背を伸ばし机上のファイルに手を伸ばしたところで、思わず片目をつむってしまった。ちょうど部屋の真ん中、大きな窓ガラスから夕陽が差し込んだようだ。
夕日に手招きされているかのように、立ち上がっていた。
「相変わらず、綺麗な風景」
近寄った窓からは、いつもと同じ光景で空に舞う魔法の花びらが見えている。七色の花びらは、やがて橙色と薄紫色が溶け合っている空に溶けていく。
私の故郷では見慣れないものなのに、懐かしいと思うのは……私がこの生活になじんでいるからだろうか。
「でもなんでかな、それだけじゃない気がするんだよね。うーん」
美しい光景を前に似つかわしくない様子で唸ってしまう。いくら腕を組んで頭を垂れても、答えが浮かんでくるはずもない。
きゅるるるーっと鳴った自分の腹に、たははと笑うしかない。
「ほんと、私って、どんだけ食いしん坊なのか。今日はまたメミニがくるって言ってたし、豪勢にしよう!」
見る見る間に沈んでいく夕日。レースより重めのビロードのカーテンに手をかけ――目の前にひらりと舞った花びらに、ふとメミニと再会した時の会話を思い出していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「そうそう。あの時から、スチュアートはヴィッテに夢中だったもんねー」
白から赤のヴィヌムに変わったところで、メミニが唐突にスチュアートの名を口にした。それまでは、お互いの近状を報告していたので少々面食らってしまった。
当のメミニはチェイサーを一気に煽りながら、気持ちよさそうに笑っている。私もチェイサーをごくりと喉に流し込む。
「うっくしゅ!」
メミニの大きなくしゃみが夜に響いた。ずずっと音を立てた鼻に、はっとなる。
「ごめん、寒かった? フィオーレって、あっちと違って結構日中と夜の温度差があるんだよね」
慌ててベッドに置いてあるショールを、メミニの肩にかけた。メミニはなぜか一瞬むすりとした後、ベッドに背を預けた。そして、隣の床を軽く叩く。
これは大人しく従った方が良いやつだ。
メミニの隣に腰かけると、ショールの端をかけられた。私が膝にブランケットを広げると、自分と私のグラスに赤を注ぐ。「んっ」と差し出されたグラスを、ありがたく受け取る。
「寒いなら、ホットヴィヌムにしてくるけど」
「まだいい。ヴィッテとくっついてると、あったかいし」
「そっか」
しばらく、沈黙が続く。メミニがちびちびとヴィヌムを飲むものだから、私もそれにあわせてみる。
多弁なメミニがこんな風に黙る時は、大抵、相手の反応を気にしているのだ。それは、相手の反応を探っているという意味ではなく、確信を得ているので言い淀んでしまうから。本人は無意識なんだろうけれど。
「……私、ちゃんと聞くよ?」
ほうっと、息を吐きがてら呟いていた。
大丈夫だと思った。今の自分は、もう故郷からフィオーレに逃げてきた自分じゃないと思える。少なくとも、国を出た瞬間の自分じゃない。
「うん。さっきの、続きだけどさ」
ややあって、メミニがぽつりと呟いた。
酔いが背中を押すならと、メミニと私のグラス両方に赤いヴィヌムを注ぐ。先を促す返事とわかってくれたのだろう。メミニが小さく息を吐く。
「スチュアートはさ、ずっとヴィッテのこと好きだったんだよ。あんたはサスラが本命だと思ってるみたいだけど。あんな奴だけど、本当にヴィッテが好きだったんだよ」
「それは――」
反論しかけた私に、メミニは小さく頭を振った。彼女に似つかわしくない静かな仕草に、言葉を飲むしかなかった。
メミニは両手で抱えたグラスを、じっと見つめている。
「確かに、あんたが否定するのは理解できるよ。だって、あんた、変わったもの。あの時から、あからさまに。だから、あんた自身が人から、しかも異性からそんな熱い想いで好かれてるなんて理解できないなんて言うんでしょ?」
どくんと心臓が大きく跳ねる。自分でも、幼い頃の自分はかなり積極的で社交的だった覚えはある。が、それを改めて言われると、どうにも落ち着かない。成長の過程で性格が変わるなんて良くあることなのに。
いや、違う。
『あの時』という明確な言葉を聞いて――私は動揺している?
「あの時、から?」
知りたい。だれも、言ってくれなかったことだから。両親や姉さえも。
酔い始めたのだろうか。頭の片隅が、ずきりと痛む。
「うん。わたしはどっちのヴィッテも好きだけれど。もしかしたら、スチュアートはずっと昔のヴィッテを追っていたのかもね」
ぐっと、グラスの中身を煽る。それは、嬉しかったからか、恐怖からかはわからない。でも、飲まずにはいられなかった。
すぐに新しいものを自分のグラスに注ぎ、ボトルの口をメミニに向けると、彼女も同じように中身を煽ってくれた。
「うろ覚えだけどさ、わたしたちが初めて会ったのは3歳くらいだったけ」
「うん。確か、父様の仕事関係の集まりだった。一緒に庭園を冒険したよね」
大人ばっかりのつまらない空間で、私と同じように退屈していたメミニ。
とある方の屋敷で、彼女と私は手を繋いで広いバラ園や薬草園を冒険し、庭師や薬草師に構ってもらった思い出がある。あれは聡明なメミニのおかげで、みんなが可愛がってくれたんだっけ。
「あの頃のあんたは、すごく活発でおてんばで、だれにも物おじせずに話しかけていた。あんたがいるだけで、その場が華やかになってた」
え? それは誰の事……?
きょとんと眼を見開く私に、メミニは苦笑を浮かべた。
「ヴィッテってば、年に似つかわしくないほど詳しい草花の知識があってさ。しかも、それを鼻にかけているんじゃなくって、大好きって気持ちがあふれていた。だから、みんなが親切にしてくれたんだ」
あの時は正直悔しかったなんて笑うメミニに、私は固まるしかない。
だって。だって、彼女が言う私は――誰?
「ねぇ、メミニ。わっ私、私さ」
かたかたとグラスを持つ手が震える。そんな私を見て、メミニは悲しそうに目を伏せた。
「ねぇ、ヴィッテ。わたし、知りたいの。あの頃のあんたに何があったのか。だって、今のあんたはフィオーレに行って戻る前のあんたに少しだけ近い……だから、なにか思い出したんじゃないかって思ったんだ」
苦しくなる呼吸。大きく動く肩。視界が歪んで、白いもやが広がっていく。まるで、人型のもやが生々しく動く。
「ヴィッテがフィオーレに行く前に、うちの両親に会っていたの。わたし、ただの旅行なのにすごく真剣な顔をしている大人たちが、すごく怖かった。ヴィッテは気が付いていなかったみたいだけれど、わたしと並んで座るあんたを見る大人の目は――あんたを見ていなくて怖かったの」
静かに肩を撫でてくる手。あったかくて小さい手は、まるで心を撫でているように思えた。
「わたしはただ、あんたが早く帰ってきて、また遊びたいって呑気に思ってた。でも帰ってきたあんたは――」
知っている。そのメミニの言葉の先にいる自分を、私は嫌というほど知っている。
やや離れたところにある鏡には、幽霊みたいな自分が映り込んでいる。
「帰ってきた私は、すごく卑屈で、自分が嫌いで、誰かの邪魔になっている、いない方がいい人間だって思うようになっていた」
思い出した。
姉様が私に冷たい視線を送っていると感じ始めたのは、その頃からだった気がする。
同時に、それ以前から姉さまが『誰か』に敵意を向けていたのを、私は知っていた、気がする?
「前の私は……違った?」
零れた言葉に寒気がして、一気に赤いものを煽る。煽れば、忘れられる気がした。
これじゃ、酔いが足りない。そう思って、
「ホット、作るね」
と言い、キッチンへと足を進める。
そんな私をメミニが追ってくるのがわかった。私の行動を止めるのでもなく、鍋に赤を淹れたところで火をつけてくれた。そこに、ハチミツと黒コショウを入れ、シナモンスティックをそっと置く。
「みんなが」
ふつふつと赤いものが沸いていく中、誘われるように私の中から言葉が溢れてくる。
震える、顔の前で組んだ両手を、メミニがそっと掴んできた。私よりもだいぶ小さくて薄い手。
「みんなが、私は変わったって――」
「うん。でも、サスラは、気付いてたよ。あんたの根本は変わっていないって」
メミニの呟きに頭に血が上った。酔いも手伝ってか、いつもみたいに笑えなかった。
ばんと音を立てて手近な台を叩いていた。じゅっと鳴った音。手のひらを痛める熱。焼ける感覚も苦にならないほど、心が悲鳴をあげている。
「うそ!! だったら、なんで!! どうして、家族を捨ててスチュアートなんかと駆け落ちしたの! どうして……」
あとは言葉にならなかった。ただ、嗚咽を漏らすしかなかった。
焼ける手のひらを、メミニがそっと掴んでくれる。あっという間に痛みはなくなった。火傷がなくなっていくのを見ても、メミニは何も言わないので彼女が治癒魔法を使ってくれたのだろう。
「ごめん。サスラの真意も知らないで、憶測で物を言った」
メミニの押し殺した声が耳を鳴らす。心なしか、なくなった傷を見つめている気がする。
「でもね」
しっかりとしたメミニの声に、うなだれた顔があがる。目を合わせた彼女は、まるで、アストラ様みたいな視線で私を見ていた。
きらきらと光っていて、私の心の奥を見てくれるみたいな、あったかい眼差し。
「これだけは言える。サスラはあんたのこと――妹のヴィッテを大切にしてたってこと。スチュアートからあんたを守りたいって思う位には」
「どういう、こと?」
たどたどしく口をひらく私をベッド際に戻し、ゆげをあげたカップを差し出したメミニ。ちょっと武骨な白いカップからは、ちょっとのシナモンの香りときついヴィヌムの匂いが立ち上っている。
「これ以上はわたしの口から話すことじゃないわ。もし、ヴィッテがこの先を知りたいと思うなら、この手紙を見て」
「これは?」
震える手に渡されたのは、少し厚い封筒だった。恐る恐る裏返した封筒に書かれていたのは――。
「姉様の秘書をしていたコムニ・カチオ?」
てっきり姉様からの手紙だと思っていた私は、拍子抜けし、間抜けな声が出てしまった。
どっしりと掌に乗る封筒を、しげしげと見つめるしかない。
「そう。サスラからじゃなくって、カチオ様から預かった手紙。ヴィッテが幸せなら見ないでほしいって言われた預かりもの」
メミニは囁いた後、ぐいっとホットヴィヌムを煽った。その勢いのまま「おかわり!」と言われ、慌ててボトルを傾けた。膝に乗った手紙は殊更ずっしりと感じられている。
注ぎ終わると、それもあっという間に半分まで飲んでしまった。これは悪酔いコースが明らかすぎる。
「しょーじきね、わたしはここで読んでほしいわけ! そーでしょ、気になるでしょふつー! 今のヴィッテが幸せそうに見えたって! さっき、ヴィッテは怒ったけど、わたしだって同じなんだから!」
「うっうん」
鼻先に突き付けられた指を握りつつ、しゃっくりをしたメミニの肩を撫でる。メミニは完全に酔いが回ったようで、目が据わっているよ。
あぁ、でもメミニはこうなってからが、始まりなんだ。明日が休みで本当に良かった。
「でもね、強要しないの、わたしは! わかる?」
メミニがヴィヌムをこくっと喉に流す。ういっくなんて可愛いしゃっくりを共に。
「メミニは、いつもそうだったもんね。強くは言うけど、私に何かを強いたことはないもん。わかっているよ」
「あーもう! この話は次の言葉を伝えたら終わりにしよ! 続きは、もうちょい素面の時。わたしもあと二か月は滞在予定だもの!」
ちょっと大きめの声でベッドに顔をうずめたメミニ。
私が口を開くより早く、ばっと顔をあげた。そのまま抱き着いてきた。
「ただね、これだけは覚えていて。サスラは、ほんと、みんながいう、悪女じゃない。少なくとも、おさななじみの、わたしはそう、おもうから――」
そうだ。メミニは私の大事な幼馴染であると同時に、昔は私とも仲が良かったサスラ姉さまとも幼馴染で親しかった。
なら、手紙を開けなくともメミニに聞けば、ちょっとでも過去を思い出せるかもしれない。人任せなのに後ろめたさを感じつつ、メミニの肩を揺らす。
「ねぇ、メミニ。メミニが覚えている範囲でいいから、幼い私がフィオーレに行く前とそのあとで変わった点を教えてよ」
「んーいいけどさぁ。具体的に何さ」
気怠そうに起き上がったメミニ。彼女はもごもごと「っていうか、ここでサスラじゃなくってそこ?」と呟いていた。
が、今の私はどうしてか、そこが気になるのだ。姉さまのことは、疑う余地がないと思っている自分がいる。
「例えば――私自身が、何か言ってたとか」
鍵はそこだと思うのだ。
今の私に当時の記憶が一切ないのであれば、当時の私の言動を知る人たちの記憶が必要だと。直接的な答えでなくとも、必ず答えの一糸にはなると、今の私なら思える。
「周囲から見た私の変化も重要だと思う。過去を知る情報になるのは間違いない。それと、一番の鍵が当時の私の言動にあるのではないかとも直感的に考えたの。だから、メミニが見ていた私を知りたい」
私は、私を知りたいと思っている。
故郷を捨てたと思って、フィオーレに辿り着いた。生き延びて拾ってもらって、私が持つ以上の能力をかってくださって仕事に就けた。その仕事を誇りに思えている自分がいる。でも、違うかもしれない。私はずっと前から大事にされて、その人たちのために自分が価値があるって思える人間だったのかもしれない。
「私、フィオーレに来て変われたと思っていたけれど。メミニに再会して理解できたの。私は良い方に変わったんじゃない。変わったんじゃなかったよ」
目が熱くなるのを耐え、笑う。
「ばーかヴィッテ。わたしは、わかってる。でも、わたしも何もしなくてごめん。そのままでも、あんたはあんただって目を瞑っていてごめん。それでよかったわけ、ないのに」
うとうとなりかけたメミニの体はすごく暖かい。加えて、すごく遠慮なく伸し掛かってくる。それが、とんでもなく嬉しい。
メミニの体をぎゅっと抱きしめると、不思議とアストラ様に抱きしめて貰っているみたいだと思った。あぁ、そうかとなぜか泣けてきた。アストラ様も不安に震える私を慈愛の心で包んでくださっていたのかと。どうしてかな。あまる幸せなのに、胸が苦しい。
「ねぇ、メミニ。それは普通の感覚だと思うの」
口が勝手に動いていた。ついでに、目からも勝手に熱い雫が零れ続ける。
自分の声なのに、どこか他人めいて聞こえた。
「だって、人はどんなに変わってもその人であることは変わらない。けれど、私は――」
――私たちは、ただの変化とは違う――
もやが頭を撫でてきた、ふっと意識が途絶えた。
次に気が付いたのは、寒さのあまりにぶるっと震えたからだ。時間にしたらたった三十分ほどだった。
ただ、私は最後に発した言葉の意味をしばらく考え続けた。




