私はようやく、あの日の自分と向き直れたのかもしれない。
「ううっん」
重い瞼をあげても、視界はぼやけている。しかも、ぐるぐるまわっている。吐きそうになり、もう一度瞼を閉じ、数度深呼吸を繰り返す。すると、幾分か楽になってきた。
部屋の中に誰かいる空気を感じて、「おはよう、母様」と開きかけた唇はすぐに閉じた。
数ヶ月ぶりの感覚に、一気に目が湿っていく。フィオーレにきてしばらく、慣れない一人暮らしの朝に覚えた虚無感だ。
「ここはフィオーレ。フィオーレなんだ」
家族がいた、家人のみんながいる生家じゃない。
今を自覚する呪文。いつもは幸せを実感できることが多い言葉は、今日はなんだか寂しい成分が多く感じられて、腕で視界を隠してしまう。
「当たり前でしょうに」
その腕はべしっと音を立てて、はたかれた。
ありえないはずの声と感触に、見る見る間に視界が広がっていく。
「どこをどう見ても、ヴィッテの生まれ育った家じゃないでしょ。あんたの部屋ってだだっぴろい割に、本やら家具やら、とにかく物が多かったし、壁中張り紙だらけだった」
まるで学院制服のまま、三脚テーブル前の床に座り込んでいた頃の自分がいるように思えた。夢中で本を読み、着替えるのも忘れ、日が暮れるまで床に座り込んでいたっけ。
そんな私の頭を呆れた顔で優しく小突くメミニさえ、昨日のことのように感じられる。一緒に宿題をしていたはずなのに、あんたの意識はどこに旅行にいってんの! なんて、よく怒られたっけ。
「あんた、部屋の真ん中にある三脚テーブルだけじゃなくって、小型の長椅子
にさえ本や絵を積んで、肝心の自分は床に腰かけてさ。おばさまがよく独特過ぎる空間を心配してた」
「そっ外ではちゃんとしてたもん! 自分の部屋で位いいじゃない! 散らかっている方が、なにがどこにあるのかってわかるんだもん!」
がばっと起き上がって。両手を上下に激しく振る。
フィオーレで出すことがなかった声のトーンと仕草に、はっとなった。と同時に、懐かしい記憶が溢れてきた。
「確かに、自分の趣味のものはね。でも、宿題はよくなくしたって大騒ぎしてた」
「返す言葉もありません」
謝ってすぐ、懐かしさに口元が緩む。これって、よくうちに遊びに来ていたメミニと――サスラ姉様にしていた、お決まりの反応だったって。そう、姉様にも。
二人とも苦笑しながら、お茶を淹れてくれたり、本を拾い集めてくれたりして、いた?
あれ? 私、幼い頃だけサスラ姉様と仲良かったかもって思ったけど……考えているより大きい時まで?
「だから、今のこざっぱりした部屋にびっくりしたのよ」
沈みかけた意識は、メミニの優しくて寂し気な声に引き戻された。
いつの間にか、めまいは治っている。
「うん……うん」
上半身を起こし見渡した部屋は、確かにこざっぱりとしている。置かれた家具の多くは、あらかじめ用意されたものだ。
敷物やクッションなどの雑貨は、月の給料からちょっとずつ揃えたもの。
自分で稼いだお金で買い揃えるのも、次に何を買おうかと頑張るのも楽しい。
「前にあんたが持っていたものとは、ちょっと様子が違うもん」
自分でもわかっている。以前持っていた種類と違うものをわざわざ選んでいるのは。
趣味から違うモノを所持したところで、自分が変わるわけじゃないのにね。
「やっぱり私らしくないかな?」
自分の空間を作っていくのが、楽しいのは本当だ。ゼロからじゃなくっても、できるところから、こつこつとっていうのが、またやりがいを感じている。
それでも、メミニから見た私には違和感があるのかな? この部屋にさえも、アストラ様やオクリース様、それにフォルマたちの優しさを初めから貰っていた甘えが、滲み出ているのだろうか。
「ばかヴィッテ。そうは言っていないでしょうに。ただ――わたしが安心したの。あんたが、私の言うことを理解したってことは、後ろめたさがあったんでしょ?」
ぼすんと音を立ててベッドにダイブしたメミニ。軽く額を押されて、私の体はあっさりと枕に後頭部が沈んだ。
そうだ。この幼馴染は、卑屈な私にいつだって本音でぶつかってくれた。
「ヴィッテがさ、大国フィオーレで、わたしが知らないヴィッテになってたらどうしようって、ずっと思ってた。手紙からは、わからなくて。だから、あっちで一緒に過ごしたヴィッテの方がヴィッテらしいんだなんて、やきもちやいた。ごめん」
全然ごめんなんかじゃない。私もごめんねって謝るのは、違う気がした。それでも――。
「め、みに。メミニ、あのね」
気が付いたら視界が涙で歪んで、鼻がぐしぐしと音を立てていた。
そんな私の目に、メミニの腕が遠慮なく乗ってくる。二人しかいないのに、それでも弱い私を気にせず、でも、たった一人だけいるメミニからも隠れていいよって言ってくれる。隠れても、ちゃんと見てるからって。
「わっ私ね、フィオーレに来た時は、全部、捨てたつもりできたの。ぜんぶ」
昔から、メミニの前ならみっともなく泣いても良いと思えた。アストラ様たちの前で泣けるのとはまた違う。上手くは言えないけど、前の自分のことも受け入れられる気がした。
変なの。別に、アストラ様たちだって、前の私を否定したりなんてしないのに。
「うん。やっぱり、ばかヴィッテだ」
「うん、うん。私、大ばかだ」
ぎゅっとメミニの体を抱きしめた。苦しそうに身をよじり、でも強く抱きしめてくれたメミニ。少し体を離し、顔を合わせた彼女は、猫目を真っ赤にして唇を嚙んでいる。
私の目の前にいるメミニはきっと、メミニだけの感情じゃない。そう、今の私なら思える。
「私、フィオーレでの出会いで変われたのも事実だけれど、やっぱり元の自分を肯定してもらえるのは嬉しくて。全部を捨てて国を出たなんて思っていた頃の自分を、叱りたくなったんだ」
それが、メミニのたった一言で、唐突に理解できた。メミニは私らしくないなんて言わなかった。言わなかったからこそ、わかったのだ。
私は、自分が思う以上に、大事に想う人に私を受け入れてもらえていたことに。私という人間を知っていて、なおかつ、今を否定しない人は、確かにいてくれた。なのに、私は――。
「ごめんね、ごめん。謝るのは違うって思うけど。勝手に死にかけて、ごめん。全部を振り切って、捨てたつもりでいたのは、ごめん」
ぎゅっとメミニの体を抱きしめると、とんでもない力で耳を引っ張られた。
「あんた、残してならともかく、捨てたつもりでいただと⁉」
「だから、ごめんて」
「まぁ、わたしはヴィッテの親友だし、事情もわかってるから、特別に半年後くらいには許してあげるけど……。他の人には、いっちゃだめだからね!」
握った手は、自分のよりだいぶ小さい。その手は、あっさりと耳から離れた。
こんな幸せを、私はずっと見逃していたのかと思うと、申し訳なくて、悲しくて、それ以上に気が付けたことに嬉しいとさえ思ってしまっている。
「私、どれだけの優しさを見逃してきたんだろうって。メミニ、一人に、会っただけで、思ったの。っていうことは、私、他の人の優しさも、全部、おいて、この国に来たんだって、唐突に思って」
本当に私は単純だ。全部を捨てて、捨てられて、この国で行き倒れていたと思っていた。行き倒れてかわいそうな私だから、拾ってもらえたと、どこかで思っていた。
そうじゃない。そうじゃないんだ。
「あんたを拾った人たちは優しかったかもしれない。でもね、あんたを送り出した人たちだって、黙って見送った人たちだって、いるんだから。ヴィッテの幸せを願って。でも、どうしたって今が幸せか気になるんだもん。むしろ、無条件で今が幸せだって言われたら、ハイキックのひとつくらいかますつもりだったけどね」
私がメミニの言葉にしゃくりあげるだけ、彼女は首に回す力を強めてくる。
たぶん、メミニは私が泣いている理由なんてお見通しだ。不思議だ。やっぱり、同じ泣くという行為でも、アストラ様の前でそうなるのとは違う。同じ位、アストラ様のことが大好きで信頼しているのに。
「ごめん、私、メミニに再会する今の今まで、たぶん、そう思っていた。フィオーレでやり直せることが神様の贈物だって。アストラ様たちに出会えたことが幸せだって」
メミニには申し訳ないのだけれど、すごくほっとしている自分がいる。いつもなら激しく後悔する場面なのに、出せた言葉で全身から力が抜けていく。
「ばか。黙って出ていかれた身にもなれ」
絞り出された言葉。耳元で掠れた高い声が落とされた。
返す言葉なんてあるはずなくて、ただ泣くことしか出来ない。きつくて優しい言葉に、ただ涙が溢れて止まらない。
私はようやく、あの日の自分と向き直れたのかもしれない。故郷のすべてに背を向けて旅立った自分の後姿を、見つけられた気がした。




