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夜に想う

三人称です。

「あー早くヴィッテに会いたいぞーもう三日も王宮に詰め込まれている」


 夜の静寂に落ちたのは、間延びした声だった。

 月明かりを受けているテラス。離れとはいえ、王宮に相応しい荘厳な造りだ。

 その手摺に背中を預けている男――アストラは、胸元をうっとうしげに崩した。すっと肌を撫でた風に誘われ、息が大きく吐かれた。

 すぐ傍に置かれたカップを手に取ると、今度は溜め息が落ちてしまった。


「ヴィッテが淹れてくれた紅茶を飲みたいんだー」


 王宮で用意されている紅茶は、言わずもがな最高級の品だ。それも、各部屋の主に合わせて。

 であるにも関わらず、アストラにはヴィッテが淹れてくれる茶の方が格段に美味く感じられる。いや、確実に美味いのだ。

 アストラはここ数日、全く声を聞いていない少女を思い浮かべた。声だけではない。あの不器用に思われる、けれど実際は豊かな表情を見せてくれるヴィッテ。楽しい日常から切り離されたのを実感し、アストラの中に憂鬱が広がっていく。

 滑らかな喉越しだった紅茶が、流れ込まなくなってしまった。


「出会ってから、たった二ヶ月しか経っていないのにな。我ながら呆れてしまう。けど、あー! 早く帰りたいぞー! ヴィッテの手料理が食べたいんだー!」


 いつもなら、会議で煮詰まった頭と疲労を癒す紅茶の味。

 あれほど飲みたかったと言うのに。アストラはなんの未練もなく、薔薇が描かれた上品なカップを手放した。かつんと、虚しさが空気を揺らす。

 代わりにと。上着の内側から丁寧な手つきで取り出されたのは、わずかにインクが滲んだ紙。水に濡れたようによれよれになっている紙を見つめ、アストラはうな垂れた。体を回転させ手摺についた腕からは、ひやりとした温度が伝わってくる。

 とほぼ同時に、背後から靴音と窓ガラスの音が鳴った。


「でしたら。さっさと仮眠をとって、明日の会議に臨んでください」

「オクリース。聞いていたのか」


 アストラがあてがわれた――軟禁用の部屋から姿を現したのは、オクリースと老年の侍女だった。アストラもオクリースも、よく見知った侍女長だ。学院時代は王と共によく叱責を受けたものだ。

 が、老女はヴィヌマが数本乗せられた台車をテラスに止めると、一礼のみで下がっていった。思い出がある分、時の変化を突きつけられているようで切なくなる一瞬。

 

「夜分遅くにその音量で呟いていれば、嫌でも耳に入ってきます。それより、魔術騎士団からあがってきた報告書に、目を通せたのですか?」

「当たり前だ。ヴィッテが持ってきてくれたら、もっと早く終えられたのになぁ。話す時間を作りたいからさ」


 むろん、アストラとて本気で口にしている訳ではない。

 むしろ王宮などという特殊な空間へ、大切にしている少女に足を踏み込ませることなどさせない。ただでさえ、ここ最近方々から興味の目で注目を集めているのだ。隠せるだけ匿っておきたい。


「はいはい」


 オクリースにはアストラの心情などお見通しなのだろう。軽い返事ではあるが、諌めの言葉を発することはなかった。

 とぽとぽと、グラスに注がれるヴィヌムの音が、やけに大きく聞こえる。

 アストラは手渡されたグラスを一気に煽った。すかさず、注がれるヴィヌム。オクリースなりのねぎらいだ。アストラの目元が綻んだ。

 

「王とウェルブム宰相――父君との話、終わったのか?」

「えぇ。そもそもヴィッテに関する報告など、さしてありませんからね。アストラが親ばかのようだという嘆き以外は」

「可愛いものは、しょうがないだろ」


 アストラは、わざとらしく肩を竦めた。

 ヴィッテの報告。それはアストラが身元保証人となった理由にある。しかしながら、ヴィッテが魔術騎士団の臨時職に就いてから二ヶ月経過した現在でも、目立った違和感は皆無だ。公私ともに付き合いのあるアストラやオクリース、それに友人として頻繁に顔を合わせているフォルマにもわからない程に。


「貴方が親ばかだと自覚しているのが問題なのです」

「なぜだ。年齢的には兄かも知れぬがな。ヴィッテはこちらが過保護になるくらいが、ちょうどいいんだよ。じゃないと、一人で頑張ろうとするからな」


 アストラは腕を組んで大げさに頷く。オクリースが頭を抱えたくなったのも知らずに。

 敢えての変化というならば、ヴィッテが少しずつではあるが人に甘えられるようになってきたことだろう。限られた人々にだけというのがまた、その枠にいる人間の心をくすぐる。加えて、アストラの立ち直りと異性への関心度。当人同士に恋慕の情の意識はない。はたからはもどかしい限りだ。

 微風がヴィヌマの香りをより際立たせる。

 アストラが上機嫌に眺めていた紙が、後ろからすっと抜かれた。


「おい。背後から忍び寄るのはともかく、その紙に触るなよ」


 アストラは背後に現れた人物を睨みつけた。しかし、鋭い視線を受けている人物は、拍子抜けという表情で紙を見つめている。

 紙を両手で掴んでいる男性が身に着けているのは、アストラが身に着けている騎士服に酷似している。アストラよりも格段に細かい刺繍が施されているが。

 決して華美ではない。それでも耳につけられた宝玉や、肩まである金色の髪を束ねているシルクの髪紐は、上質なものだとわかる。


「騎士として、背後を取られる方が問題だと思うのだけれど」

「主君の気配に警戒する必要はないだろう。そんなことより、返せ」


 主君と呼んだ割に、アストラは随分と砕けた態度をとる。

 すらりとした主君は、アストラを諌めることはない。薄翠色の瞳に楽しげな色を浮かべただけだった。

 意味深な笑みを浮かべている男性の手から、アストラは疾風の速さで紙を奪い返す。そのまま丁寧に四つ折りにし、懐に仕舞い込んだ。


「シレオ様もいかがですか?」


 彼の来訪を予期していたのだろう。オクリースは予め三つ用意されていたグラスのひとつを、シレオに差し出した。

 流れるような美しい所作で受け取ったシレオは、くるりとグラスを回し。香りを吸い込む。瞳が懐かしそうに細められた。


「三人だけの時は、学友時代や戦地を共にしていた頃のように、シレオと呼んでくれと言ってあるだろう?」

「大体、英雄王と言えども、供もつけずこんな時間に離れを訪れるなよ。しかも、男二人を。妃候補たちの元にでも足を運べ」


 紙に触れられたのを、いまだ根に持っているのか。アストラは空いた手をしっしと振った。

 シレオはまったく気に留めていないようだが、さすがにとオクリースの肘がアストラの横っ腹に決められた。

 シレオの眉尻が、空笑いに促されるように落ちる。


「私は、本来なら王位につくはずなどなかった人間だからね。何年たっても、この窮屈さには慣れないよ。……即位した以上は、そうも言っていられない。重々承知はしているけれど」


 ふぅと、わざとらしく軽く吐かれた息。それを押し戻すように、シレオの喉に白いヴィヌムが流し込まれていく。

 これしきの量で酔うことはないが、あまり好ましいとは言い難いペースだ。アストラとオクリースは顔を見合わせて、苦笑を刻んだ。


 シレオは今でこそ王位についているが、彼の名が正式に王族に連ねたのはついぞ数年前のことだ。

 彼の生母は正妃ではない。先王が五十も過ぎた退位間近に訪れた、領地の娘だ。辺境伯爵の末娘。先王の熱烈な求愛により、彼女は王宮の離れに住まうようになった。いわゆる愛人である。とはいっても、十七歳になったばかりの若さに加え、素直でさっぱりとした性格だった彼女は、四十手前の正妃には年の離れた妹のような存在だった。生来の明るさに加え器量の良さゆえに、四方八方より可愛がられた。

 先王と正妃の間に儲けられたのが一男三女ということもあり、シレオも王族並みの教育を受けることができた。

 伸び伸びと育てられたシレオの環境が一変したのは、アストラやオクリースと共に前線へ赴いている最中だった。先王が病で逝去し王位継承の準備が進められていた王子が、突然の病に倒れた。床に臥してから数日あまりで、あっさりと息を引き取ったのだ。

 その後、先王の弟である叔父の息子への対抗馬として、当時最前線で戦い英雄として名高かったシレオが祭り上げられたのだ。

 叔父側に様々な問題があったとはいえ、シレオは愛人の子ども。加えて本人は不在。だれもが無謀だと思われた継承問題は正妃とウェルブム宰相の尽力により、意外にもあっさりと決着を迎えた。


 複雑な経緯で王となったシレオを、だれよりも傍で支えてきたアストラとオクリース。絶対的な信頼を置いている彼らにさえ弱音を吐かなくなった王に、二人は毎度肩を揺らすしかないのだ。

 星空を見上げているシレオのグラスに、ヴィヌムがなみなみと注がれた。


「こっちだって、何度も言っているだろ。俺たちの前では、強がる必要はないぞ。多少の愚痴を耳にした程度で、シレオへの信頼も王への忠誠も揺らぐような俺たちじゃない」

「えぇ。それに、学院時代、武勇伝に巻き込まれた身ですし。悪い方向の」


 オクリースの淡々とした嫌味に、武勇伝を生み出した当人たちは頬を引きつらせた。

 二人の様子に満足げに微笑んだオクリースは「おや、空ですね。次も白にしましょう」と、クーラーの中で氷に囲まれている瓶の栓を抜いた。


「私のこともだが、アストラもすっかり持ち直したんだね。いろいろ噂は届いているよ。だからさっきも、てっきり恋文を読んでたそがれているのだと思ったのだけれど」


 シレオの視線が、ちらりとアストラの上着に向けられた。

 もう一度見せろと言われるのだろうか。警戒したアストラは咄嗟に左胸のあたりを押さえた。


「ステラに食料の使いでも頼まれたのかい? 王宮では見かけない、懐かしいメニューも書かれているみたいだね。リスト……もしくは、新しい暗号とか」

「シレオ。アストラの家人が他とは違うとはいえ、さすがにそれはないでしょう。リストではありますが、どちらかと言えば、アストラの栄養剤ですね」


 オクリースの説明に、シレオは切れ長の瞳を瞬かせた。

 夜目でも薄っすら見て取れるくらい、色付いていくアストラの目元。図星とはいえ、内緒で保管しているヴィッテの食べたいものリストを見つめて、彼女を思っていたなどと知られるのは羞恥心がわいてくる。シレオが知りようのない事実とはいえ。


「食事に並べて欲しいのならば、可能なものだけでも朝食に用意させるが……王宮の食に飽きたのかい?」

「違うっ! シレオは昔から妙に鈍いところがある。これはヴィッテの食べたいものリストだ。疲れた時に眺めていると、元気が出るんだ」


 服越しでもヴィッテのリストに触れていると、彼女の笑顔や声が浮かんできて。アストラの頬は自然と緩んでいく。心にもぽっと火が灯る。

 ヴィッテの家で馳走になる際。実はリストの物を少しずつ手土産に混ぜていることに、ヴィッテ自身は気がついているのだろうか。

 アストラはくつくつと喉を振るわせた。

 万が一ヴィッテが質問してきたとしても、リストを返す気は毛頭ない。元気の源だと伝えたら、激しく動揺するであろう姿も愛おしい。アストラは無性に泣きたくなった。優しい気持ちになるのに、瞳が潤う理由が全く検討つかない。


「オクリースよ。アストラは奇妙な病にでもかかっているのかい?」

「気にかけたら負けですよ」


 オクリースは涼しげな顔で、瓶を傾けた。自棄酒に似た飲み方だと思うのは見当違いなのだろうかと、シレオは首を傾げた。

 話題の中心にいるアストラの耳には入っていないのだろう。椅子の背にもたれ、上機嫌にグラスを揺らしている。

 が、リラックスしたせいか、腹の音が盛大に響いた。


「さすがにすきっ腹で飲み続けるのはつらいな」

「仕方がありませんね」


 何が仕方ないのか。アストラは脇腹をさすりながら、むすりと口元を歪める。

 いつも通り、オクリースは相手にしない。静かな仕草で台車の中段から包みを取り出した。


「オクリース。その包みはなんだい? とても可愛らしい柄でオクリースにあってないけれど」

「異論はありませんが。これは私一人で頂くことにしましょう」

「まっまて! そのアプリコッツ柄の包み、ヴィッテのお気に入りのやつだろ! なぜお前が持っている!」


 アストラが椅子を鳴らして立ち上がる。愉快なポーズで包みを指差している。戦地の死神の面影は皆無。

 オクリースは耳をふさいでいる。

 シレオは、包みを見た瞬間にヴィッテという少女のものだと断定したアストラに驚いていた。親友は、本当に病なのかもしれない。それも医者では治せない部類のと。


「本日は半日勤務だったヴィッテが、よければアストラの夜食にと、わざわざ夕刻に持参してくれたのです。きのこと野菜たっぷりのキッシュですよ」

「お前……俺が、腹が減ったと言い出さなかったら、持ち帰って一人で食べる気だったろ」

「アストラは、ヴィッテの手料理を廃棄しろと言うのですか?」


 しれっと結びを解いたオクリース。はらっと開かれた先に姿を現したのは。白い陶器の皿に、ふわりと収まっているキッシュだった。冷めていても、食欲を誘う香りが風に乗る。

 ヴィッテの料理を目の前にして、喧嘩をするつもりはないようだ。アストラは眉間に皺を寄せながらも、おとなしく腰を下ろした。


「わかっているくせに、そんな言い方は卑怯だぞ」

「例の少女の差し入れか。楽しみだな。アストラとオクリースは、かなりの頻度で手料理を食べに赴いているのだろう? うらやましいよ。いつか私も交ぜて欲しいものだよ」


 叶わない願いだと知りながら。ぽつりと呟いたシレオに、二人の胸が小さく痛んだ。

 昔の彼なら、当然のように誘っていただろう。それに、ヴィッテとて喜んで迎えたに違いない。大切な人が想う人と繋がれるのは幸せだと。

 だが、彼は大国フィオーレの王。こうして自由に歩く時間を設けたのでさえ、やっとのことだったと二人は理解している。


「ヴィッテ自身には、数ヶ月先の魔術騎士団視察の際に会わせてさしあげますよ。ひとまず、目の前にあるキッシュで我慢してください」

「……そうだな」

「ヴィッテの料理はどれもうまいからな」


 なぜか自分が胸を張ったアストラ。

 オクリースが皿にキッシュを切り分けていく。夜食用だからだろう。ヴィッテ特製のタルト生地はない。腹に軽いようにだろう。それに、平素ならミンチの肉が入っていることが多いのに、野菜がたっぷりなのもアストラの体調を配慮してだと明らかだ。

 少女のさりげない気遣い。言葉にしないものの、三人の男性たちに十分伝わっている。


「うん。白いヴィヌムによく合うな」


 幸せそうに微笑んだアストラ。オクリースの口端にも、笑みが乗っている。

 シレオだけが、視線を固定したまま動かない。

 理由は単純だ。アストラとオクリースは、奥歯を噛み締める。

 シレオが王位についてからというものの、毒見を通した食事を口にするのが当たり前になっている。たった数年前までは、好きなものを好きなように食べていたのに。

 シレオの瞳に影が落ちた。


「なんだ。シレオはいらないのか。なら俺がもらうぞ」

「――っ! 言っていない。それにまだあるだろう! アストラは意地汚いな!」


 久方振りに声を荒げた気がする。シレオ自身が驚く中、アストラとオクリースは悪戯な笑みを浮かべていた。

 シレオは気まずそうに、あむりと口にフォークを突っ込んだ。頬を染めながら、やけ気味に顎を動かしていたシレオだが……徐々に俯いていった。


「素朴で……やさしい、味だな」


 それだけ呟き、シレオはもくもくとキッシュを食べ続ける。

 潤っていく瞳は夜の幻だと、親友二人は見ぬ振りをした。親友であり王である彼のその姿を心にだけは、しかと刻んで。

 アストラは自慢げにフォークを宙でくるりと回した。


「だろ! まぁ、ヴィッテの笑顔を見ながらは、もっと最高なんだけどな!」

「シレオの頑張り次第では、叶わぬこともないかも知れませんけれど。まぁ。貴方の場合、王妃を選んで安らぐ居場所を作るのが先決ですね」


 手厳しい言葉だが、口調はとても柔らかい。

 すぐ傍の木から、ほーほーと森の賢者の声が鳴っている。人に連れてこられた場所でも、変わることなく夜半に鳴る声。ささやき。

 

「あぁ。どちらも楽しみにしているよ」

「先に忠告しておくが、ヴィッテはやらないぞ」

「貴方はヴィッテの父親ですか」


 オクリースの呆れた声色に、アストラはあからさまに不機嫌になった。

 長く吐き出された息がやけに熱い。と、気がついているのは当人以外だろう。なんせ本人は求婚まがいの台詞を吐いている自覚はないのだ。たちの悪いことに、向けられている少女も。当人同士が家族の擬似愛だと勘違いしているのだから、どうしようもない。

 もどかしく思い、横からと企んでいる人間も少なくはないのに。


「上司としても、兄のような立場としてもだな!」

「……オクリースよ。私よりアストラの心配をしてやってくれ。無自覚は一番たちが悪い」


 王として報告を受けているだけの立場でさえも、アストラの一挙一動は上司のものでも、保護者のものでもないのは一目瞭然だ。

 オクリースの父であり宰相、またアストラの良き相談者でもあるウェルブム宰相が聞けば「馬鹿言ってるんじゃない、大将。良いのは頭の回転と顔、それに剣術だけかよ」と高笑いするに違いない。

 オクリースは己と正反対な性格の父の反応を想像し、苦笑するしかなかった。



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