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3月末に出た辞令を見て、沙紀ちゃんから「良かったね」というメッセージが飛んできた。
うん。すっごく嬉しい。嬉しすぎる誤算だよ。
--隣の席になったりして?
--それはそれで嬉しいけれど、でも緊張しちゃうから隣じゃないほうがいいかも。
--じゃあ前は? ずっと顔見られるよ。
--あー。それも無理っ。仕事にならないから。
沙紀ちゃんに返信したのと同時に、新しいメッセージボックスがパソコンの画面上にポンと現れる。
--4月からよろしくな。
石川さんから届いたメッセージに頬が緩む。
一担の石川さんは4月から四担に移ってくるらしい。
満期までのあと1年を石川さんと同じ担当で過ごせるなんてすっごい嬉しい。
四担の社員さんが二人異動になるって聞いてたから誰が移って来るのか心配だったけれど、まさか石川さんだったなんて。
佐久間さんのお気に入りだから、まさか佐久間さんが自分の担当以外に石川さんを譲るなんて思ってもいなかった。
あ、でも「りょーちゃん」がいるからいいのかな。
--よろしくお願いします。あんまり頼りにはならないかもしれないですけれど。
--いやいや。お局から解放されるってだけで浮かれて羽目外しそうで、桐野ちゃんのご指導が必要だからよろしくな。
嬉しい。
同じ担当ってだけで色々業務上絡むこと増える。
いつまでも発展しない関係にもやもやしていたけれど、これで少しは前に進めるかな。
信田さんと沙紀ちゃんみたいな進展はない。
相変わらず休みの日に二人が出かけるときに誘ってくれるけれど、殆どが駅で待ち合わせで駅でさようなら。
それ以上、例えば二人でご飯に行くとか映画を見に行くとか、そういった事には発展しない。
お昼当番が重なれば二人きりでランチに行く事もあるけれど、私以外の人と二人でランチに行く事だってある。それは例えば受付の人だったり、営業企画の人だったり、総務の人だったり。
決して私だけが誘われるわけじゃない。
メールだって電話だって私以外の人にもしてる。
石川さんはフットサルのチームを作っていて、社内の色んな人たちを誘っている。
休みの日にそのメンバーで集まっている事も知っている。
けど、私は誘われない。
沙紀ちゃんは、石川さんが私のことを好きだと思っていると言ってくれるけれど、どうしてもそうは思えなかった。
私ばっかりどんどん石川さんに惹かれていく。
なのに石川さんにとっての「特別」にはなれない。
響さんにはあんなにべったりだったのに、私にべったりするなんてありえない。
いつだって社員と派遣っていう線引きが間にあって、それ以上越えてくる事はない。
多分きっと私は石川さんにとって「女友達の一人」なんだと思う。
わかっているのに溜息が止まらない。
私もあの日の響さんみたいに「えり」って呼ばれてみたい。
甘ったるくて優しい、低くて心に染み渡るような声で。
だから同じ担当になるっていうのは、もしかして起死回生の大チャンスが巡ってくるんじゃないかななんて期待してしまう。
あっさり沙紀ちゃんには見透かされたけれど、石川さん本人には見透かされないようにしなきゃ。
席替えをした4月。
石川さんの席は隣でも前でもなくて斜め前だった。
そうだよね。もう6年目なんだから社員の中で一番末席って事はないよね。
他の支社から異動してきた4年目の岡野さんが私の隣に座って、私の前は空席になっている。だからどうしても視界には石川さんが入ることが多い。
今まで他担当だったから業務上でのお付き合いが全くなかったけれど、同じ担当になってみて石川さんが「出来る」人だという事がわかった。
とにかく与えられた案件に対しての初動が早い。
まだ四担の取引先とはあまり懇意ではないにも関わらず、要望を受けてスムーズに動く。
その時にわからない事があれば、あっさりと先輩社員さんや担当長に聞きに行く。
聞くことを恐れない。かといって、何度も同じ事を尋ねたりはしない。
それに自分では手に余るという事は、きちんと他の人に引き継いで、他人の領域を侵すこともしない。
ああ、なるほどこれが「A評価」の人なのかと思った。
誰が言い出したのかわからないけれど、「一担の石川はA評価の男」と言われているらしい。今は四担だけれど。
私は実際に誰がどういう評価を受けているかなんてしらないけれど、石川さんがずーっとA評価を取り続けているという事は知っている。
だから今回の異動でも何故他の課や他の支社。もっと言ってしまえば何故本社に異動にならなかったのかが不思議でしょうがない。
本社営業部から引き抜かれてもおかしくないと思うのだけれど。
「桐野ちゃん、明日G社と打ち合わせがあるから、それまでに資料を用意しておいて貰ってもいい?」
「いいですよ。資料の原本は石川さんのフォルダですか? 何部必要ですか?」
メモを片手に斜め前に座る石川さんに尋ねると、目の前にメモ帳を一枚差し出される。
「これでよろしく。あとG社の過去の決裁は書庫?」
「はい。書庫です。取ってきましょうか?」
「いい。自分で行く。それよろしくね」
「わかりました」
立ち上がって書庫に行く石川さんが、通りすがりにポンっと頭を撫でていった。
その手を振り返ると、石川さんが煙草を吸うジェスチャーをする。
はいはい、書庫に行くついでに喫煙所ですね。
席を外す時にはちゃんと教えてくれるし、自分で出来る事は自分でする。
面倒くさい事は全部派遣にやらせればいいという感じの社員の人も多いのに、石川さんは何かと自分で動く人だ。
決裁を取ってくるのだって、なかなか自分でやる人なんていないのに。
そういうところもいいなあと思う。
明らかに立場が下な派遣を顎で使う佐久間さんみたいな社員さんだっているのに、石川さんは偉ぶったところもない。
石川さんに頼まれた書類をコピーしようかと思って沙紀ちゃんに電話番を頼もうかと振り返ったら、沙紀ちゃんが石川さんと連れ立って喫煙所に行くところだった。
浮上した気持ちが、二人の笑顔でちっちゃくなる。
わかってるんだ。ちゃんと。
沙紀ちゃんがなんだかんだ言っても信田さんラブで、半同棲状態だって事も知ってる。
信田さんと石川さんが仲がいいから、必然的に沙紀ちゃんとも仲が良いって事も。
だけれどああいう風に誘ってくれる事が少ないから、ついつい沙紀ちゃんに対しても嫉妬しちゃう。
こういう時、自分が醜くて本当に嫌になる。
誘ってくれない事がじゃなくて、ただの同僚じゃなくて友達の沙紀ちゃんに対してもこんな風に思う自分が嫌で泣きたくなる。
恋ってこんな風に自分の汚いところばかり見えるものだったのかな。
最近、いっそ当たって砕けたほうがいいんじゃないかとさえ思えてくる。
だけれど同じ担当でまだまだ一緒に仕事していくのに、気まずくなるのも嫌だし。
それにもしこの気持ちが知られたら、もう一緒に野球を見に行く事さえ出来なくなっちゃうんじゃないかって。そう思ったら一歩を踏み出す勇気が持てない。
どんな形でもいい。傍にいたい。
9月。
一担に一人の派遣さんが新しく入った。
半年ごとに派遣さんが変わる一担にまた新しい人が来たんだなっていう認識で、多分私以外もそうだったのだと思う。
だけれど今までの派遣さんと、加山さんは違った。
仕事の事もそうだけれど、違う意味でも。
「ゆう」
四担の席はコピーブースに近い。
コピーブースに加山さんが来ると、石川さんがコピーブースへと声を掛ける。
特別だといわんばかりに「加山さん」ではなく「加山ちゃん」でもなく「ゆう」と彼女の名を呼んで。
ギリギリと胃が痛む。
そんな二人の姿に、かつての響さんとの姿を思い出す。
「コピー?」
「スキャンですよ。石川さんはどうしたんですか?」
「プリンターに書類取りに来た。まだスキャン始めてない?」
「まだですよ」
「じゃあ煙草行かね? 俺そろそろヤニ切れだから付き合ってよ」
「いいですけれど。煙草、机に置きっぱなしなんです」
「一本やるから付き合えって」
「……いいですよ」
会話も丸聞こえで耳を塞ぎたくなる。
だけれど顔を背けることも、耳を塞ぐ事も出来ない。
二つの足音が遠ざかっていくのを背中に聞くことしか出来ないでいる。
誰にも気がつかれないように溜息を吐き出す。
多分、私じゃないんだ。石川さんが選ぶ人は。
加山さんへの態度と私への態度の違いを思い知る。嫌でも目に入ってしまう、二人の姿で。
それでも石川さんは休みの日には野球に誘ってくれる。
二人じゃないけれど、プライベートな時間を共に過ごす事だってある。
でもいつだって、家に帰ると泣き出してしまいそうになる。
好きだから傍にいたい。誘ってくれるのは嬉しい。
だけれどこんな生殺しみたいな状態、もう辛くて耐えられない。




