【第4章】 星空キャンプ編 32
32
「どうしよう」
奈緒がぽろぽろと涙をこぼした。
「なっちゃんが、ほんとに連れて行かれちゃった」
春香は下唇を噛みしめた。
奈緒の方を見るが、その輪郭がぼやける。眼鏡がないから当たり前だ。
あかりが言う。
「ランプの読み通りだったわね。田代のやつ、子どもの顔なんてろくに覚えてなかったわ。眼鏡と名札の交換だけでころっとだまされるなんて」
ナツの作戦はこうだ。
相手の目的は春香。ということは、春香を渡してしまえば、相手は勝利するのだ。
なら、身代わりを渡すのはどうだろう。
田代はどうせ子どもの顔なんてよく覚えていない。きっと、眼鏡や名札で見分けている。それをひっくり返せばきっとわからなくなる。少なくとも不安になるはず。そこに隙ができるかも。
もし完全にだまされた場合は、確実に油断する。そのすきに倉庫を逃げ出すことができるかもしれない。なんなら、頃合いをみて、身代わり自身が真相を明かして場を乱してもいい。
もし、奇跡的に気づかれないままナツが元大臣のもとまで連れて行かれれば、元大臣は「だれだこいつ」と面くらい、田代は面目丸つぶれ。運がよければ、用もないナツは解放されるかも知れない。その場合は、他のメンバーも解放されているはずなので、完全勝利だ。
どう転ぶかはわからないが、素直に春香を渡すよりは確実に相手側を混乱させる事が出来るはず。少なくとも時間が稼げる。
そんな大雑把な案だった。穴も多い。そもそも春香を回収に来たのがすずだったら、ごまかせなかっただろう。
それにリスクも半端ではない。
相手の目的がいまいちわかっていない中でのこの作戦はナツ一人に危険が高すぎる。場の全員が反対したが、「じゃあどうするの。何もせずにいいなりになるの」というナツの言葉に誰も反論できなかったのだ。
そのタイミングで田代の足音が聞こえ始めたので、全員が大慌てで動き、今に至る。
両手が拘束されているので入れ替わりはかなり難易度が高かったが、後ろ手は手首で拘束されており、指が使えるのが救いだった。後ろ向きの手探りで名札を移し替えるのは、ナツに針を刺してしまわないかヒヤヒヤした。
倉庫の中は春香が手探りでリュックから取り出した懐中電灯でおぼろげに照らされていた。
荷物は子どもの分だけで、あかりとゆきおちゃんの荷物はなかった。おそらく、子ども用のリュックは目立つからとりあえずここに放り込まれたのだろう。他にはすぐに使えそうなものがなかった。
懐中電灯の光のもとに、四人は集まって、顔を見合わせた。
作戦はとりあえずうまくいった。
だが、春香達も予想していないことがあった。
ナツがすぐさま眠らされたこと。これにより、ナツが相手の懐で正体をばらして混乱させる作戦は使えなくなったし、ナツの自力での脱出も難しくなった。
奈緒が3人の目を交互に見る。
「結局、何が目的なのかな。大臣さんは」
わからなかった。
あかりも首をひねる。
「死に際に気まぐれに良心が芽生えたとかじゃあないみたいだしね」
気がかりなのが、田代の言葉である。
『後ろの奴らにお別れでも言え。もう会えねえだろうからな』
どういう意味だろう。今生の別れとしか聞こえない。少なくとも死にかけの老人が最後にひと目、娘に会いたいというハートフルストーリーではないことが確定してしまった。
ゆきおちゃんが呟く。
「わからないのは、相手があくまで春香さんだけに固執している事ですね。跡継ぎなどではないのであれば、逆に相続争いとかどうですか? 春香さんに元大臣の遺産が相続される予定で、それを奪おうとする第三者がいるとか」
これまでの予想で最も現実感がある話だったが、春香は首を振った。
「それはないと思う。私はそもそも父に戸籍上で認知されてないの。多分、手続き上は美和子さんが無関係の孤児を引き取ったって形になってるはず」
奈緒が眉をひそめる。「なにそれ。ひどすぎ」
「では、戸籍上ではなく、血縁関係だけに目的があるということですね」
そう呟いたゆきおちゃんは険しい顔をしていた。何かに気が付いたのだ。
あかりは「血縁関係・・・・・・」と繰り返して、さっと顔色を変えた。みるみる顔から血の気が引いていく。
それを見て不安になった奈緒が「え、なにどうしたの?」と不安げな声を出す。あかりは蒼白な顔で春香に問いかけた。
「春香の父親は、もう・・・・・・本当に助からないの?」
春香はよくわからずに頷く。そして、美和子に聞いた情報をそのまま伝えた。
「う、うん。末期だって。それこそ、心臓をとっかえないことには、もう無理だって・・・・・・」
あかりが唇を震わせながら、繰り返した。
「心臓をとっかえる・・・・・・」
すーと倉庫の気温が下がった気がした。二の腕にぶわりとトリハダがたつ。
あかりは呟いた。うわごとのように。
「免許証・・・・・・脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植のために臓器を提供・・・・・・でも、親族以外では適合することはそうそうない」
奈緒が「なに? なんのこと?」と泣きそうな声をだした。
ゆきおちゃんも呟く。
「完璧な適合率は親族以外なら1000分の1まで確率が下がります。それに、ご老体となれば、ドナー提供の優先順位もかなり下がるはず。短時間でドナーが見つかる確率はそれこそ」
天文学的確率だ。
あかりが絶望的な表情でゆきおちゃんを見る。
「それが、確か、親子間なら・・・・・・」
「ええ。直系親族であるならば、適合率は」
ゆきおちゃんは言った。
「2分の1ほどです」
それはきっと、死の淵にいる老人にとって。
千載一遇だ。
「そ、そんなわけないよ!」
奈緒が叫んだ。必死に首を横に振る。
「そ、そんな2分の1っていっても、50パーセントってことでしょ! そんな不確かな、ほんとに適合するかもわかんないのに、こんな大がかりなことする?」
そ、そうだ。精密検査でもして、適合が確定した後であるならばまだしも。
・・・・・・検査?
春香は震える声でゆきおちゃんに聞いた。
「適合率の、検査ってどうやるんですか」
ゆきおちゃんは苦々しい表情で言った。
「HLA検査については簡単です。採血をして、血液を調べるだけですから」
採血。
美和子さんの声が頭に響く。
『ずいぶん厳重ね。子供のキャンプごときで事前説明会だなんて。しかも、健康診断まで。検尿に、この後は採血まであるらしいじゃない』
注射器に吸い込まれていく自分の赤い血。
「ああ・・・・・・あああああ」
なんて楽観的だったんだ。自分は。
まだ少し思っていた。
もしかしたら、父は単に自分に会いたくなっただけなのではと。
もしかしたら、父は謝ってくれるのではないかと。
もしかしたら、側には母もいて、また一緒に暮らそうと言うのではないかと。
そんなわけないだろう。
父がそんな奴なわけ、ないだろう。
老いた父は娘に会いたいなんて思わない。
死の淵の老人は誰かに跡を継がせようなんてこともさらさら思ってもいない。
ただ、自らの生に、権力に浅ましくしがみつき、生き延びようとしているのだ。
春香の命を、心臓を奪い取って。




