【第4章】 星空キャンプ編 30
30
PM 5時
冷たい床を頬に感じた。
ああ、また、あのマンションの部屋に戻ってきたのだろうか。
だとしたら、シズカにまた会えるのだろうか。
だったら謝ろう。謝って許してもらって、また二人で流れ星を見に行くんだ。
「春香」
呼ぶ声が聞こえる。
「春香。起きて」
微妙にシズカと声色が違う。
「春香!」
そうだ。なっちゃんだ。この声は。
そう意識の線が繋がった瞬間、春香は目を覚ました。
春香が頬で感じていたのはあの部屋のフローリングではなかった。もっと固い、コンクリートの床だった。暗い。ほとんど真っ暗だ。慌てて身を起そうとするが、失敗する。そこで気が付いた。
両手が後ろ手で縛られている。
パニックになって、春香は身をよじった。芋虫のようにコンクリートの上をのたうち回る。
「春香。落ち着いて」
ナツが春香の顔をのぞき込んだ。春香も動きを止めてナツを見返す。
「みんな。春香が起きたわ。身を起すのを手伝って」
すると、背中に誰かの足が差し込まれ、持ち上げられた。その力を頼って、身を起し、座り込む。春香は周りを見回した。
見覚えがある。今日、ナツと一緒に忍び込んだ倉庫だ。その証拠に、自分たちが持ち出さなかった花火が隅に転がっている。その隣に、春香達のリュックも無造作に転がされていた。
もともと窓がない部屋ではあるが、ドアの隙間からわずかに入る光も頼りなかった。どうやら陽が沈みかけている。
そんな広さ八畳ほどのコンクリートの空間に、春香と同じように後ろ手を縛られた人間が4人座り込んでいた。みんなの後ろに組まされた手首は、ガムテープでぐるぐるに巻かれていた。
ナツ。奈緒。あかり。ゆきおちゃん。
「私たち、田代につかまったのよ」
あかりが苦々しげに言った。鼻の下にわずかに鼻血の跡がある。田代に殴られていたのは春香の夢ではなかったらしい。
「んで、なんであんたまで捕まってるのよ!」
あかりが座ったまま、ゆきおちゃんに蹴りを入れた。器用だなあ。
「痛い! 仕方ないじゃないですか! 田代さんが、車の故障だ。手伝ってくれって言って車から降りてきたから、手伝おうと軽トラを降りたら、回り込まれて後ろからガツンですよ。どうしようもないですって」
春香は、事態が飲み込めずに、きょろきょろと目を走らせた。
奈緒は体操座りでしくしくと泣いていた。当然の反応だ。
ナツは両手を後ろ手に縛られたまま、あぐらをかいて、天井を見つめてなにやら考え込んでいた。こっちは落ち着きすぎだ。
そして、春香はどうしてもわからない問いを場に投げた。
「・・・・・・なんのために?」
しんと倉庫が静まる。誰にもわからないのだ。
しかし、そこで、奈緒が泣きじゃくりながら言った。
「た、多分、私のせいだ。私が社長の娘だから。誘拐されたんだ」
身代金目当てか。
ありえない話ではない。奈緒の父親がどれだけ金持ちなのかは知らないが、春香でさえ名を聞いたことがある企業の社長だ。それなりの財力があるのだろう。
「ちがうわね」
奈緒の言葉を否定したのはナツだった。
「その程度の目的で、こんな大がかりなことをするなんて意味がわからない。冷静に考えて、奈緒を一人さらいたいのであれば、学校の帰り道にでも拉致すればいいだけの話のはず」
確かに。
「それはもちろん、私も一緒。そもそも私の家はちょっと貧しい一般家庭だから、誘拐なんて誰もしないでしょうけど」
ナツはそこで、あかりとゆきおちゃんの方を向いた。
「あなたたちは?」
あかりが答えた。
「私は家出した身よ」
「僕は医学生ですが、実家は貧しいです。学費は奨学金です。僕、優秀なんで」
ナツはゆきおちゃんのさりげない自慢を無視して、春香に向き直った。
「春香。あなたの母親は有名な弁護士だったよね」
「う、うん。でも、そんなお金稼ぎをしている訳ではないよ。余ったお金は寄付しちゃうし」
「お母さんの敵とかはいる?」
「・・・・・・いないと思う。目立ってはいるけど、やってることはかなり地味だし。感謝されることはあっても、恨まれるようなことは・・・・・・」
「そう。でも、言ってたわよね。春香、学校への送り迎えは全部お母さんがしてくれて、自分一人では外出も出来ないって。そして、キャンプ中も毎日電話連絡をして、無事を確かめられてる」
「それは、美和子さんが過保護なだけで・・・・・・」
ナツは春香の言葉を遮った。
「過保護と言うことは、言い換えれば、明確に春香を保護しようとしているという事よ。つまり、お母さんには、春香には、警戒しなければならない存在がいたってことじゃないの」
4人の視線が春香に集中する。そんな。そんなはずない。美和子さんが過保護になったのは、最近のことだし。そう、それこそ。
「そ、それは、私の実の父親が、私たちを捨てた父親が、私に会いたがってるらしいから。美和子さんは会わせたくなくて・・・・・・」
当然だ。私たちを見捨てた父親なんだから。美和子さんが一目だって会わせようとするはずがない。春香だって正直、死んでも会いたくない。
「そう。ところで、そのあなたを捨てた父親は、どうして春香に会いたいって言い出したの? 今さら」
「それは・・・・・・」
春香は言葉を濁そうとした。だが、ナツの瞳に見つめられてはごまかすことが出来なかった。
「なんか、病気みたいで。もう、長くないらしくて」
ナツは「そう」とつぶやき、「もう一つだけ」と質問を重ねた。
「その、父親の名前は?」
倉庫は静まりかえり、全員が春香の返答に耳をそばだたせた。
春香は、ぽつりと言った。
「立花・・・・・・ 浩一郎」
ナツが息を飲んだ。
あかりが目を見開き、ゆきおちゃんが口笛を鳴らす。
奈緒一人、訳がわからなかったようで、「え? だれ? だれ?」とキョロキョロしている。
あかりが言った。
「元、総務大臣よ。一時期は次の首相の最有力候補って言われてた。でも、最近になって体調不良で一線を退いたはず」
ゆきおちゃんが付け加える。
「それでも、かなりの権力を持っていて政治に裏から手を引いていると言われています。かなり優秀で抜本的な政策をぼんぼん打ち出していましたが、その反面、裏社会とも繋がっているとか、黒い噂も絶えない人でしたね。なんにしたって、超大物ですよ」
ナツがため息をつく。
「これで合点がいったわ。そんな人の娘をさらおうなんて、まともな神経を持っていれば考えつかない。むしろ、その元大臣が黒幕であると考えるほうが自然ね。これだけ大がかりなことをしても、その男ならなんとか握りつぶせるんじゃないかしら」
奈緒が納得のいかない顔をする。
「そ、そんなこと出来るの? マスコミとかがばらすんじゃないの?」
あかりが吐き捨てるように言った。
「できるんでしょうよ。現に、立花大臣に春香みたいな隠し子がいたなんて超特大スキャンダル、聞いたこともないわ。情報操作なんてお手の物なんでしょうね」
「そ、そういうものなの?」
混乱する奈緒にナツが慰めるように言った。
「そういうものなの」
春香は混乱していた。確かに、こう聞くともう春香がターゲットであり、それにみんながまきこまれたとしか考えられない。でも、何のために?
「跡継ぎがほしかったとか?」
奈緒がぽつんと言った。
「その大臣さん、死んじゃいそうなんでしょ」
春香は頷いた。
「うん。心臓の病気で、もう助かりそうにないみたい」
「じゃあ、やっぱり、後継者がほしいんだよ。だから、死ぬ前にハルちゃんに会いたいんだ。でも、美和子さんが邪魔するから、このキャンプがチャンスだと思って・・・・・・」
奈緒は納得したという風にまくし立てたが、ナツは黙っていた。あかりも。ゆきおちゃんも。
そんな簡単な話なのだろうか。
後継者? 政治家というのは、そんな手元に来たからといって跡を継げるようなシステムではないだろう。王族じゃあるまいし。
それに、美和子さんの話では、あの男には正式な息子や娘が何人かいて、中には秘書になった息子もいた。後継者なんて間に合っているはずだ。
じゃあ、なんだ。死ぬ間際になってもう一人いたはずの娘に会いたくなっただけか。
今さら? 美和子さんが引き取ることになった時は見向きもしなかったくせに?
母を見捨て、子を見捨て、それでいて、最後の最後に気まぐれで手を差し出す。
そんなの、おおぐま座とこぐま座を生み出したゼウスのようではないか。
傲慢が過ぎる。
倉庫の中になんともすっきりしない空気が流れた。奈緒も自分の考えが微妙に的外れであったことを周りの反応から感づいたのだろう。言葉が尻切れトンボになり、ついに黙った。
ナツが沈黙を破った。
「なんにせよ、田代の目的は春香の誘拐である可能性が高いわ。だとしたら、このあと、春香だけを回収にくるはず。元大臣のところに連れて行くために」
春香はごくりと唾を飲み込んだ。あの男に会わなければいけないのか。私、一人で。
あかりが言った。
「よくわからないけど、とりあえず阻止するわよ」
ナツも頷く。
「こんなことをしてくるやつら、ろくなものじゃない。そんなやつらに春香を渡すわけには行かない」
あかりが首をコキリとやった。
「戦うわよ。拘束されているとはいえ、田代ひとりぐらい、この五人で一斉に襲いかかれば、どうとでもなるでしょう」
奈緒も叫んだ。
「そうだそうだ! 戦争だ!」
そこに、ゆきおちゃんが「やめておいた方がいいですよ」と水を差した。
「なんでよ! あんた、日和ってんの?」
あかりがゆきおちゃんを睨み付ける。ゆきおちゃんは肩をすくめた。
「聞いた話だと、田代さん、元、プロボクサーらしいですから。ミドル級のチャンピオンベルト持ってるって言ってました」
しんと場が静まった。あかりが、「チートかよ・・・・・・」と呟く。あかりの鼻血の跡が、話に説得力をもたらしていた。
「もう一つ。気になる点。さっきから施設全体が静かすぎるわ。誰もいないみたい」
ナツの言葉で春香も違和感に気づく。
日中、ここに忍び込んだ時でさえも、少なからず喧噪が届いていた。宿泊棟や食堂が近いからだ。
しかし、今は何の物音も届いていない。
あかりが眉をひそめる。
「確かにおかしいわ。子どもが三人も行方不明なのに、なんの騒ぎにもなってないなんて」
ゆきおちゃんが推測する。
「田代さんが嘘をついたのでは? もう全員見つかったと」
あかりが首を振る。
「それは無理があるわ。すずが、大野ディレクターと保護者に連絡してもらっているはずだもの。大野ディレクターは子どもが遭難したとなれば、見つかったと言われても、3人の顔を見ないと納得しないでしょうし。もし大野ディレクターをごまかせたとしても、すずと保護者3組が黙ってないわ」
春香もその通りだと思った。美和子さんは口先だけでごまかされるようなタイプじゃない。春香に会うまでは安心しないはずだ。
じゃあ、どうしてこんなに静かなんだ。
ナツがぼそりと言った。
「じゃあ、そもそも、すずが誰にも連絡していなかったとしたら?」
場が、水を打ったように静まりかえった。
春香は食堂でのすずとの会話を思い出した。
『あら? ここの二人は?』
『トイレです!』
『そうなの。二人とも?』
『はい。二人ともです』
『あのね、スピカちゃん』
『は、はい』
『ちょっと、二人で話をしましょう。別室に来てくれる?』
『え? ふ、二人でですか?』
『ええ。大事なお話なの』
『あ、あの。二人が戻ってきてからでもいいですか?』
『ダメよ。今すぐ来て欲しいの』
あの時、春香はてっきり悪事がバレて、怒られるのだろうと思った。しかし、そもそもおかしい。だって、叱るのならば、3人揃っての方が良いに決まっているのだから。
すずは春香だけを連れ出そうとした。
ナツとランプがいないタイミングで。春香だけを。
どこに連れて行こうとしたのだろう。
ナツが目をつぶる。
「すずがミオンからの連絡を握りつぶして、誰にも言わなかったとしたら、そりゃあ、誰も騒ぐわけないわ」
ゆきおも諦めたような息を吐いた。
「田代さんはゲートの管理者ですからね。騒ぎにさえなっていなければ、あの3人は迎えが来て親と一緒に帰ったとでも報告すればそれですんでしまいます。それに、すずが、自分も立ち会ったとでも口裏を合わせれば、誰も疑うはずがない」
そして、きっと、脱走の件はおろか、キャンプが長引いた件についてすらも、すずは保護者に伝えていまい。美和子さんが電話先で知らなかったわけだ。
そして、大野ディレクターも、他のリーダー達も、子ども達も、安心してバスに乗り込んで帰ってしまったのだ。子ども達がいなくなれば、当然、職員も全員帰宅する。
今、この施設にいるのは、ここにいるのは、倉庫で縛られた5人だけだ。
助けを求めようにも誰もいない。
いや、むしろ、なにかしら理由を付けて、田代とすずは残っているのだろう。
田代だけならまだなんとかなったかも知れないが、もう一人敵がいるのならば、状況が全く違う。両手を縛られた状態ではどうしようもない。
場に諦めの空気が漂った。
「みんな、もういいよ」
気が付くと、春香はそう呟いていた。
「私が大人しく連れて行かれるよ。それで、一件落着でしょ」
春香はへにゃりと笑った。それが笑顔になっていないことなんて自分でもわかったが、それでも無理矢理にでも笑った。
「父親に会ってさ、12年分の恨み言をぶつけてくるよ。そのあと何されるかわかんないけど」
正直、もうどうでもいい。
シズカもいないし。
流星は見れないし。
自分のために頑張ってくれた人たちを巻き込んでしまったし。
あの男には正直会いたくないけれど。
本当のところ、いやでいやでいやでたまらないけれど。
もう、私さえ我慢すればいいんだったら、そうする。
だって、これまでそうしてきたんだもん。平気だよ。
そうして、もう一度、春香は笑顔を作った。
その春香の胸をナツが思いっきり蹴り飛ばした。
「・・・・・・! いたい!」
ぶっ倒れて、天井を見上げた春香にナツが馬乗りになる。ぽかんと見上げる春香の額に向かって、ナツが思いっきり頭突きを放った。
春香の頭がナツの額とコンクリートに挟まれて鈍い音を立てる。春香は悲鳴を上げた。あかりが叫ぶ。奈緒も叫んだ。その全てをかき消すような大声でナツは叫んだ。
「あきらめてるんじゃないわよ!」
ナツが春香を睨み付ける。
「春香。あなた、ひどい目にあってきたんでしょ。さんざん虐げられてきたんでしょ」
ナツはそこで、小さく息を吸い、叫んだ。
「だったらなおさらあきらめるんじゃない! あんたのことをないがしろにしてくるようなやつらに、自分の運命を預けるんじゃない! 戦いなさいよ! 今持ってるもの、全て使って、戦いなさいよ!」
春香は言い返そうとした。でも、言葉が見つからなかった。
私の気持ちなんてわからないくせに。そう言おうかとも思った。勝手なこと言わないで。そう叫ぼうかとも思った。
でも、言えなかった。ナツが、斉藤ナツという少女は、無責任な事を言う人間ではないことを知っていたから。これまで春香が何人も出会ってきたような、薄っぺらい同情を貼り付けたり、浅い共感を示してきたりするような人間ではないことを、春香はもう知っていたから。
「あんたは、7歳の頃、戦ったんでしょう。その時、持っている全てを使って、戦ったんじゃない」
ナツの言っている「戦う」が、暴力を振るう母に立ち向かったと言う意味ではないことは春香にはわかった。針金を使って鍵を開け、初めて外に飛び出したことを言っているのだ。
「そこで、確かに大切なものを失ったのかも知れない。それは取り返しのつかない出来事だったかもしれない。でも、そこで戦ったからこそ、今のあなたがいるんじゃない。12歳の立花春香がいるんじゃない!」
春香は吸い込まれるようにナツの瞳を見た。
「あんた、今、7歳の自分に顔向けできるの? あんたのために命を張った、シズカに顔向けできるの!」
シズカ。
「戦いなさいよ!」
ナツの瞳から、ぽつりと一粒だけ、涙がこぼれ落ちた。
つらいだろうなあ。こんなことを言うのは。
どう考えても悲惨な過去を背負った相手を、その過去を知った上でこんな風に怒鳴りつけるのは。
でも、この子はそれをするんだ。
だって、なっちゃんなんだもん。
「・・・・・・そうだね。顔向け、できないね」
春香はナツに組み敷かれたまま、ふーと息を吐いた。
「ごめん。ちょっと日和った。私、戦うよ」
ナツが、ふっと笑う。春香も笑った。これはきっと笑顔になった。
ナツが春香の上をどき、あかりが足で春香を助け起した。少しだけ、穏やかな空気が倉庫に漂う。
しかし、そこで、奈緒の一言が場をまた現実に引き戻した。
「で、どう戦うの?」
あかりが顔をしかめる。
元プロボクサー一人と、見るからに動けそうな健康的な女性ひとり。
それに対し、こっちは両手を縛られた家出娘と、ひょろガリ眼鏡の医学生と、小学生女子3人。
分が悪いどころではない。
そこで、満を持したように、ナツが言った。
「ひとつ、作戦があるの」
ナツの口から提案された作戦は、春香にとって受け入れがたい内容だった。
しかし、あかりも、ゆきおちゃんも、奈緒も、春香でさえ、それ以上の代案を思いつかなかった。




