【第4章】 星空キャンプ編 29
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熊を追い払ったのは、立花春香の鉈ではなく、清水奈緒の木の棒でもなく、斉藤ナツの拳でもなく、かといって、岸本あかりの覚悟でもなかった。
軽トラのクラクションだった。
熊があかりの怒鳴り声に呼応するように咆哮し、二足立ちになってあかりに迫った瞬間だった。
広場の左端から、クラクションを盛大に鳴らしながら、軽トラが乗り込んで来たのだ。
春香はまずこの草原に車道が繋がっている事に驚いたが、考えてみればあたりまえだった。以前はキャンプ場だったのだから。ハイキングコースも残っているほどなのだ。車道も当然残っている。
猛スピードで突っ込んでくる白い巨体には、熊は勝てないと判断したのだろう。例のごとくさっと踵を返すと一直線に森の中に消えていった。
軽トラは4人の前まで来て横付けされ、爽やかに笑ったゆきおちゃんが顔を出した。
「あれ? これ、僕がみんなを救った感じかな?」
その頭をあかりが「おせえんだよ」と小突いた。結構痛そうだ。気持ちはわかるけど、助けてもらったのは事実なので、ちょっとひどいのではないか。
そう思った瞬間、あかりがこちらを振り向いた。ぎろりと春香達3人を睨み付ける。
その迫力に、春香達は一瞬で背筋が伸びるのを感じた。
ゴン。
ナツが頭に鉄拳を食らった。なかなかの音だった。ナツがうめき声を上げながら頭を抱えてしゃがみ込む。
次に、あかりは奈緒を睨み付けた。「ひっ」と声を上げた奈緒は慌ててまくし立てる。
「体罰? 体罰なんてもう認められる時代じゃないんだよ! 殴ってみなさいよ! 絶対にパパに・・・・・・」
ゴン。
明らかにナツの時よりも勢いのある拳が、奈緒の頭頂部に直撃した。奈緒が一瞬で黙り込み、ナツの隣にしゃがみ込んだ。痛みのあまり声が出ないのだろう。奈緒が完全に無言でもだえているのが逆に怖かった。
あかりが春香を睨み付ける。振り上げられた拳に、春香は肩をすくめた。
そこで、あかりの拳が、一瞬止まった。
春香は思った。そうだ。あかりとは一緒にお風呂に入った仲だし、過去の話を打ち明けてもらった関係でもある。きっと・・・・・・
しかし、春香は失念していた。かわいさ余って憎さ百倍という言葉があることを。
ゴン!
春香は思った。私が一番強く殴られたと。目の前に火花が散った感覚とすさまじい痛みに苦しみながら、3人揃ってしゃがみ込む事となった。
その子ども達の頭に向かって、あかりが叫んだ。
「あんたたち何考えてんの! 死ぬとこだったのよ!」
しゃがみ込む春香の目から、また一筋、涙がこぼれた。
ゆきおちゃんが「まあまあミオンさん」と止めに入ったが、あかりは「あんたは引っ込んでて!」と叫んで黙らせた。
「そりゃあ、嫌なことはあるでしょうよ。納得できないことも! 譲れないことも! でもね、だからって、好き勝手して良いわけないでしょうが!」
あかりは怒鳴った。握りしめた両手を震わせながら、全力で。
だから、心に響いた。
「忘れんじゃないわよ! どんなに苦しいときも、どんなに悲しいときも、どんなに腹が立つときも、絶対にあんたたちのために考えて、決断して、行動して、心配してくれてる人がいるの!」
春香の脳裏に美和子さんが浮かんだ。
あかりの脳裏には、誰が浮かんでいるのだろう。
「その人たちの気持ちを、気遣いを、やさしさを、ないがしろにする人間にはなるな!」
あかりは、そこまで叫ぶと、はあはあと息を吐きながら、腰に手を当て、うつむいた。
奈緒がポロポロと涙をこぼしながら、「・・・・・・ごめんなさい」と、そう言った。
ナツはだまって、地面を見つめていた。
春香は、立ち上がった。まだ頭は痛かったし、あかりの大声で、ちょっと耳がキーンとした。そんな状態で、どうしてそうしたのは自分でもわからなかったけど、春香はあかりの腰に抱きついた。
あかりがぽんと春香の頭に手を置く。
「・・・・・・もう、やっちゃだめよ」
春香はあかりのお腹に顔を埋めるようにして、頷いた。
春香達は軽トラの荷台に乗り込んだ。
本来は荷物を載せる場所だが、軽トラには運転席と助手席しかないのでこればっかりは仕方がない。荷台に人を乗せるなど、きっと法律的には完璧アウトだろうが、事態を鑑み、これに関しては全員が目をつぶることにした。
春香達3人はカッパを脱いでリュックに詰めた。春香の鉈はあかりに取り上げられた。奈緒の木の棒は没収を免れたようで、奈緒はそれをリュックのポケットに突き刺していた。持って帰るつもりだろうか。 そのリュックを抱えるようにして、荷台に3人揃って腰を下ろした。運転席を覗くことができるリヤウインドという窓の下に頭をもたれさせる。全員ぐったりとしており、お互いの肩を乗せ合う事によって体重を分け合い、辛うじて座った姿勢を保っていた。
運転席にゆきおちゃんが、助手席にあかりが乗り込む。
「ちゃんと掴まってなさいよ」
あかりが声をかけたが、緊張が一気に解けて放心状態の3人は生返事しか出来なかった。
ゆっくりと軽トラが走り出す。
ガタガタと揺れながら、雨上がりの草原の上を春香の視界が移動していく。
草原には雲の切れ間を抜けて、夕日がまざったような暖かい色の光がカーテンのように漂っていた。濡れた草が淡く光る。
ふと、森の方に目をやると、一本の木の陰に半身を隠すようにしたツキノワグマの姿があった。初めて見たときのように2本足でぬっと立ち、こちらの様子をうかがっている。
こうして安全な場所から見ると、なんだか小さく見えた。実際、そこまで大きくはない。動物園で見られるパンダの方がきっともっと大きいだろう。さっきまで恐ろしかった黒目の怪物が、ただのぬいぐるみのように見えてくる。そう考えると、さっきまでの命がけの冒険が、なんだか夢を見ていたかのように感じられた。
その姿が、春香の視界の中でどんどんと小さくなっていった。
それを見て、自分たちの冒険が終わったことを春香は悟った。
結局、流星群は見れなかったな。
「また、チャンスはあるわ。一生に一度というわけでもないでしょう」
ナツが春香の心を読んだかのようにつぶやいた。
奈緒も「そうだよ。来年も来ようよ」と柔らかい表情を作った。
「うん」と答えながらも、春香は思った。きっとこの3人が揃うことはもうない。このキャンプが終われば、私たち3人の関係は終わるだろうと。何の根拠もなかったが、春香の中では確信めいたものがあった。
そして、きっとシズカにも、もう会えない。なぜかそう思えてならなかった。
軽トラが草原を抜けて小道に入った。一つ目のカーブで、草原の開けた景色は木々に埋もれ、立ちすくむ熊も見えなくなった。
「お前ら、道路交通法とか知らんのか」
そう言って5人揃って田代警備員に怒られたのは、軽トラが小道を抜けて青少年自然の里に続く車道に入って5分ほど走った後だった。前から走ってきた田代のワゴン車と遭遇し、全員が問答無用で降ろされた。
「荷台に子ども乗せて走るやつがおるか」
強面の田代にそう正論で叱られ、今度はあかりとゆきおちゃんがしゅんとしていた。
しかし、熊と遭遇したと聞いた途端、田代も顔色を変え、春香達の首根っこをひっつかむようにして、ワゴン車の後部座席に放り込んだ。そして、あかりを見る。
「えーと。あんた・・・・・・」
「ミオンです」
「ミオン。あんたも乗れ。ゆきお。お前は後ろから軽トラで着いてこい。とりあえず、施設に戻るぞ」
田代のワゴン車は8人乗りだった。
運転席に座る田代の後ろの2列目にあかり、3列目にナツを真ん中にして、春香達3人が乗る形となった。全員が乗り込み、バタンと扉が閉まって、ワゴン車が発進する。
「お前ら、子どもだけでどこ行こうとしてたんだ」
田代がハンドルを操作しながらバックミラーを覗いた。
チラリとナツと奈緒を見ると、疲れ果ててぐったりしている。仕方がないので、春香が答えた。
「・・・・・・展望台に」
「おお。こっから山登りするつもりだったのか。大したもんだ」
田代が豪快に笑った。
あかりがため息をつく。
「あんたら、覚悟しときなさいよ。施設の方は大騒ぎだろうから。すずが親にも連絡してるはずだし。説教どころの話じゃないわよ」
冒険の終わり。日常の再開。
春香は猛烈に現実逃避したい気持ちに襲われた。
美和子さん、ぶち切れだろうなあ。
「まあ、そう脅してやんなよ。よかったじゃないか。無事でなによりだ」
田代はまた笑った。
「そうだ。今さらなんだが、おっさんくさい車で悪かった。そういや、もらった香水があったわ。良い匂いでも嗅いでリラックスしてくれ。女の子はこういうの好きだろ」
田代が手元をごそごそすると、花のようなフレグランスな匂いが漂い始めた。正直、花の匂いを楽しむ気分ではなかったし、その香りは人工的でトイレの消臭剤のような匂いがしてなんなら不快だった。だが、おじさんなりに女の子に気を遣ってくれているので特に文句を言う気にはならなかった。あかりも後ろ姿から見て明らかに不快そうだったが、口に出すつもりはなさそうだ。
春香は他人に聞こえない程度にため息をついて、窓の外を眺めた。
林道を走っている。木の幹が次々と視界の前方に入ってきては、すぐに後方へ消えていく。
そんな中、木と木の間に、あの女がいた。
黒髪で、白い服。
そしてすぐに通り過ぎて後方へ消えていった。
そういえば、いたなあ。あの人。
熊との一件で恐怖心がバグってしまったのだろうか。前まであんなに怖かったあの幽霊もなんだか懐かしく感じるぐらいだった。
もしかしたら、この一件で度胸がついたのかも。
そう思って、一人にやりとしたところで、春香は面食らった。
また、前方から女が流れてきた。
驚いている間に、すーと車が通り過ぎて、木の間の白い服が見えなくなる。
と思っていたら、また前方に現れる。
通り過ぎる。
また現れた。
何度も何度も現れては後方に流れていく白い女。春香は流石に気味が悪くなった。どうしてここまで春香にしつこく執着するのだろうか。
春香は目をそらしたい欲求を感じながらも、目的が気になり、女を見つめた。そして気づいた。女はまた何かつぶやいている。それもこの前みたいにブツブツではなく、大口を開けて、まるで口の形で読み取ってくれと言わんばかりに。
春香は目をこらした。春香の眼鏡は雨やら泥やらで汚れまみれだったが、その隙間を縫うようにして目をこらす。
女の口の動きはどうやら3文字。女が視界を通り過ぎる度に、春香は一文字ずつ読み取る。
「ニ」
「ゲ」
「テ」
ニ・ゲ・テ。にげて。逃げて。
え? 何から?
春香は後ろを振り返ってナツの方を見た。助言を仰ごうと思ったのだ。
しかし、ナツと奈緒は肩を乗せ合うようにして、スースーと寝息を立てていた。
「疲れたんだろう。眼鏡のお嬢ちゃんも、一休みしな」
田代がバックミラー越しにそう語りかけてきた。
その言葉が妙に遠くに感じた。
視界がぼやけてきた。
猛烈にまぶたが重くなる。
人工的な甘い香りが鼻腔を満たしている。
いつの間にか、車は止まっていた。
ゆっくりと田代が座席から身を乗り出して、こちらを見た。にっこりと細められた目が茶色いサングラスの奥に見える。
そのサングラスの下、口元に見慣れぬ機器が装着されていた。
ガスマスク?
前の席のあかりが異常に気が付いたのか、声を上げる。
「あ、あんた、にゃにして・・・・・・」
呂律が回っていなかった。
田代はそんなあかりをちらりと一瞥すると、その顔に、なんの躊躇もなく拳を叩き込んだ。
ゴッ
と鈍い音と同時に、あかりの後頭部が背もたれにぶつかり、座席が振動する。あかりの体がずるりと脱力した。
に、逃げなきゃ。
春香は田代の視線から逃げるようにドアの方に顔を向けた。自分の動きが遅い。
外に出て、後ろのゆきおちゃんに助けを求めるんだ。
ドアの取っ手に手を伸ばし、引っ張るが、いつの間にかロックがかかっていた。その取っ手にかけた指の力もどんどん抜けていく。
すがるように窓を見る。
木の間に女が見えた。
泣きそうな顔で、口を動かしている。
「ご・め・ん・ね」
春香の意識はそこで途切れた。
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