【第4章】 星空キャンプ編 28
28
再び歩き出した私たちは、まだ雨ガッパを着ていた。雨はほとんど止んだが、木々の葉の上に溜まった水が水滴になって時折降ってくるのだ。
空を見上げると、時折、雲の切れ間が覗く程度で、まだまだ厚い雲が空を覆っていた。
「もう、来ないかな。熊」
奈緒がナツに尋ねる。ナツは数秒間、黙り、それから答えた。
「熊が人を襲う条件は限られているわ。多くの場合は四つかしら」
ナツは肩越しに手の平を出し、指を折りながら言った。
「その一。突然ばったり会って驚いた時」
「その二。自分の身や家族を守ろうとした時」
「その三。自分の獲物や食料を奪われそうになった時」
「その四。人間を『敵』だと認識した時」
春香は首をひねった。
「そのどれとも当てはまらないんじゃない。さっきの熊は」
「そうね。もしかしたら、私たちが何かしら『敵』認定されることをしてしまったのかも」
春香はより首をひねった。私たちが何をしたというのだ。この森に入ってから、まだチャンバラしかしていない。
「純粋に私たちが『食料』なんじゃないの?」
奈緒が真顔で恐ろしいことを言った。
「ヒグマならともかく、ツキノワグマだからね。その線は薄いと思う。でも、無いわけじゃないわ。人が襲われて食べられた事件はいくつもある」
ナツは手をすっと降ろした。
「それに、さっき上げた要因はもちろん、あくまで『多くの場合は』であって、絶対じゃないわ。人間でも理由も無く人を襲うやつもいれば、自分の子どもを殺そうとする狂ったやつもいるわけでしょう。熊の中にだって異常なやつがいてもおかしくない」
ナツは懐中電灯のスイッチを切った。日差しが大分差し込んでくるようになった。
「なんにせよ。あれだけ脅かしたんだもん。もう会うことはないわ」
その時、「グオオ」と言ううなり声が響いて、春香とナツは飛び上がった。
嘘でしょ。
急いで周りを見渡す。
どこにも熊の姿はなかった。
その代わり、照れ笑いする奈緒がいた。
「ごめん。びっくりした? やってみたら思ったより似ちゃった。グオオ」
ナツが奈緒の頭をはたくのと、春香が奈緒のお尻を蹴り上げるのはほぼ同時だった。
ナツが言っていたキャンプ場の跡地に着いたのは、それから十数分歩いた後だった。
春香達は木々の間を縫うようにして歩いていたら急に視界が開けたので驚いた。
キャンプ場跡と言うから、木製のロッジやらの廃墟が並んでいるのを想像していたが、だだっ広い草原だった。小学校の運動場ぐらいの広さがあるだろうか。
「うわあ。すごい。サッカーできそう」
奈緒がフードを脱ぎながらそう言ったが、実際には難しいだろう。確かに、遠目に見ればサッカーが出来そうな芝生に見えなくもないが、実際に入ってみると、草が膝の辺りの高さまで伸びていた。やはりあくまで跡地であるため、手入れがされていないのだ。
「展望台はここを抜けてまっすぐよ。あっち側に山に続く遊歩道があるはず」
3人は蛇が潜んでいないか不安になりながら、慎重に歩を進めた。この際、奈緒が嬉しそうに持っていたクヌギの棒が大いに役立った。奈緒が先頭に立ち、足元を棒でぶんぶんしながら草を払い、ずんずん進む。
奈緒が口ずさむ楽しげな歌が、耳に心地よかった。開けた草原を雨上がりの湿った風が吹き抜ける。
順調に歩を進めて、広場の中程まで来たときだろうか。
ナツが歩みを止めた。
奈緒も止まった。
春香も事態に気がついた。
ナツがぼそりとつぶやく。
「なんなのよ・・・・・・」
その声が気丈なナツとは思えないほど震えていて、その瞬間、3人全員の心がポッキリと折れたのを感じた。
前方の林から、あの黒い獣がゆったりと現れた。
四本の足で、足下の草を、そっと優しくかき分けるように、一歩一歩と歩んでくる。わずかに左右に上体をゆらすその歩き姿は優美であると言ってもよかった。何の迷いもなく、春香達の方に一直線に向かってくる。まるで、待ち合わせの相手が現れたとでも言うように。
先回りされた?
春香は膝をつきそうになった。あれほどやったのに。なんでまだ追ってくるんだ。なんで私たちにこれほどまでに執着するんだ。なんで。
熊は咆哮しなかった。うなり声も上げなかった。ぐるぐると円を描くこともしなかった。
ただ、ゆっくりと、春香達の方へ進んできた。
真っ暗だったさっきと違い、雲の切れ間から筋となった光が降注いでいる。雨に濡れた黒い毛の先も、熊の首の下にある白い三日月のような模様もよく確認出来た。
熊の大きな鼻の上にある目は真っ黒だった。それが雨の滴だろうか。滑らかに光っていた。
奈緒がさっき言っていた。自分たちは「食料」なんじゃないかと。
違う。春香は思った。無論のこと、春香に、獣の感情なんて読める訳がない。でも感じた。今、それが春香には断言できた。
私たちは食料なんて生やさしい物としては見られていない。
私たちは「敵」なんだ。
この揺るぎない感情。現代社会ではほぼまず一切向けられることが無い感情が、漆黒の目からむき出しで伝わってきた。
殺意だ。
後ずさりしたところで意味なんか無い。この熊は、確実に自分たちを殺す。
「ナオちゃん。花火、さっきのがラストだったわよね」
「うん・・・・・・ もう・・・・・・ないよ」
春香は二人の会話を聞いて、完全に絶望した。
もう終わりだ。殺されるんだ。3人ともここで。
春香は、目をつぶった。まぶたに力はこもっていない。すっと閉じ、また、穏やかに開けた。まるで自然と夢から目が覚めた時のように。
なんで忘れていたんだろう。
そうだ。この3人の中で、私は、私だけは。
死んでいいんだ。
そして、すっと、二人の前に出た。ゆったりと鉈を両手で構える。
「わ、私が戦うから」
鉈の切っ先は小刻みに震えていた。自分の声も、震えている。でも、自分の中で迷いはなかった。
私のせいで、シズカは死んだ。もう一人の私である、双子の姉。
じゃあ、私一人が生きていていいわけないじゃないか。
私を生かすために死んでいった姉のように、今度は私が二人を助けるんだ。
「私が食べられている間に、二人は逃げて」
ナツと奈緒が息を飲む。
時間が止まったかと思った。
止まってくれたらいいと思った。
でも、熊はゆっくりと近づき続けていた。あと、10メートルも離れていなかった。
しかし、ナツは動かなかった。春香の横に立ち、拳を作る。
「え? なっちゃん?」
春香は焦った。早く逃げてくれないと。私が死ぬ意味がない。
奈緒が木の棒を構えた。ナツにもらったクヌギの棒を。
「私もいる」
奈緒は決めたのだ。ナツとここで死ぬと。
春香はどうすればいいのかわからなかった。
一つだけわかるのは、例え3人で戦っても、絶対に勝てないと言うこと。
おそらく3人のうち誰かが生き残るためには、一人が残って、熊に殺される間に、他の二人が逃げる。それが唯一の道だ。それでも逃げ切れるかはわからない。だが、可能性はあるのだ。
でも、このままではみんな死んでしまう。確実に。だめだ。そんなの。
熊が近づく。あと5メートルもない。
春香はわからなかった。どうすれば良いのか。
春香は決められなかった。
正解がわからないから。
正解なんてあるかもわからないから。
こんな時、春香はこれまでずっと、一人の少女に聞いてきた。
その子なら、絶対に答えてくれたから。
きっと助けてくれたから。
だから、春香は言った。
「助けて」
震えた手で鉈を構えながら、春香は言った。
「助けてよ」
春香は叫んだ。森に向かって。空に向かって。大声で。喉が裂けるほどに。
「助けてえ! おねえちゃああああん!」
「うわああああああああ!」
春香を上回る大声が、広場に響き渡った。
春香達の背後の森から、一つの人影が飛び出して来た。ものすごいスピードで走ってくる。
ナツも、奈緒も、熊でさえも、動きを止めてその人物に注目した。
草むらを駆け抜け、水たまりを飛び越え、石を蹴飛ばして、彼女は走ってきた。そして、春香達と熊の間に割り込み、両手を広げ、怒鳴った。
「私が相手だあああああああ!」
春香の頬をぽろりと一筋だけ、涙がこぼれた。
一人の姉、岸本あかりの背中が、そこにあった。




