表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キャンプをしたいだけなのに【2巻発売中】  作者: 夏人
第4章 ずっと側にはいられない
93/230

【第4章】 星空キャンプ編 26


 26


 3人と熊はにらみ合ったまま、しばらく動かなかった。

 茂みの中で、熊は二足歩行で立っているようだった。のそっというか、ぬらりというか、そんな表現がふさわしい立ち方だ。

 立った状態で、背丈は春香と同じか、春香の方が高いぐらいろう。しかし、その存在感から、体重は春香とは比較にならないことが感覚でわかった。

「目を離さず、ゆっくり、後ろに下がるわよ」

 ナツの冷静な指示が背後から聞こえる、ナツが少しずつ後ろに下がっていく。それに合わせて奈緒も後ろに下がる。

 ナツは懐中電灯で足下を照らしながら、器用に下がっていく。奈緒もチラチラと足下を確認しているのがわかった。足下は石ころや木の根だらけだ。そうしないと転んでしまう。

 しかし、春香はそうはいかなかった。熊と位置的に一番近い春香は、熊と目を離す事ができなかった。 一瞬でも春香が視線を切れば、あの熊は突っ込んでくる。その確信があった。

 ちょんと、春香の右手に何かがあたった。恐る恐る握ると、クヌギの棒であることがわかった。その棒がゆっくり後ろに引かれる。奈緒が誘導しようとしてくれているのだ。

 春香は奈緒の誘導に従いながら、ゆっくりと後退を始めた。

 ナツが道筋を確認し、奈緒が春香を誘導し、春香は熊から目を離さない。無数の雨粒が、熊と春香の間に落ちていく。3人はじりじりと、亀の歩みのようにゆっくりと熊との距離をとる。


 永遠に思える時間をかけて、ようやく熊が木々の間に見えなくなった。


「よし。前を向くわよ」

 ナツの一言で、全員、同時に前を向き、早足で進んだ。心臓がバクバク音を立てている。

「ルート変更。ハイキングコースに合流するつもりだったけど、このまま南にまっすぐ進むわ。途中で昔のキャンプ場跡にぶつかるはず。そこで再度ルート選択をしましょう」

 ナツの声はいつも通り冷静だったが、予想外の自体に動揺しているのが雰囲気でわかった。

「あの熊、フェンスに穴を開けたやつかなあ」

 奈緒は泣きそうな声色だった。

「でしょうね」

 ナツがざくざくと歩を進めながら背中で答える。

 春香は少し悩んでから、口を開いた。フードの上にたまっていた雨水がべシャリと落ちる。

「・・・・・・引き返すべきじゃ、ないかな?」

 二人は沈黙した。「ここまでしといて引き返せるわけないでしょ」とは二人とも言わなかった。そこまで愚かではないのだ。熊との遭遇。それは小学生女子3人が対処できるレベルを遙かに超えた有事であった。

 しかし、ナツは言った。

「残念だけど、それは無理ね」

 奈緒が不安げに「どうして?」と尋ねる。

「ツキノワグマは基本的に縄張りを持たないとされてるけど、行動範囲はある。フェンスに穴を開けたぐらいなんだから、施設のまわりは熊の行動範囲だと思っていいわ。施設に向かって戻るって事は、そんな所にわざわざ突っ込んで行くことになるわ」

 つまり、私たちはもうすでに熊の出没地域に初めから入ってしまっていたのだ。

「もう方法は一つ。熊の行動範囲の外まで、私たちがさっさと出てしまうの。だから、先に進むしかない」

 そう言って、ナツは一層歩みを速めた。

 正直、ナツの判断が正しいかはわからない。仕方がないことだ。ナツだって熊の専門家ではないのだから。その時に最善だと思われる事をするしか無い。

 それに、背後に熊がいるかもしれない状況で、「じゃあ、引き返そう」とその背後に向かって、踵を返すことなど出来ようはずも無かった。

 3人は無言で足を進めた。

 雨音と、3人の息遣いと、小枝を踏む足音だけが森に響いた。


 どれくらい歩いただろうか。

「止まって!」

 ナツが押し殺した声でそう言い放った。

 3人同時にピタリと動きを止める。

 耳を澄ます。

 雨音と、3人の息遣いと、小枝を踏む音。

 小枝を踏む音?

 自分たちは動いていない。なのになぜ、足音がするんだ。

 春香は事態に気づいて悲鳴を上げそうになった。

 熊が、すぐ近くにいた。

 春香の右隣に数メートル、木々の間を縫うようにして、四本足で歩いている。じっとこちらを見ながら。

 気づかなかった。とっくに追いつかれて、併走されていたのだ。

 さっきは茂みの隠れて見えなかった全身が露わになる。丸みを帯びたシルエットは、その大きさに見合わない筋肉量を感じさせた。のそりのそりと動かす前足には異様にとがった爪が見える。

 熊は併走をやめた。ゆっくりと、木々を縫うようにして、ナツ達3人の周りをぐるぐると回り始めた。 半径は5メートルあるか無いかだ。

「なに? なんなの」

 奈緒が泣きそうな顔をする。

「どうする? 逃げる?」

 ナツが「ふー」と息を吐き、呼吸を整えた。

「いえ。無理よ。熊は車並みのスピードを出せるもの。すぐに追いつかれるわ」

 春香も案を出す。自分の声は滑稽なほど震えていた。

「き、木に登るのは? 体、重そうだし、諦めるかも」

 その案をナツは即座に否定した。

「ツキノワグマは木登りが大得意よ。むしろ追い詰められるわ」

 奈緒が完全に取り乱した。

「じゃ、じゃあ! どうするのよ!」

 ナツは両目をつぶった。

「ナオちゃん。春香」

 目を開く。腹をくくった。そんな表情だった。


「戦闘準備」


 その一言で通じたのだろう。奈緒が即座にしゃがみ込み、リュックを漁り始めた。

 ナツが春香のリュックを掴んで、無理矢理下に引っ張った。たまらず春香がしゃがみ込むと、ナツは春香のリュックを開け、鉈を取り出し、鞘から引き抜いた。

 熊もこちらの雰囲気が変わったのに気が付いたのだろう。動きを止め、こちらに向き直った。

「ナオちゃん! 急いで!」

 春香が後ろを振り返ると、奈緒が「30連発」と書かれた花火の筒を取り出した所だった。着火用の紐に火を付けようとしている。

 熊がうなり声を上げ、一歩こちらに踏み出してきた。すかさず、ナツが鉈の鞘を投げつける。熊は一瞬ひるんで一歩下がった。

 後ろで、花火の導火線に火がついた。パチパチと音がする。でも、まだ導火線だ。花火が飛び出すにはまだ数秒かかる。

 熊が咆哮した。「グオオ」とでも表現すべきか。犬とは比べものにならない低く重い鳴き声。

 

 春香はとっさに近くにあった小石を投げつけた。熊の鼻の頭にクリーンヒットする。熊は数回、首を横に振り、じとっと春香を睨み付けた。

あ、やばい。つっこんでくる。

 春香の直感は当たった。

 熊がノーモーションで接近してきた。あっという間に数メートルの差を縮められる。

 その次元の違うスピードに戦慄する。

 やばい。

「伏せて!」

 奈緒の叫びと同時に、春香の雨ガッパのフードをナツが下方向に勢いよく引っ張った。ナツと二人で地面に倒れ込む。


 パーーン!

 

 頭上を閃光が通り抜けていった。

 熊がびくりと体を震わせた。

 奈緒は倒れた春香に覆い被さるようにして、両手を伸ばして構え、筒を熊に向けた。まるで銃のように。

 パーン! パーン! パーン!

 連続で発射された花火の飛び方は、直線とはほど遠かった。

 熊のはるか上空に飛んでいくか、熊に届くこと無く地面に吸い込まれるか、あさっての方向の木の幹に当たって弾けるか。武器とは言いがたい。当然だ。この筒の本来の用途は地面に置いて上空に打ち上げる物なのだから。事実、筒にはくっきりと「手に持って発射しません」「人に向かって発射しません」と書いてある。

 しかし、その音と光で十分だった。

 熊は初めて見るであろう光景に大いに恐れおののいたらしい。

 熊は瞬時に踵を返すと、振り向くこともせず、あっという間に林の奥の暗闇に消えていった。


「え? 行った?」

 奈緒が信じられないと言う表情で熊が消えた暗がりを見つめた。筒からは未だに閃光が出続けている。

 パーン! パーン! パーン!

 花火が春香のすぐ近くの地面に落ちて弾けた。火花が頬に飛んできて春香は悲鳴を上げる。

「ナオちゃん! 上! 上に向けて!」

 奈緒が慌てて立ち上がり、花火を上に掲げた。

 数秒間、3人は沈黙する。

 そして、花火の筒をトロフィーのように掲げて、奈緒が叫んだ。

「やったあ! 勝ったあ!」

 ナツと春香も立ち上がった。

「よっしゃあ!」

「よし!」

 極度の緊張の反動だろうか。3人は思い思いの勝利の雄叫びを上げた。

 奈緒が調子に乗って「ファイヤー!」と叫びなが筒を上方のいろんな角度に傾けた。まるで光のシャンパンだった。

 ナオちゃん。正しい発音は「ファイヤー!」じゃなくて「ファイア!」だよ。「Fire!」

 すずの受け売りで春香が笑いながらそう指摘しようとしたとき、発射された花火の一つが数メートル先の木の枝で弾け、3人の上に火の粉が降注いだ。

「熱い熱い熱い!」

 3人は火の粉から逃げ惑った。しかし、花火の筒を持った奈緒も逃げ惑う物だから、閃光は次々に付近の枝や幹にぶつかり、四方八方から火花が飛んでくる事となった。

 パーン! パーン! パーン!

 ナツが叫ぶ。奈緒が叫ぶ。春香も叫んだ。

 ようやく、花火が30発で終わった頃には、三人とも地面に転がっていた。まったく、雨ガッパを着ていなかったらどうなっていたか。

 誰からともなく、笑い出した。

 雨が降注ぐ中、木の根っこと落ち葉と小枝だらけの地面に寝転がって、泥だらけになりながら、雨に大口を上げるようにして、3人は笑い転げた。


 徐々に雲の切れ間が見え始めた。光が筋になって差し込む。

 雨が、止もうとしていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ