【第4章】 星空キャンプ編 25
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ゆきおちゃんは迷っていた。
もしかしたら、声をかけない方が、優しさかもしれないと。
しかし、どうせ向こうを向いている彼女も、背後の自分の気配には気づいているだろう。気づかないふりをして通り過ぎるのは無理があった。
だから、迷った末、ゆきおちゃんは声をかけた。
「・・・・・・何を、してるんですか?」
対して、ゆきおちゃんにお尻をつきだす状態でフェンスの穴に挟まっている岸本あかりは、これ以上ないだろうというほどの低い声で答えた。
「・・・・・・見て、わかんないの」
わからなかった。
それからたっぷり数分間かけて、ゆきおちゃんにフェンスから力尽くで引っこ抜かれたあかりは、あまりの屈辱に感情を抑えることが出来ず、赤面した顔で、思いっきりゆきおちゃんの肩を殴りつけた。
「痛い! なんで!」
「うるさい! さっさとトランシーバー貸しなさい!」
あかりがフェンスに挟まって、動けなくなってから、たっぷり一時間は経過していた。はやく他のスタッフに3人の逃亡を知らせなければならない。
「・・・・・・それが、今朝から見当たらないですよ。僕のトランシーバー」
「はあ? 何でよ! 管理ずさんすぎるでしょ!」
「わかりませんよ。ていうか、ミオンさんも自分のトランシーバーで連絡すればいいじゃないですか」
「私のもないのよ!」
「何ですかそれ。よくそれで僕に怒鳴れますね」
あかりは下唇を噛んだ。どうせあの悪ガキどもだろう。奈緒に部屋に連れ込まれたとき、もっと警戒すべきだった。道理で、形だけの謝罪に一切気持ちがこもっていなかったわけだ。
走り去っていく3人の姿が思い出された。奈緒が振り向きざまに舌を出しながら中指を立てる姿も。
怒りが再び沸騰し、小首をかしげて突っ立っているゆきおちゃんの太ももを感情のままに蹴りとばした。
「痛い! さっきからなんなんですか!」
「携帯は持ってんでしょ! 誰か連絡とれる相手は?」
「・・・・・・すずさんなら」
「早くかけて!」
ぶつぶつ文句を言いながら電話をかけたゆきおちゃんから、携帯電話を奪い取る。
数コール後、すずのいぶかしげな声が電話機から聞こえた。
『・・・・・・何? ゆきおくん』
「私よ。ミオン」
あかりは事の顛末を簡潔に伝えた。
すずは息を飲みながら聞いていたが、ミオンが話し終えると、いつも通りハキハキとした声で言った。
「わかった。大野ディレクターに伝えて、すぐに全スタッフに情報共有するわ。3人の保護者にも私から連絡する」
あかりは事の次第を知って驚いているゆきおちゃんを目の端に捉えながら、「私はどうすればいい」と指示を仰いだ。こういう時は独断で動かない方が良い。
「そうね。リーダー達は他の子を見てなきゃいけないし、私もすぐには動けない。逃げた方向を直接見ているミオン自身が探しに行くのが一番だわ。悪いけど、そのままゆきおくんと一緒に捜索にいってちょうだい。ゲートの田代さんに言えば、車の鍵は貸してもらえるわ」
あかりは「了解」と答えると同時にもうゲートに向かって足早に歩き始めていた。ゆきおちゃんが慌ててついてくる。
「見つけたらすぐに私の、この番号に連絡をちょうだい」
あかりは通話を切ると、ぽいっとゆきおちゃんに携帯を放った。ゆきおちゃんは意外な反射神経で携帯を片手でキャッチする。それを確認すると「走るよ」とあかりは駆け出した。
駐車場には何台か見慣れない車が停まっていた。子どもを直接迎えに来た親が何組か到着しはじめているらしい。
ゲート前のプレハブ小屋で、車の往来をチェックしていた田代警備員は「よお」と手を上げた。
「ゆきおと・・・・・・誰だっけ?」
「ミオンです」
人を見分けるのが苦手なのは本当らしいなと思いながら、ミオンは事態を矢継ぎ早に話した。
田代はあかりの話に目を丸くした。
「それで、その3人は森の中に入って行っちゃったのか」
「ええ。車を貸してください。私たち二人で探しに行きます」
田代は薄茶色のサングラスをくいっとやると、プレハブ小屋の中に一度引っ込み、すぐに鍵を持って出てきた。
「あの、手前の軽トラのやつだ。好きに使え。見つかったら、すぐに電話してくれ。俺もここを誰かに任せて、自分の車で追っかける」
あかりは「ありがとうございます」と言うと同時に踵を返し、軽トラに向かった。
「ゆきお。あんたが運転して」
「え? 僕ですか」
田代がゲートを開けてくれた。
あかりが助手席に座り、ゆきおちゃんが運転する軽トラが青少年自然の里を飛び出した。
ナツがひいひいと泣き笑いをしながら謝罪を口にしたとき、急に辺りが暗くなった。さっきまでの晴天が嘘のようにどす黒い雲が空を覆ったのである。
「・・・・・・一雨くるわね」
ナツの一言で、春香達はリュックからカッパを取り出した。これはもともとキャンプの持ち物リストにあった物だったので、全員それぞれ持ってきていた。ナツは紺色、奈緒は花柄、春香は半透明のものである。3人がカッパを羽織り終わったタイミングでポツポツと雨が降り始めた。
「行くわよ」
3人は行進を再開した。
先ほどと同じ、ナツ、奈緒、春香の順番だ。
ナツは相変わらずクヌギの棒を大事そうに握りしめていた。よっぽど気に入ったのだろう。奈緒が何度か「それ、ちょうだい」と交渉していたが、「ダメよ」とすげなく断られていた、
雨がやがて、ザーと音を立て始めた。
木々の葉に阻まれて、全ての雨が3人に届くことはなかったが、それでも、フードの先から滴が落ちるくらいには3人ともびしょ濡れになった。
視界は一気に悪くなる。さっきまでは光の回廊のようだった小道が、一気に暗くなり、夜中の宿泊棟の廊下のようだった。
足下も暗さでおぼつかなくなり、先頭のナツが懐中電灯を取り出した。そうすると、どうしても片手が埋まってしまう。ナツは渋々というようにクヌギの木を奈緒に下賜した。奈緒がよろこんでぶんぶん振り回すものだから、春香は自分にあたらないかとヒヤヒヤした。
「夜には止むかな?」
春香は奈緒に声をかけた。夜までこの雲があるようでは、天体観測など出来ようはずもない。
「うん。大丈夫なはずだよ。今日はずっと晴れマークだったはずだから。きっとこれも通り雨だよ」
奈緒が春香に向けて笑いかけ、「ねえ! なっちゃん」と前方に声をかけた。
ナツも「そうね」とこちらを振り向き、軽い笑顔を作った。春香を元気づけようとしてくれているのだろう。二人ともやさしいなあ。
だが、そのナツの表情が凍り付いた。
ナツはこちらを見たまま、歩みを止めた。懐中電灯で足下を照らしたまま、固まる。その目は春香の肩越しに後方を見ていた。
「なっちゃん?」
奈緒が怪訝な顔で、ナツの視線の先をおう。そして、奈緒も「ひっ」と短い声を上げて固まった。
自分の後ろの何かいる。
春香は、追っ手が来たのかと思った。確かにチャンバラをしたりして、時間をつぶしてしまったから、まっすぐ追ってこられたのならば、追いつかれても不思議ではない。でも、だとしてもこんな表情になるだろうか。
次に、あの女かと思った。こんな所までついてきたのかと。
しかし、あの女ならば、ナツはそこまでびびらないはずだし、そもそも霊感の無い奈緒には見えないはずだ。
春香はおそるおそる振り返った。
春香達の通ってきた小道には何もいない。
いたのはそのまた後方だった。5メートルほど後ろだろうか。小さな茂みがあった。子どもがちょうど一人ぐらい、隠れるか隠れられないかぐらいの小さな茂み。
そこから、頭が覗いていた。ぬっと。首を伸ばすように。薄暗い林の中、その大きな頭は真っ黒に見えた、いや、実際に真っ黒だったのだ。
じっと、こちらを見つめている。
奈緒が泣きそうな声でナツの名を呼んだ。
「なっちゃん・・・」
「静かに」
ナツは押し殺した声で言った。
「動かないで。しゃべらないで。目をそらさないで」
言われなくても、春香の体は固まってしまい、動きそうに無かった。
それでも、奈緒は我慢できなかったのだろう。蚊の鳴くような声で言った。
「なっちゃん・・・・・・ あれ・・・・・・」
その真っ黒な頭は低い吐息を漏らした。
「ブフォオオ・・・・・・」
地の底から聞こえてくるような重低音の息づかいだった。
「ええ」
ナツが、ささやくように言った。
「熊よ」




