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キャンプをしたいだけなのに【2巻発売中】  作者: 夏人
第4章 ずっと側にはいられない
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【第4章】 星空キャンプ編 24


 24

 

 後ろを振り返っても木々で施設が全く見えなくなったタイミングで、ナツが「きゅ、休憩しましょう」とつぶやいた。

 森に入ると、思った以上に日差しは遮られており、涼しいと言ってもよかった。

 とはいえ、真夏の気候の中を全力ダッシュしたのだ。3人は木々の根の間に倒れ込んだ。背負ったリュックを地面と体の間に挟むようにして、上を見上げる。汗が目に入りそうだ。大きな杉の木の葉の隙間から、夏の日差しがわずかに漏れ出て、幻想的に降り注いでいた。

 すーと天国のような風が木の間を吹き抜けていき、汗が徐々に引いていく。

 3人の荒い息づかいもだんだんと落ち着いていった。

 始めに立ち上がったのはナツだった。地図を取り出し、位置を確認する。

「今は多分、この辺りね。少し行けば車道があって、そこを通れば一番簡単に展望台までいけるわ」

 ナツは「でも」と汗でへばりついた髪をかき分けた。

「さっき、ミオンに見つかったことから、車道付近は追っ手が来る可能性が高い。あえて昔の遊歩道を通りましょう」

 昔はこの辺りはハイキングコースがいくつかあり、展望台の山に続いている道もあるらしい。その一つに合流しようというわけだ。ちなみに、昔のハイキングコースについては奈緒が杉施設長に詳しくリサーチ済みだ。何でも話すねおじいちゃん。

 春香と奈緒も立ち上がり、準備をする。タオルで汗を拭き、手持ちの虫除けスプレーを肌に振りかける。ナツはコンパスを片手に地図を凝視して動かないため、奈緒が「はい。なっちゃん立ってー。シューってするよー」「はい。後ろ回ってー」「一瞬だけ目をつむって息止めてー。はい。いいよー」

と虫除けスプレーを入念に振りかけてあげていた。実に甲斐甲斐しい。ナツはナツで地図から目を離さず、されるがままだ。いつものことなのだろう。

 ナツが地図を畳んで言った。

「さあ。行くわよ」


 3人は出発した。小さな獣道を通るようにして、ハイキングコースとぶつかるのを目指す。

 一時間は歩いただろうか。3人は時折、水筒を傾けて水分補給をしながらも歩みを止めなかった。

 歩く度に足の裏で踏まれた小枝が小気味のよい音を立てる。春香の前を歩く奈緒も上機嫌だ。意味もなく落ち葉を拾って投げたり、曲がった枝を拾い上げ、「ブーメラン!」と放り投げたりしている。

 先頭のナツも無言だが足取りが軽いように感じた。口笛が聞こえてきそうだ。

 かく言う春香も、気分が向上しているのを認めざるを得なかった。

 初めての友達。

 初めての冒険。


 こんなこと、全部初めてだ。


 思えば、美和子さんに引き取られて以来、春香は模範的な行動ばかりをしていた。

 簡潔に言うと、優等生だ。

 小学校には全く馴染めなかったが、勉強を頑張った。宿題は言われなくても毎日やったし、先生が「できる人はこれもやっておきましょう」と言うことも全部やった。体育は苦手だったけど、出来ない技には何回でも、できるまで何回だって挑戦した。弱音を吐いたことは一度もなかった。率先してお手伝いもしたし、掃除の時間は誰よりも真面目に取り組んだ自信がある。

 正直、楽しかった訳ではなかった。シズカなど、頭の中でいつも文句を言っていた。

『めんどくせえ』『何でこんなこと』『俺たちも遊ぼうぜ』『やってられねえよ』。

 そんなシズカをなだめつつも、春香は懸命にがんばった。人が嫌がってしないことほど、率先して前に出た。その生真面目すぎる行動のせいで、「いいかっこしいだ」と周りの子ども達から悪口を言われているのも知っていた。でも、春香は優等生であろうと全力を尽くした。

 先生たちは口々に春香を褒めた。

「いい子だねえ。本当にいい子だ。先生、助かるよ」と。

 その度に、春香は小さな満足感、まるで溜飲が下がるかのような感覚を覚えた。

 だが、それと同時に、「これじゃない」という感覚も常につきまとった。


 ある日、美和子さんがやろうとした夕食後の洗い物を半ば強引に奪い取って、せっせと皿洗いしている時のことだった。台に乗って洗い場に立つ春香の背中に向けて、美和子さんが言った。

「春香。春香は、別にいい子じゃなくていいんだよ」

 春香は答えなかった。振り向きもしないし、皿洗いの手を止めることもしなかった。

 そんな春香に、美和子さんは続けた。

「私は、ありのままの春香が好きだよ」

 いい人だなあと春香は思った。

 この人が、本当のお母さんだったらよかったのにと思った。

 初めから、この人の元に生まれていればよかったのにとも思った。

 でも、シズカが叫んでいた。

『お前じゃない』と。

『お前に褒められたいんじゃない』と。

『お前に認められたいわけでも、お前に好かれたいわけでも、お前に愛されたいわけでもないんだ!』と。


 春香は自分の歩みが次第にゆっくりになるのを感じた。前をおしゃべりしながら上機嫌で歩く二人と距離が開いていく。春香のさっきまでのワクワクした、火照ったような気持ちが、それこそ汗のようにすーと引いていく。


 美和子さん。

 美和子さんは春香の親戚だ。父方の叔母の子なので、従兄弟に当たる。

 つまり、あのマンションの一室に現れていた「パパ」の姪だ。しかし、美和子自身は親戚と言えど、父とはほとんど関わりはなかったらしい。なのに、引き取りを拒んだ父の代わりに、春香を引き取ってくれた。実和子さんは結婚もしていなかった。春香を受け入れれば、自分自身の家庭を持つという一つの道はほぼ完全に閉ざされる。それでも、春香を迎え入れてくれた。

 そして、自分の娘のように、今日まで春香を育ててくれた。

 美和子は春香を頑として父に会わせようとしなかった。親類なので会わせようとすればすぐに会わせられただろうが、それだけは絶対にしなかった。

 春香も別にそれはかまわなかった。過去に何度か会っただけの、作り笑いばかりをしていたあの男に、今になって会いたいとは春香も全く思わなかったから。

 最近になって、その父親が春香に会いたがっているという話を聞いた。美和子から直接聞いたわけではない。美和子が誰かと電話しているのを盗み聞きしたのだ。美和子は断固、断っているらしい。

 父が勝手に会いに来ようとするのを警戒しているのか、美和子の過保護が度を超え始めたのはその頃からだった。車での送り迎えが始まり、外出も一人ではさせてもらえなくなった。あの度量の広い美和子さんがそれだけ会わせたくないような男なのだろう。春香も会いたくないという意味では全く同意見だった。何を今さら。そう思った。

 だけど、母は別だった。

 シズカは常に母に会いたがった。ことあるごとに春香の中で叫んだ。

『いつになったらママに会えるんだ!』と。『ママのことを美和子に聞いてみろ』と。

 春香はその度にシズカを説得した。

 母は抵抗できない私たちを痛めつけたし、見捨てたし、なんなら、シズカが死んだのは母のせいだと。そんな人になんでいまさら会いたいんだと。

 それでも、シズカは母に会いたがった。

 根負けした春香は、一度だけ、母について美和子さんに尋ねた。母は今どこにいるのか。どうしているのかだけでも教えてくれないかと。

 美和子さんは父の時とはまた違う態度で、春香の要望を断った。

そして、「どうして、そんなことが聞きたいの」と悲しそうな顔をした。

 春香はその顔を見て、なんとなく、ああ、美和子さんも知らないんだなと思った。

 それ以降、シズカも美和子さんに尋ねろとは言わなくなった。知らないなら仕方ないし、シズカとて、  美和子さんの悲しむ顔が見たいわけではなかったのだろう。

 でも、こうしてシズカが会いたいと思っている以上、私たち二人はいずれ母と再会するんだろうなとぼんやりと思った。

 そう考えると、なぜだろう。会いたがっているのは、シズカの方なはずなのに。

 春香は「いい子」であろうとすることを、やめることが出来なかった。




 春香は、ふと、森の中で足を止めた。

 私は今、何をしているんだろう。

 施設からたくさん物を盗んで。

 いろんな人に嘘をついて。

 たくさんの大人を混乱させて。

 きっと、今頃、施設の中では大騒ぎになっているだろう。きっと心配されているだろう。美和子さんにも連絡が行って、美和子さんはきっと真っ青になりながら長野に向かってきてくれているのだろう。


「春香?」

「ハルちゃん?」

 急に立ち止まった春香に気づいて、ナツと奈緒が振り向いた。心配そうに春香を見ている。

 春香は下を向いていた。


 確かに、この行動には春香の中で揺るぎない理由がある。流星群を見るのだ。あの日、あの自分たち二人しかいないマンションの一室。寒い、冷たい、孤独なコンクリートの牢獄の中で、天窓を指さしながら二人で約束したのだ。「二人で流れ星を見る」と。あの約束を果たしに行くんだ。


 でも、シズカは、もういない。


 春香が追い出した。ずっと、支えてくれていた、助け合ってきたたった一人の味方であり続けてくれた姉を、春香は自ら突き放したのだ。

 春香は一人だ。独りだ。

 そして、今の自分は。


「・・・・・・いい子じゃ、ない」


 春香はつぶやいた。Tシャツの裾を握りしめる。

「私、今、全然いい子じゃない」

 奈緒が息をのんだ。奈緒もリュックの肩紐を握りしめたのが視界の隅に映った。その姿が涙でぼやけた。

「こ、こんな私、絶対にいい子じゃない。悪い子だ」

 春香はボロボロとこぼれる涙を手で拭った。でも止まらない。

「い、いい子じゃないと、いい子じゃないと」


 ママに嫌われる。


 春香はその場にかがみ込んだ。しゃくり声を上げ、顔を覆う。その手の隙間から、滴がこぼれ落ち、地面に吸い込まれていく。

 そんな春香を他の二人も何も声をかけることが出来ず、ただ見つめていた。


 何分経っただろうか。

 春香の体が、なにかにゆっくりと覆われた。

 奈緒だ。

 奈緒は春香に覆い被さるようにして、春香を抱きしめた。まるで初日の夜、春香が奈緒にしたように。

 奈緒自身も鼻を啜っていた。奈緒の体はちょっと汗臭く、少し、虫除けスプレーの甘ったるい匂いがした。

 でも、なんだか安心した。


 コン。

 春香のしゃくり声がようやく落ち着いた時、しゃがんでいる春香の頭が何か固い物でやさしく小突かれた。なんだろうと思った矢先に、再び、頭を叩かれた。一回目より遥かに強く。ゴン! と音を立てて。

「痛あ!」

 春香はたまらず、飛び上がった。抱きしめてくれていた奈緒も勢いで尻餅をつく。

「なっちゃん! 何するのよ!」

 春香は涙が乾ききっていない目で、ナツを睨み付けた。

 ナツは春香の頭を殴った木の枝で肩をトントンとしながら、顎を上げ、春香を見下すように言った。

「別に。なんかムカついたから。殴った」

「はあ?」

「怒った?」

「怒るでしょ! 急に頭、殴られたら!」

 ナツはにやりと笑った。

「じゃあ、やり返してみなさいよ」

 春香は再び「はあ?」と声を上げた。

 何言ってんだ。この子。

「なに? 来ないの」

 行くわけないでしょうが。なんでそんな脈略のないケンカをしなくちゃいけないのよ。そう春香が思った瞬間、

 バシッ

 春香の太ももにナツが驚く速度で棒を叩き付けた。

「いったああああ!」

「来ないなら、どんどんこっちから行くけど」

 そう言ってナツが次々に棒を振るう。ビシバシと春香の体を打つ。

「いたいいたいいたい!」

 春香は必死に両手を振り回してガードしたが、その手が容赦なく打ち据えられる。

「ほれほれ。素手で私に挑むとはいい度胸だ」

 別に挑んでいない。一方的に叩かれているのだ。

 春香は痛みを感じる度に、自分の怒りのバロメーターがどんどん上がっていくのを感じた。

 ナツが言った。

「見た目通り、運動神経はからしきね」

 バロメーターの針が、一気に振り切ったのを感じた。

 春香は地面に目線を走らせ、転がっている手頃な枝に飛びついた。拾い上げ、立ち上がりざまに枝を振るう。カン! と二つの枝がぶつかり合って、音を立てた。

 春香は叫んだ。

「ぶっつぶす!」


 急遽、幕が切られたチャンバラ大会は白熱を極めた。

 カンカンと木と木がぶつかり合う乾いた音が森に響き渡る。

 ナツと春香は棒きれを振り回す。途中から、奈緒も手頃な木の枝を拾ってきて、嬉しそうに参戦した。

 布陣は春香・奈緒の連合軍VSナツ単騎だ。2対1なので有利かと思われたが、ナツの圧倒的な身体能力はその差を凌駕してきた。

 不安定な足場の中、ナツは挟み撃ちされないように器用に立ち回った。木々の間をまるでウサギのように飛び回る。運良く春香が背後を取り、隙をついたつもりでも、驚くべき反射神経で、寸前で回避される。それでも、体格とパワーで勝る奈緒と連携することで、辛うじて戦線は保たれていた。

 打ち合いから数分が経過すると、他にも差があることが判明した。

 武器の性能である。春香と奈緒が握っていた杉の枝がナツの打撃によってほぼ同時に真っ二つに折れてしまったのだ。

「ふっ。素人ね。針葉樹より広葉樹の方が頑丈に決まってるでしょ」

 知らないよ。そんなこと。

「そして、これはそんな広葉樹の中でも、トップクラスの硬度を誇るクヌギの木よ!」

 ナツはクヌギの棒を高々と掲げる。

 奈緒が目を輝かせた。

「すごい! エクスカリバーじゃん!」

 ナツが自慢げに頷いた。

「そうね! エクスカリバーよ!」

 確かに、ナツがもつクヌギの枝はゆがみがあるものの、比較的まっすぐで、長さもそれなりにある。故に、剣と見立てられなくもないが。

 でも、6年生にもなって木の枝を聖剣扱いするのは恥ずかしくないのだろうか。

 ないのだろうな。この二人に限っては。

 そんな思いが表情に出ていたのだろう。春香に向かってナツが言った。

「春香。覚えておきなさい。男の子はいつだってヒーロー願望を抱えているものなのよ」

 いや。それ、男の子の話じゃん。

 奈緒が叫ぶ。

「なっちゃん! ちょっとタンマ! あたしも新しい剣、探すから!」

 ナツが叫ぶ。

「1分だけよ!」


 春香と奈緒が新しい剣(木の棒)を探し出し、戦闘が再開された。

相変わらず、ナツの身体能力は素晴らしかったが、流石に二人相手を長時間行うのは体力を使うのだろう。戦力が拮抗し、戦いが膠着化するにつれ、ナツの動きが徐々に鈍り始めた。

 よし、このまま二人でヒットアンドアウェイを繰り返し、体力を削り続ければ、勝てる。

 そう春香が内心でほくそ笑んだとき、ナツの疲労を感じてチャンスと思ったのだろう。奈緒が大胆に距離を詰めた。

「ダメ! まだよ!」

 春香が叫ぶのと同時に、奈緒の剣(木の棒)が宙を舞った。奈緒が衝撃で地面に転がる。

 まずい。一対一だ。

 ナツも自身の持久力の限界を感じていたのだろう。ここぞとばかりに勝負を仕掛けてきた。

 すさまじい連続攻撃。木の枝を持つ両手がしびれる。まずい。もう限界だ。

 でも、負けたくなかった。

 春香は腹を決めると、手に持った剣(木の棒)大きく振りかぶり、渾身の力で振り抜いた。

 ナツが待ってましたとばかりにエクスカリバー(クヌギの棒)で春香の剣(木の棒)を打ち払った。春香の剣(木の棒)が宙を舞う。

 その一瞬に全てを賭けた。

 春香は剣(木の棒)が手を離れた瞬間にナツに突っ込んだ。腰にしがみつく形で、ナツごと倒れ込む。予想外のタックルに驚いたナツの手から離れたエクスカリバー(クヌギの棒)が音を立てて転がっていった。

「ちょ! くそ!」

 ナツがあばれるが、春香は完全に腰をホールドしていた。もともと小柄なナツは抜けきれない。たっぷり、数十秒ねばって、ナツは諦めたように力を抜いた。

「やるじゃない」

「謝って! なっちゃん!」

 春香は腰に掴まったまま、ナツを下から睨み付けた。

 そんな春香の顔をナツは真面目な表情で見つめた。

「春香。私、チャンバラで負けたことないのよ」

 何が言いたいのかわからず、春香もナツの顔をきょとんと見返した。

「春香。あんたは強いわ。」

 ナツは両手で春香の顔を挟んだ。やさしく、でも、力強く。

「あんたはもう7歳の女の子じゃない。殴られたら、ちゃんとやり返せるの」

 春香は目を見開いた。その目をナツは見つめる。強く。

「あんたをいい子じゃないからって殴るやつがいたら、殴り返しなさい。春香。あんたには、今、それが出来るの。いい子かどうかなんて、気にするんじゃない。自分のやりたいこと、決めたことをやりなさい」

 不器用だなあ。なっちゃんは。

 自分とシズカと、母の問題は、そんなに簡単なことじゃない。そんなに単純なことでもない。

決闘のまねごとをしたぐらいで、言葉でちょっと良いように言ったところで、そんなことで何かが変わるものでもない。

 でも、それでも。


 ありがとう。なっちゃん。


「なっちゃん・・・・・・」

 春香は言った。

「でも、頭をなぐったことは、謝って」

 ナツは言った。

「嫌よ。謝らない」

 だから春香は奈緒に言った。

「ナオちゃん。今だよ」

 座り込んでいた奈緒がきょとんとした顔で春香を見る。

「こしょばして。謝るまで」

 奈緒はこれまでで、一番嬉しそうな笑顔でナツに近づいた。


 森に、ナツの悲鳴が響いた。





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